120 曇りを晴らす涙
その後、上田は地元の漁師から貰ったハマチを刺身にし、クロダイを焼いた。
日置も何とか手伝ったが、「きみ、料理は皆目やな」と上田に笑われていた。
日置は思った。
まさか上田と、こうして並んで台所に立ち、料理をする日が来るなんて、と。
人生なんて、良いことも悪いことも含め、何があるかわからない。
ただ言えるのは、人は変われるということだ。
どんなに落ち込んでも、どんなに悩んでも、ずっと続かないということだ。
今の自分を受け入れて、少しずつ前に進もう、と。
そうすれば、必ず以前の自分を取り戻せる、と。
そこで日置は、あることに気が付き愕然とした。
そう、森上の不調のことだ。
あの子は・・わけもわからないまま突然、不調に陥った・・
森上は・・
そうだ・・
僕みたいに・・不安に襲われ続けていたんじゃないのか・・
だから・・
森上は・・体育の授業は以前通りだ・・
でも・・卓球となると・・不調になった・・
そうか・・
僕も・・授業は平気でこなしていたが・・
卓球となると・・小屋へ行くと・・あんな風に・・
なんてことだ・・
僕は・・あの子の気持ちに気づいてやれずに・・
動けだの・・頑張れだのと言い続けた・・
森上・・ごめん・・ごめん・・
日置は、たまらず涙が出てきた。
「日置くん、どうしたんや」
日本酒の用意をしていた上田は、日置の様子に驚いていた。
「いえ・・すみません・・」
日置は涙を拭った。
「日置くん・・」
さすがの上田も唖然としていた。
「ええがな。よーし、これ、向こうに運んでや」
上田はすぐに、皿を運ぶよう日置に言った。
「はい・・」
そして日置は、皿や箸など、何往復かして運んだ。
やがて座卓には、魚料理と徳利が並んだ。
二人は向かい合って座り、上田が「どうぞ」と言って、日置に酒を勧めた。
日置は猪口を持って受けた。
そして日置も返杯した。
「さあ、食え食え」
「はい・・いただきます・・」
「ここのはな、大阪のとちょっとちゃうで!」
上田は精一杯、大きな声を挙げた。
日置は刺身を一口入れた。
「どやっ」
「はい、とても美味しいです」
「そやろ~これうまいんや」
上田も刺身を食べた。
「遠慮せんでもええで。食え食え。ああ~いかなごの釘煮もあったんや」
上田は席を立ち、台所へ行った。
日置は、上田の気遣いが嬉しかった。
「さあ~これも食え」
上田は、いかなごが入ったパックを日置の前に差し出した。
それから上田は、日置が泣いたことなどなかったかのように、地元の漁師の話や学校での話をした。
日置は、上田の気持ちが十分わかっていた。
上田さん・・ほんとはとても優しい人だったんだな・・
僕がここに来たのは・・偶然じゃなかったのかもしれない・・
「あの・・上田さん」
「なんや」
「僕・・実は・・」
「うん」
「今・・すごく悩んでまして・・」
「うん」
「卓球に気持ちが向かないんです・・」
「そうか」
「ちゃんとしないと・・選手を育てられないのに・・出来ないんです・・」
「うん」
「それで・・大阪を離れて、旅に出ようと・・それで・・」
「うん、ええがな」
「え・・」
「きみほどの人間が、そこまで悩んでるんは、よっぽどや」
「・・・」
「腹立つこと、嫌なこと、全部、ぶちまけ」
「え・・」
「我慢せんでええ。わし、聞いたるから、全部ぶちまけたらええ」
そうか・・口に出して・・不満を・・
僕は・・ずっと我慢ばかりしてきた・・
あの子たちのため・・そして森上のためと思うがあまり・・
いや・・それでいいと思っていた・・
全国へ行くためなら・・我慢なんて何でもなかった・・
でもそのことが・・僕を追い詰めていたんだ・・
「聞いてくださいますか!」
日置は突然、そう口にした。
「おうー、言え言え。なんぼでも聞くで」
「実は、僕、こんなことがあったんです」
それから日置は、森上と出会った時からこれまでのことを、ゆっくりと話し始めた。
上田は時折「そら、日置くんの気持ち、わかるわあ。なんじゃそりゃ」と共感していた。
「それでね、僕、こんなことも言われたんです」
日置は森上の母親、恵子に「たぶらかすな」と言われたことを話した。
「うわあ、酷いな。わしやったら、怒鳴ってるとこや」
「でしょう?それでも僕は、森上のためだと思って、ずっと我慢してきました」
「偉いな、日置くん。よう我慢したな」
「こんなことも言われたんです。疫病神だって」
「ええ~~!なんたることや」
「でもね、母親の気持ちもわかるんです。親なら子供を心配するのが当たり前ですから」
「日置くん」
「はい」
「今は、他人のことを思いやらんでええ。胸につかえてたことだけ言うたらええねや」
「え・・」
「きみは、不満を言いながら、まだ他人を思いやっとる。そんなん今は必要ないで」
「そうですか・・」
「ええから、全部、ぶちまけ」
「それで、こんなこともあったんです」
日置は、不満を話し続けた。
上田はずっと「そうかそうか」と頷きながら聞いてやった。
そして日置は、話し終える頃には、不思議なことに、雲がかかっていたような心に、晴れ間を見た気がしていた。
「日置くん」
「はい」
「きみは真面目や。いや、真面目すぎるくらいや」
「・・・」
「でもな、人間は誰しも完璧やない。自分だけで抱え込もうとするな」
「・・・」
「言いたいこと、言うたらええねや。もし、言えんのやったら、わしに電話して来たらええ」
「上田さん・・」
「わし、暇やしな。ええ話し相手になれるで」
上田は優しく微笑んだ。
日置は、また涙がこぼれた。
「うん、泣いたらええ。我慢せんでええで」
「ううっ・・ううう・・」
上田の目にも、涙がにじんでいた。
かわいそうに・・
日置は、ほんまに真面目や・・
だからこそ・・追い詰められとったんやな・・
それにしても・・よちよちて、なんやねん・・
日置は・・そんな年寄り相手にしてまで・・
なんちゅう・・ええやつや・・
「よーーし、もっと飲めよ」
上田は徳利を差し向けた。
「はい、いただきます」
日置は、もう涙も拭わなかった。
くしゃくしゃの顔で、猪口を持った。
―――一方、小島は。
自室でたった今、日置の手紙を読み終えたところだった。
先生・・
一人で行ってしまうやなんて・・
辛すぎるやん・・
私は傍にいてるて、言うたのに・・
でも・・先生は・・一人で色々と考えたかったんやな・・
うん・・そんな時もある・・
小島は、辛いであろう日置の心情を思いやった。
そんな日置は、こうして手紙をくれた。
自分を心配させないように、と。
小島は、もうそれでいいと思った。
そして帰って来たら、いつも通りに接しようと。
「彩華・・」
母親の誠子が、部屋のドアを叩いた。
「なに?」
小島はドアを開けた。
「先生からの手紙て、なんやったん?」
誠子は、二人に何かあったのだと心配していた。
そして誠子は部屋の中へ入った。
「先生な、ここのところ色々とあって、ちょっと悩んではるんよ」
「え・・どうしたんや」
「うん・・先生て、真面目やん?」
「うん、そらもう」
「なんかあっても全部一人で抱えはるし、その影響で、卓球を休むことにしはってな」
「え・・」
誠子は唖然とした。
あの日置が、と。
「それで、今、一人で旅行してはるんよ。その手紙やねん」
「そうなんや・・」
「今は、苦しいやろけど、私は傍で見守ることにしてん」
「そうか・・あんたも辛いな・・」
「いやいや、私は辛いことなんてない。辛いんは先生や」
「彩華」
「なに?」
「あんたこそ、一人で抱えなや」
「え・・」
「私に何でも話してや」
「うん、ありがとう」
「あまり無理せんようにな」
「わかってる」
そして誠子は部屋を後にした。
小島は思った。
自分は日置が心配でならない。
頼ってくれ、何でも話してくれと望む。
それは、誠子も同じなのだ、と。
そやな・・お母さんに心配かけたらあかんな・・
小島は手紙を封筒に入れて、引き出しに仕舞った。




