112 迷路の扉
―――この日の放課後。
日置は、ごく普通に小屋へ向かった。
今日から、頑張るんだ、と。
そして、昨日のことを彼女たちに詫びようと思っていた。
ガラガラ・・
扉を開けると、三人は準備体操をしていた。
「よーう、先生」
「あ・・中川さん、髪、切ったんだ」
日置はそう言いながら靴を履き替えていた。
そして、全くと言っていいほど興味を示さなかった。
「先生よ、もっとびっくりするかと思ってたぜ」
その実、一年三組では中川が髪を切ったことで、大騒ぎになっていたのだ。
残念がる者もいれば、似合ってると絶賛する者もいたりで、阿部と森上も例外ではなかった。
「特に興味はないよ」
「え・・私さ、卓球を頑張るために切ったんだぜ」
「ああ、邪魔にならないのはいいよね」
「そうさね。邪魔にならないよう切ったんだ」
「じゃ、それでいいんじゃないの」
「まあな」
そして三人は、体操を続けた。
阿部も森上も、まだ日置の機嫌が悪いと察していた。
やがて体操を終えた三人は、日置の前に立った。
「昨日は勝手に帰って悪かった」
日置はそう言って頭を下げた。
「もう、あんなことがないよう、気を付けます。ごめんね」
「いえぇ・・私が悪かったんですぅ」
「きみのせいじゃない。だから気にしなくていいよ」
「そうさね。あんなこともあらぁな」
「そうそう。私ら、もう気にしてませんので、よろしくお願いします」
「じゃ、練習、始めようか」
そして森上と阿部、日置と中川というペアに分かれて練習が始まった。
森上と阿部は、フォア打ちやショートなど、基本を行っていた。
「じゃ、中川さん」
フォア打ちを終えた後、日置が呼んだ。
「おす!」
「きみ、カットね」
「おーす!フォアカットだな」
「僕は軽くドライブ打つから」
「おーす!来やがれってんでぇ」
「じゃ、行くよ」
日置は、感情を一切出さず、ボールを送った。
中川は、送り返すも、ミスも多かった。
その度に「くっそー」と中川は、気を入れ直していた。
それでも日置は、淡々とボールを打ち続けるだけで、なんらアドバイスもしなかったのだ。
そう、日置の頭の中は「無」になっていた。
「先生よ」
中川が呼んだ。
「なに?」
「なんかさ、アドバイスとか、あんだろうよ」
「え・・」
「え、じゃねぇし」
「あ・・ああ、ごめん」
「ったくよー、なに考えてんだ」
「じゃ、行くよ」
「おーす!」
日置は気を取り直して、中川のカットを返し続けた。
「ボールは、もっと低く」
日置は打ちながらそう言った。
中川は懸命に拾い続けた。
「どこ送ってるの。ここに送らないと」
ミドルに送った中川に、日置は自分のフォアを指してそう言った。
「おーす!」
けれども日置は、単に返しているだけに過ぎなかった。
それは意識して打つというより、体が覚えた、いわば「惰性」のようなものだった。
体は覚えているから自然に動いているだけで、頭は「無」になっていたのだ。
そして時間は、どんどん過ぎて行った。
「先生よ」
「なに?」
「もう一時間も、フォアカットやってるぜ」
「え・・」
そこで日置は、小屋の時計に目をやった。
「バックカットしなくていいのかよ」
「ああ・・そうだね。じゃ、バックね」
日置は、中川のみならず、森上と阿部にも指示を出さないでいた。
「先生」
阿部が呼んだ。
「なに?」
「基本はもう終わりました。次は、なにしたらええですか」
「ああ・・じゃ、森上さん。中川さんとカット打ちやって」
「はいぃ」
「阿部さん、僕と打とうか」
「はい」
そして日置と阿部は台に着いた。
「うーんと、サーブから三球目、やろうか」
「はい」
「僕がレシーブだけど、その後、ラリーになると思うから、それも続けるようにね」
「はい」
「じゃ、サーブ出して」
そして阿部はサーブの構えに入り、サーブを出した。
日置は簡単に返し、阿部はそのボールを打ちに行った。
当然のように、阿部のスマッシュも日置は返した。
それを阿部は返すことができなかった。
阿部は、日置のアドバイスを待っていた。
「なに?」
自分を見つめる阿部を、どうしたのか、と日置は思った。
「え・・」
「なに見てるの」
「・・・」
先生・・
なに言うてはるんや・・
なに見てるて・・
「サーブ出して」
「あ・・ああ、はい」
阿部はサーブを出し、ラリーが続いた。
けれども阿部の攻撃など、日置に通用するはずがなく、阿部はずっとミスを繰り返していた。
「あの・・先生・・」
「なに?」
「どうしはったんですか・・」
「なにが」
「いや・・その・・アドバイスを・・」
「ああ、えっと、サーブを出すコースをよく考えて。それが長いのか短いのか。それによってレシーブの返球も変わるし、あらかじめ予測しないといけないよ」
「はい・・」
「どこに返って来るのかじゃなくて、どこへ返させるのか」
「はい」
「きみは表だけど、表でも切ることは出来るから、下でも横でも回転をかける。その中にナックルを混ぜる。同じフォームからね」
「はい」
「ああ・・えっと、三球目より、ツッツキからツッツキ打ちの方がいいかな」
「はい・・」
「いや・・それとも、ショートから回り込んでのラリーがいいかな」
「・・・」
「いや、やっぱりツッツキから回り込んでツッツキ打ちかな」
阿部は、日置が独り言を言ってるように思えた。
そして、さすがに日置は変だと思った。
「先生・・あの」
「なに?」
「私、サーブ練習します」
「そうなの。わかった」
そして阿部は、部室からボールの入った籠を持ち出して台に着いた。
日置は、森上と中川のラリーを床に座って見ていた。
森上の動きは相変わらずだ。
そして中川のバックカットも、ミスが多い。
あの子たち・・なにやってんのかな・・
あんなにミスばかりだと・・練習にならない・・
中川さん・・もっと左足を下げないと・・
姿勢ももっと低くしないと、ボールは高く返るよ・・
ラケットも回さないと・・
森上さんも・・それはドライブじゃないよ・・
中川のカットなんて・・なんの変化もないのに・・
ミスしてたら・・ダメじゃないか・・
あの子たちに・・アドバイスしないと・・
ちゃんと・・言わないと・・
でも・・なんだろう・・
とても疲れた・・
口を開くのが・・しんどい・・
阿部はサーブ練習をしながら、時々日置を見ていた。
先生・・
魂が抜けたみたいになってる・・
一体・・どうしはったんや・・
「あの・・先生・・」
阿部は日置の元へ行った。
「なに?」
日置は阿部を見上げた。
「その・・どうしはったんですか・・」
「え・・」
「なんか・・あったんですか・・」
「なにもないよ」
「そ・・そうですか・・」
「僕のことは気にしないで、サーブ練習続けて」
「は・・はい・・」
その後、日置は阿部にも森上にも中川にも、なにも言わなかった。
とにかく、アドバイスすることが億劫でならなかったのだ。
「先生よ」
中川が呼んだ。
「なに?」
「バックカット、どんだけ続ければいいんだよ」
「あ・・ああ。そうだね」
日置はそこで立ち上がった。
「きみたち、休憩してて」
そう言って日置は、扉に向かった。
「おい、先生よ」
中川が呼ぶと、日置は立ち止まって振り向いた。
「どこ行くんだ」
「トイレだよ」
「そうか」
そして日置は小屋から出て行った。
「なあ・・」
阿部が口を開いた。
「チビ助、言いたいことはわかってる」
「先生、おかしいよな・・」
「確かに変だ。なにがどうなっちまったんだ、先生よ」
「目に力がないし・・」
「これからって時に・・。悩みでもあんのかね」
「わからんけど・・あんな先生、初めてやで・・」
「なんだかよ、重症って気がするぜ」
「中川さん」
「なんだよ」
「絶対に、きついこと言うたらあかんで」
「おめー、私を誰だと思ってやがんでぇ」
「え・・」
「高原由紀だぜ、高原由紀」
「だからなんなんよ」
「ここは、投げナイフでズバーッと根性を叩きなおしてだな」
「なに言うてんのよ!」
阿部は思わず怒鳴った。
こんな時に、冗談を言うな、と。
「そう怒んなって。深刻になっても仕方がねぇだろうぜ」
「うん、それは言えてる。私らが深刻になってもアカンと思う」
「だからよ、先生が戻って来たら、明るく笑おうぜ」
「そやな・・」
「あのさぁ・・」
そこで森上が口を開いた。
二人は、森上を見上げた。
「私なぁ・・全然、調子が戻らへんやんかぁ・・」
「うん」
「それって、何が理由かわからんままやねぇん」
「・・・」
「自分ではぁ・・頑張ってるつもりやけどぉ・・どうしてもアカンねぇん」
「・・・」
「だからぁ、思うんやけどぉ、先生もぉ、なんかわからんけど・・あんな感じになってるんとちゃうかなぁ・・」
阿部と中川は、顔を見合わせて、少しだけ頷いた。
「もしよ、森上の言う通りだとしたら、どうすんだよ・・」
「どうする言うたかて・・」
「そこはぁ・・普通でええんちゃうかなぁ・・」
「普通って?」
「いつも通りにぃ・・接するんがぁ、ええと思うぅ」
「・・・」
「あんまりぃ・・どうしたとかぁ、頑張れとかぁ・・それ言われるほどぉ、なんか辛いんよぉ・・」
そして三人は話し合いの結果、さして気を使うでもなく、いつも通りに接すると決めたのだった。




