15 森上の事情
翌日の放課後、たった一時間ほどの練習を終えて、日置は早速、森上家に出向いた。
家に到着すると、森上はそっと玄関のドアを開けた。
「あ・・お母さん、帰ってますぅ」
森上は靴を確認してそう言った。
「そうなんだ。じゃ、上がらせてもらうね」
そして日置は「こんばんは」と言って、中にいるであろう母親に声をかけた。
すると奥から、「誰ですか」と母親が出てきた。
その後には、慶太郎もいた。
「お母さん~この人誰なん~」
慶太郎が訊いた。
「恵美子、遅かったやないの」
母親が叱った。
「あの、私、桐花学園で教師を務めております、日置と申します」
日置は丁寧に頭を下げた。
「ああ・・学校の先生ですか・・」
「はい」
「で、なんの用ですか」
「ちょっとお話したいことがありまして、来させていただきました」
「ちょっと恵美子、洗濯物取り込んで」
母親は、たった今帰宅したところであった。
「うん、わかったぁ」
そして森上は部屋へ入った。
その後を「お姉ちゃん~」と言いながら、慶太郎が追いかけた。
「で、なんの話ですか」
母親は仕事で疲れているのか、ぶっきらぼうに訊いた。
「娘さんのクラブ活動のことについてなんですが」
「クラブ?うちの子には、クラブさせる余裕なんかないんですわ」
「そう仰らずに、お話だけでもさせて頂けませんか」
「なんですの?うちの子が、なんか迷惑でもかけたんですか」
「いえ、とんでもないです。森上さんは、大変、素晴らしい身体能力を持っています。私は卓球部の監督を務めておりますが、彼女の素質を買っています」
「そうですか」
「それでですね、是非、娘さんに部活動を続けること、許可していただけませんか」
「先生の気持ちはありがたいんですけどね、さっきも言いましたけど、うちは余裕がないんですわ。見ての通り、こんなボロアパートに住んでましてね」
母親は、なぜか自慢げにそう言った。
「娘さんは、必ず全国レベルの選手になります」
「全国?それ、なんですの」
「インターハイです」
「あの、先生」
「はい」
「インターハイかチューハイか知りませんけどね、そんな夢物語聞かされても、迷惑なんですわ」
「夢物語ではありません。彼女なら、きっと成し得ます」
「いやいや、もうええですって。どうぞお帰り下さい」
母親は、手で追い払うようにした。
「あら、森上さん、どしたんや」
そこに、隣人の主婦が声をかけてきた。
「なんや知らんけど、この人学校の先生なんやけどな、まあ~おかしな夢を見てはってなあ」
「夢、てか」
「恵美子が全国へ行ける~言うてな、こっちの気も知らんと、まあ呑気なことですわ」
「全国て、なんですの」
「知りませんわ」
「甲子園か」
主婦はそう言って笑った。
「いやっ、田中さん。うちの子大きい言うたかて、男ちゃいますよ」
「でもさ、小学生の時やったか、恵美ちゃん、男子に交じって野球やっとたがな」
「あれも、なんやかんや言うて、引っ張られたんですやん」
「あの時、何本ホームラン打ったんかいな」
「なんか最多記録いうてたけど、っんなもん、何の足しにもならへんわ」
日置は二人の話を聞いて思った。
やはり森上は、とんでもない可能性を秘めている、と。
絶対に育てるべきだ、と。
「まあ、腹は膨れんわな」
「そやで。表彰状なんか、紙ですわ」
「あの・・お母さん」
日置が呼んだ。
「なんですの」
「森上さんは、中学の時、部活やってました?」
「まあ、弟の慶太郎は、まだ幼稚園でしたしね、私も家にいてたんで、なんかやってましたわ」
「もしかして、どこかの高校から引き抜きがありませんでしたか?」
「ああ、なんや、そんなんありましたけど、何の役にも立たんので、断わりました」
「それって卓球ですか」
「まさか。違いますよ」
母親はそう言ったが、その実、小谷田高校から声がかかっていたのだ。
森上は、中学では部活動を「それなり」にやっていた。
けれども、部自体はレベルが高いわけでもなく、監督も単なる卓球経験者だった。
そんな中、森上は一度だけ試合に出たことがあった。
もちろん、負けはしたのだが、森上の体格の良さと身体能力を見抜いた小谷田の監督、中澤は、日置と同様「育てれば大物になる」と確信していた。
そう、中澤は、為所のようなドライブマンを育てたかった。
かつて中澤は、為所を見て惚れこんだ。
「うちにほしい」と。
「森上さん、子供の頃に卓球をやったことがあると言ってたんですが」
「そうですか。知りませんわ」
「お母さん、それでは、平日だけでも練習に参加させてやってくれませんか」
「弟の世話をさせてるんです。恵美子がはよ帰ってくれんと、慶太郎は一人なんですわ」
「そうですか・・」
「だから、卓球の話は、なかったことにしてもらわんと、困るんです」
「あの・・では、週一度だけでも」
「お母さん」
そこに、洗濯物を取り込んで終わった、森上が出てきた。
慶太郎は、母親と森上に挟まれる形で日置を珍しそうに見上げていた。
「なんやの」
「私ぃ、卓球やりたいねんけどぉ」
「あんたね、そんな余裕がないって、わかってるやろ。それに慶太郎のこと、どないすんのよ」
「なるべく早よ帰るしぃ」
「お姉ちゃん~卓球の男の人~前に来てたやんな~」
慶太郎は、中澤のことを言った。
「こらっ!」
母親は、いらんことを言うな、とばかりに慶太郎を叱った。
「卓球の男の人って、どなたですか」
日置が訊いた。
「学校に来てくれ~って、言うてたやんな~」
慶太郎は、母親の気持ちも知らずに、事実を告げてしまった。
「それって、引き抜きじゃないですか?しかも卓球で」
「お母さん、そんなことあったぁん」
森上も、そのことは知らなかったのだ。
「知らん、知らん。もうええです。先生、帰ってください。ほらっ、慶太郎、いらんこと言わんと、宿題し!」
そして母親は、慶太郎を連れて中へ入って行った。
「先生ぇ・・すみませぇん」
「いや・・いいんだけど、きみ、中学で卓球部だったの?」
「はいぃ・・でもぉ、あまりやってませんでしたぁ」
「試合に出たことあるの?」
「一回だけぇありますぅ」
「そうなんだ」
日置は合点がいった。
なぜなら、試合に出なければ、目に留まらないからだ。
「そっか、きみ、引き抜かれてたんだね」
「そうなんですかぁ。知りませんでしたぁ」
「お母さんは、きみに内緒にしてたんだね」
「そうみたいですねぇ」
日置は思った。
声をかけた人物は、見る目がある、と。
おそらく、小谷田か中井田あたりだろうと、予想がついた。
なぜなら、山戸辺は富坂が辞めて、現在は誰が監督なのかもわからない。
三神は中学から自動的に上がって来る者たちばかりなので、三神はあり得ない、と。
「森上さん」
「はいぃ」
「今日はこれで失礼するけど、また話をしに来させてもらうつもりだから」
「そうですかぁ」
「今度は、お父さんと話をさせてもらうね」
「お父さんですかぁ・・」
森上は、気が進まない様子だ。
「お父さん、お忙しいの?」
「はいぃ・・毎日残業してますぅ」
「そっか。大変だね」
「お父さんはぁ、お母さんよりぃ、もっと反対なんですぅ」
「うん、わかった。それじゃ、日曜日はいらっしゃる?」
「はいぃ・・日曜日はいてますぅ」
「じゃ、明日学校でね」
そう言って日置は、森上家を後にした。
日置は、森上を諦めるつもりは一切なかった。
なんとか両親を説得して、練習に参加できるよう、何度も通うつもりでいた。
―――この日の夜。
「帰ったぞ」
父親の慶三が、たった今、帰宅した。
「お父ちゃん~おかえり~」
慶太郎が走って、玄関で出迎えた。
「おお、慶太郎、ただいま」
慶三は、慶太郎の頭をクシヤクシャと撫でた。
「またな~卓球の人、来てたで~」
「またか」
慶三は辟易としながら、部屋へ上がった。
「あんた、おかえりなさい」
母親の恵子は、慶三の食事を準備していた。
「おかえりぃ」
森上は、机に向かって宿題をしていた。
「おう。あ~あ、疲れた」
慶三はそう言いながら、ちゃぶ台の前にドスンと座った。
そう、慶三の体格は、とても大柄だった。
身長も180cm、体重は80kgで、けして太ってはないが、森上は父親に似たのだ。
「恵子、卓球の人て誰やねん」
「学校の先生やねん」
恵子は台所から返事をした。
「またか」
慶三は、中澤のことを言った。
「なんかさ~、全国へ行けるとか、アホみたいなこと言うてな」
「ほーう」
慶三は、夕刊新聞を開いていた。
「もちろん、断ったで」
「うん、そらそや。まったく、学校の先生言うんは、呑気やのう」
そこで恵子は食事をちゃぶ台まで運んだ。
「おお、来た来た」
慶三は新聞を横に置き、箸を持った。
「ええか、恵美子」
慶三が呼んだ。
「なにぃ」
森上は、机に向かったまま返事をした。
「お前は勉強しとけばええんや。っんなもん、スポーツなんか、邪魔なだけやぞ」
「・・・」
「勉強したら、就職もええとこ行けるんや。お父さんみたいなな、苦労せんで済むんやぞ」
「わかってるぅ」
「ほんまお前は、なんでスポーツ万能なんや。これが逆やったらなあ」
慶三は、頭と体のことを言った。
「お父さんの言う通りやで。勉強が一番大事。だから高校へ行かせてるんやからな」
恵子が言った。
森上は思った。
金持ちなんて望まないが、せめて部活くらいできる家庭に生まれたかったな、と。




