116 充電期間
その後、吉住の話によると、朱花が十八の頃、お客の中で好きな人がいた。
相手は吉住の上司にあたる男性だった。
吉住は上司から誘われては『安永』へ出向き、朱花とも親しくなるうちに、相談を受けるようになっていた。
けれども上司には婚約者がいた。
そのことで気に悩んだ朱花を、吉住は支え続けた。
朱花は上司を諦めた後も、吉住とは交流を持ち、やがて兄と妹のような仲になったのである。
ちなみに朱花が日置を誘った際に、「二人で会うのが嫌なんです」と言ったのは、日置を連れて行くための方便だったのである。
そして、朱花の友人が経営するスナックで会っているのは、吉住は『安永』へ通わなくなったためである。
友人の球子も、かつて『安永』で働いていたが、独立してスナック経営を始めた。
したがって球子も、朱花と上司、その部下であった吉住のことは、重々承知しているというわけだ。
「あはは、吉住さんのお話、ほんとに面白いですね」
「そんだけ笑ろてくれたら、話し甲斐があるっちゅうもんや」
「もっと聞かせてくださいよ~」
「タダでは聞かせへんで。もっと飲め」
「はいはい~飲みます~飲みます~」
日置は上機嫌になっていた。
そして座卓に、日本酒の徳利がずらりと並ぶ頃には、日置はすっかり酔っていた。
「日置くんて、真面目やなあ」
「そうですかね~」
「真面目、ええことやがな」
「でも僕、すごく悩んでるんですよ~」
「ほうー、何をや」
「僕ね、卓球が全てで生きてきたんですけど~、なんか最近ですね~、やる気が起きないんですよ~」
「そんなこともあるやろ」
「そうなんですけど~、こんな気持ちになったのって、初めてなんです~」
「日置くんな」
「はい~?」
「失敗したってええがな」
「え~」
「やる気が起こらんかってもええがな」
「そ・・そうなんですかね~・・」
日置は少しだけ、表情が強張った。
「きみ、今までエリートやったやろ」
「エリート・・?」
「卓球のエリートや」
「ああ・・そうなのかな・・」
「エリートいうんは、失敗したことがないから、失敗を恐れるんや。ほんで壁にあたった時には、どうしてええんかわからんようになるんや」
「・・・」
「でも、それでええがな」
「え・・」
「きみの人間性は、こないだ会うた時、ようわかった」
「・・・」
「それだけで十分や」
「・・・」
「気張らんかてええ。今は充電期間やと思え」
「充電期間・・」
「電池もな、なくなったらなんの役にも立たん。ただの棒や」
「・・・」
「せやから、よーう充電して、また始めたらええがな」
日置は酔いつつも思った。
確かに吉住の言う通り、自分は電池切れ寸前の状態なのでは、と。
残りわずかになっているからこそ、気力が萎えているんじゃないのか、と。
残りを使い果たした後・・どうなる。
ただの「棒」になるだけだ。
そうか・・僕には充電期間が必要なんだ・・
でも・・それって・・どれくらいかかるんだろう・・
一週間・・?
ひと月・・?
或いは・・一年・・?
そんな時間は・・僕にもあの子たちにもない・・
「ここな」
吉住が言った。
「はい?」
「映画監督や俳優なんかも、よう来るんやで」
「へぇー・・」
「みんな失敗して、壁にあたった経験のあるもんばっかりや」
「そうですか・・」
「そんな時な、悩みに悩んだ挙句、なんて考えると思う?」
「わかりません・・」
「ちょっとは考えてみぃや」
「うーん・・失敗を恐れない?」
「ちゃうで」
「失敗しても、へこまない」
「ちゃう」
「わからないなぁ・・」
「失敗しに行く、や」
「えっ・・」
「そしたらな、不思議なことにプレッシャーから解放されるんや」
「そうなんだ・・」
「失敗したらアカンて、普通は思うやろ」
「はい・・」
「でも、それやとここぞという時、踏ん張られへんのや」
日置は、ある意味、衝撃を受けた。
確かに自分は失敗をしないようにと、心掛けてきたし、それが当然だと思っていた。
同時に、あの子たちにもそう指導してきた。
いや・・勝つためにはそうしなければならない。
けれども、メンタルな部分では、失敗しに行く、という考えも、一理ある、と。
諦める「失敗」ではなく、勝つための「失敗」とでもいうのか。
まさに自分は「失敗」を恐れている。
やる気が起きないがゆえの「失敗」だ。
過去に全国で優勝し、教え子も全国優勝させ、素人を全国ベスト8に導いたというプライド。
その、体に染みついたプライドが潜在的にあり、今のままではズタズタに打ち砕かれるのは自明。
それはあの子たちのためではなく、自分自身の拘りが「失敗」を恐れているからじゃないのか、と。
そうだ・・充電して・・
また一からやり直せばいいんだ・・
三神に勝つとか・・全国優勝させるとか・・
そんな気持ちは一旦、横に置いて・・
初心に戻ればいいんじゃないのか・・
「日置くん」
「はい・・」
「充電て、どうやったらええか、わかるか」
「いえ・・具体的には・・」
「自分のやりたいことやったらええねや」
「え・・」
「例えば、酒を飲むんやったら飲んだらええ。旅行行きたかったら行ったらええ。自分がどうやったら気持ちよく過ごせるか、や」
「・・・」
「周りの人が見たらな、なにサボッとんねん、て思うはずやが、そんなんええねや」
「・・・」
「周りがどう見るかなんて、関係ないで」
「・・・」
「ほんならな、きっと卓球に戻れる日が来る」
「・・・」
「その時の日置くんは、誰よりもやる気に満ちた逞しい監督になってるで。僕は断言する」
「そ・・そうでしょうか・・」
「僕の話が聞きたかったら、遠慮せんでもええで」
「はい・・ありがとうございます」
「あ、それとな」
「はい」
「無理に元気出そうとしたり、頑張ろうとせんええで」
「・・・」
「充電期間は、わがまま放題やったらええねや」
「はい・・」
「よーし、この話はここまでや。まだ飲むからな、付き合えよ」
「はい!」
そして二人は、この後、約一時間にわたって飲み続けた。
吉住は酒に強く、酔いもせずに日置を笑わせていた。
日置は思っていた。
卓球と無関係の者と、こうして酒を酌み交わすことなどなかった。
これまで自分の周りでは「頑張れ」という者が山ほどいた。
いや、それしかいなかった。
けれども吉住は、「頑張らんでええ」と、真逆のことを言った。
そして実際、吉住と話すことで気持ちが解放され楽になった。
日置は、自分自身を追い詰めてはいけないことに、気が付いたのだった。
やがて店を後にした日置は、吉住と別れてマンションへ向かって歩いていた。
ああ~~いいお酒だったなあ・・
また吉住さんと飲みたいし、話したいなあ・・
朱花さんとも、また会いたいなあ・・
一人で店に行くと、驚くかなあ・・
「先生」
マンションの入り口で、小島が立っていた。
「ああ、彩ちゃんじゃない」
「先生・・飲んではるんですか・・」
「うん、それで今、帰りなの」
そこで小島は腕時計を見た。
まだ・・八時やん・・
これだけ酔っぱらってるってことは・・
練習・・やってないってことやん・・
「彩ちゃん、どうしたの?」
「どうしたて・・」
先生・・私の誕生日、忘れてはるんや・・
「どこで飲んではったんですか」
「えっとねー、そこ」
日置はフラフラしながら、あらぬ方向を指した。
どこやねん・・
住宅しかあれへんがな・・
「誰と飲んではったんですか」
「男の人」
「それ、誰ですか」
「知り合いの人」
「知り合いて――」
「彩ちゃん、しつこく訊くのはやめてくれないかな」
日置は、吉住とのことは、誰にも干渉を受けたくなかった。
それは小島に対しても、そうだっだ。
「先生・・」
小島は唖然とした。
けれども、すぐに気を取り直して「早く、部屋へ行った方がええですよ」と、日置に肩を貸した。
「ああ、ごめん」
そして二人で階段を上がり、305号室の前に到着した。
日置はドアを開けて「どうする?」と小島に訊いた。
そう、入るのか入らないのかを訊いたのだ。
また小島は唖然としたが、「入るに決まってるでしょ」とニコッと笑った。
中に入ると日置はすぐにソファで横になった。
「先生、お水、いりますか」
「ああ・・うん」
そして小島は台所へ行き、コップに水を注いだ。
先生・・誰と会うてはったんやろ・・
あんなに酔うやなんて・・
小島は、自分の誕生日など、もはやどうでもよかった。
日置が誰と会っていたのかが、気になって仕方がなかった。
「先生」
小島はテーブルにコップを置いた。
「ああ、ありがとう」
日置は起き上がって、水を流し込んだ。
「ねぇ、彩ちゃん」
「はい」
「悪いけど、テープかけてくれないかな」
「ああ・・はい」
小島はカセットデッキの再生ボタンを押した。
曲が流れだすと、日置は一点を見つめて聴き入っていた。
メロディーも歌詞も完璧に憶えていた日置は、三島の声に合わせて歌っていた。
「昨日までは当たり前で~明日も続くと思っていたぁ~何気ない日々の中で そう・・当たり前にぃ~悩み続けることさえも~苦しみから逃れることも~明日という日がきっと~変えてくれると思ったぁ」
まるで棒読みの歌は下手だったが、日置の声はとてつもなく切なかった。
小島は、胸が締め付けられる思いがしていた。
やがて曲が終わり、しばらく沈黙が続いた。
「先生・・」
小島が口を開いた。
「ん?」
「あの・・私、先生の傍にいてますから。ずっと傍にいてますから」
「え・・」
「先生が、なにか話したいなと思たら、私はいつでも傍にいてますから」
「彩ちゃん・・」
「それだけは忘れんといてくださいね」
「彩ちゃん・・ありがとう・・」
そして日置の目から涙がこぼれた。
小島はポケットからハンカチを取り出し、優しく拭き取ってあげた。
そこで日置は小島を抱きしめた。
「彩ちゃん・・」
「はい・・」
「僕ね・・しばらく卓球を休もうと思ってるんだ・・」
「・・・」
「でも、辞めるわけじゃないよ・・ちょっと休むだけ・・」
「そうですか・・」
「こんな僕でも、きみは傍にいてくれるの・・」
「もちろんです。どっかいけ言われても、行きません。ずっと傍にいます」
「ありがとう・・ありがとう・・」
小島は思った。
もう余計なことは言うまい、訊くまい、と。
ただ日置の傍で見守っていこう、と。




