115 料亭『吉乃』
―――「吉住さん」
高島屋の前で吉住を待っていた日置は、手を振りながらそう言った。
「おう、日置くん。待たせて悪かったな」
「いえ、待ってません。先日はありがとうございました」
日置は丁寧に頭を下げた。
「堅苦しい挨拶なんか抜きや」
すると日置は苦笑した。
「よし、まだ早いけど、行こか」
そう言って吉住は歩き出した。
「どこへ行くんですか」
「僕が懇意にしてる店や」
「そうですか」
「日置くん」
「はい」
「クラブ活動は、ないんか」
そこで日置は、一瞬、表情が曇った。
「きみ、卓球部の監督なんやろ」
「はい・・」
「朱花から聞いたけどな、インターハイ目指してるらしいがな」
「はい・・」
「まあええ」
吉住は日置の気持ちを察したのか、それ以上は何も言わなかった。
「それにしてもきみ、いつもジャージなんか」
「ああ・・そうなんです」
「あはは、せっかくの男前が泣くで」
「そんな・・」
そして二人は歩き続け、やがて『吉乃』という料亭に到着した。
ここは、日置のマンションからほど近く、『吉乃』の存在を日置も知っていた。
「ここやで」
「僕、この店、知ってます、というか、僕のマンション、あそこなんです」
日置は、マンションを指した。
「へぇーそうやったんか」
「はい」
「ほな今日は、なんぼ飲んでも歩いて帰れるな」
「え・・」
「まあええ」
そして吉住は、扉を開けて中へ入った。
「あ、太一さん、お久しぶりですね」
若い従業員が吉住を歓迎した。
「おうー」
「えらい早いですね」
「開店前やのに、すまんな」
「女将さん、呼んで来ましょか」
「いやいや、かめへん」
「ほな、いつもの個室でよろしいですか」
「うん、それでええ」
そして吉住は日置にも入るよう促した。
日置は戸惑いながらも、吉住に従った。
やがて二人は、中庭が見える個室へ案内された。
「ここ、ええやろ」
吉住が言った。
「とても落ち着いた部屋ですね」
「そやねん。座ろか」
そして二人は、座卓の前に向かい合って座った。
「ビール持って来て。ほんで料理は適当に」
吉住は従業員にそう言った。
「承知しました」
従業員は一礼して部屋を後にした。
「なんか、僕のわがままで、ほんとにすみません」
「なに言うてんねや」
吉住は優しく笑った。
「きみな。まあええ」
「なんでしょうか」
「いや、ええねや」
そして吉住は「あ~」と言いながら立ち上がり、中庭の前に移動した。
庭には、小さな池があり、時折、鹿威しの音がコーンと響いていた。
「とてもミナミとは思えんなあ」
吉住は、まだ日暮れ前の空を見上げていた。
日置は吉住の後姿を、見るともなく見ていた。
ほどなくして、ビールや料理が座卓に並べられ、二人は箸を突きながら話をしていた。
「吉住さんは、おいくつなんですか」
「なんぼに見える?」
「そうですねぇ、五十代前半・・ですか」
「あはは、みんなそう言うねや」
「違ったんですか・・」
「僕な、めっちゃ老けて見られんねや。これでも四十三やで」
「えっ・・」
日置は意外だった。
もしかすると還暦前かとも思っていたからだ。
「すみません」
「かめへん。それより、飲みぃな」
吉住はビール瓶を持って、日置に勧めた。
日置はそれを受け、吉住に返杯した。
吉住は思っていた。
自分に連絡してきたということは、きっと話したいことがあるはずだ、と。
けれども日置は何も言わず、自分の話を聞いているだけだ。
礼儀正しくて人当たりが良く、一見すれば、悩みなどない風に見えるが、こういう人間は、なかなか心を開かないものだ、と。
にもかかわらず、一回しか会ったことのない自分を頼って来たということは、かなり追い詰められているな、と。
「日置くんの趣味て、なんや」
「趣味・・ですか・・そうですねぇ・・」
日置は、あさっての方を向いていた。
この男・・趣味もないんか・・
ということは・・卓球一筋で生きてきたんやな・・
これは・・そうとうの卓球エリートやな・・
「まあ、趣味なんか、なかってもええ。打ち込むもんがあるだけでも幸せなこっちゃ」
「そうですね・・」
日置の表情が暗くなったことで、悩みの種が卓球であることを吉住は確信した。
「おもろい話、したろか」
「はいっ、是非、お聞きしたいです」
日置の表情は一気に明るくなった。
「僕な、大学受験の時、親戚の家に泊まらせてもろたんや。言うとくけど東京やで」
「そうなんですね」
「せやけどな、親戚いうたかて、所詮は大阪と東京やがな。日頃、交流なんかあれへんやろ」
「はい」
「僕な、これでも緊張しぃやねん。ほんで、とりあえずは従兄の部屋で話しとったんやけどな、これが長いのなんのって」
「話しがですか?」
「そや。ほんでやな、時計見たら、もう十二時まわっとるがな。言うとくけど夜中やで」
「はい」
そこで日置はクスッと笑った。
「もう試験当日やがな。ほんで僕は眠たいやらなんやらでやな、それでも、うんうん言うて、話を聞いとったんや。そのうちトイレ行きとうなったんやけど、行くには家族が寝てる部屋を通らんといかんねや」
「ほう・・」
「僕、これでも気ぃ使いやねん。起こしたらあかん思て、ずっと我慢しとったんや」
「あらら・・それは大変ですね」
「そのうちやな、従兄の話なんか耳に入るかいな。もう冷や汗タラタラや。ほんで体も震えてきよるしな」
「えぇ・・」
「もうあかん!我慢も限界や。一歩でも動いたら出そうやねん。言うとくけど小の方な」
「はい」
「ほんで僕は「トイレ行きたいねんけど」て、やっと言うたんや。そしたらどうなったと思う?」
「漏らしましたか・・」
「おじいやあれへんねんから、漏らすかいな。僕、十八やで」
「そしたら・・全速力で走ったとか」
「ちゃうねん。僕な、部屋の中のドアにもたれて話を聞いとったんやけどな、従兄が「トイレ、太一の後ろやで」言いよったんや」
「えっ!」
「そやねん。僕、トイレのドアにもたれかかっとったんや」
「あははは」
「もう僕な、アホやなと思たで」
「もっと早く言えばよかったですね」
「そやねん。僕、こんなんばっかりやで」
「あははは」
「ほんでやな、試験、落ちたっちゅうねん」
「ありゃ~・・」
「で、トイレ行って来るわ」
吉住はそう言って立ち上がった。
「あはは、どうぞごゆっくり」
日置は吉住の話を聞くのが楽しかった。
やっぱり声をかけてよかったと思っていた。
しばらくすると吉住は、女性を従えて戻って来た。
「どうも、いらっしゃいませ」
その女性は和服姿で、日置の前で手をついて、丁寧に頭を下げた。
「こいつな、僕のこれやねん」
吉住はそう言いながら、右手の小指を立てた。
日置は唖然とした。
吉住には、朱花の他にも女性がいたのだ、と。
「またそんなことを」
女性は呆れていた。
「違いますのよ」
女性はニッコリと微笑んだ。
「まあええがな」
吉住はそう言って座った。
「いや、こいつな、僕の嫁さんや」
「え・・」
日置はまた唖然とした。
朱花と浮気をしているのか、と。
「吉住の家内で、ここの女将をやっております、雪乃と申します」
「そ・・そうですか・・」
「日置くん、なんか疑っとるやろ」
「え・・いや、別に・・」
「雪乃、日置くんな、おそらく朱花のことを考えとるで」
「あらまあ、そうですか」
え・・奥さん、朱花さんのこと・・知ってるんだ・・
「朱花ちゃんも、ようここへ来てくれはるんですよ」
「そうですか・・」
「雪乃、もうええで」
「はい、わかりました。日置さん、どうぞごゆっくりなさってくださいね」
「ありがとうございます」
そして雪乃は部屋を出て行った。
「びっくりしたか」
「えぇ・・まあ・・」
「僕と朱花はな、若い頃、色々とあってな」
「そうですか・・」
「まあ、個人的なことやし、みなまで言わんけど、僕らは兄と妹みたいな関係やねん」
「でも・・朱花さんに、僕の方を向いてと、仰ってましたよね・・」
「あはは、あんなん挨拶みたいなもんや」
「え・・」
「とりあえずビール、と同じや」
それから吉住は「さあ、飲め飲め」と日本酒を勧めに勧めた。
日置もほどよく酔う頃には、気持ちもずいぶん解れていた。




