11 小屋の用途
―――そして五月も半ばを過ぎていた。
森上は、すっかり元気を取り戻し、教室でも明るく笑うようになっていた。
中でも阿部とは、よく話をし、共に下校もするようになっていた。
「恵美ちゃん、クラブってまだ入ってないんやろ」
下校途中、歩きながら阿部が訊いた。
「そやねん・・千賀ちゃんはぁ?」
「私は、あまり参加してないけど、陸上部」
「へぇ・・」
「なんかな、いまいち、ピンと来ぇへんねん」
「なんでやのぉ」
「相性が悪いっていうんかな」
「へぇ・・」
「恵美ちゃんは、運動神経抜群やから、運動部に入ったらええんとちゃう?」
「うーん・・弟がおるしなぁ」
「ああ・・恵美ちゃんとこ、共働きやもんな」
「そやねん~、はよ帰ったらんとぉ、あかんねん」
「でも校則では、どっかのクラブには所属せんあかんってなってるやん?籍だけでも置かんとな」
「そやなぁ。どこがええかなぁ」
「卓球部はどうなん?」
「卓球部なぁ。誰もいてへんしなぁ」
「ああ・・日置先生の入部条件は厳しいからな」
「どっちにしたってぇ、そんなに遅くまで練習でけへんしぃ」
「ああ・・そやな」
その頃、日置は、そろそろ森上に声をかけることを考えていた。
いくら抜群の素質を備えていたとしても、練習しなければ始まらない。
森上を全国へ行かせるためには、そうそう悠長に構えてられないのである。
そして肝心の森上に、果たしてやる気があるのかどうかを確かめなければならない。
―――翌日。
体育の授業が終わった後、日置は「森上さん」と声をかけた。
「なんですかぁ」
「きみ、どこのクラブにも所属してないよね」
「ああ・・はいぃ」
「卓球部はどう?」
「ああ・・はいぃ」
「よかったら、放課後、小屋へ来ない?」
「あのぉ・・別にぃええんですけどぉ・・まだ入るかどうかは、わかりませぇん」
「うん、今決めなくてもいいよ」
「そうですかぁ」
「じゃ、放課後、待ってるね」
そう言って日置は、職員室へ向かった。
「恵美ちゃん、なんの話してたん?」
阿部が森上の元へ駆け寄ってきた。
「卓球部に来ぇへんかぁって」
「おお、ほんで行くん?」
「まあぁ・・寄るだけ寄ってみよかなぁ」
「あ、そしたら私も行こかな」
「えぇ~・・陸上部はぁ」
「昨日も言うたけど、あまり参加してないし。んで、卓球ってどんなんやろな~て」
「へぇ~・・」
「ま、私は見学やけどな」
阿部はそう言って笑った。
ところがである。
放課後になり、森上と阿部が小屋で待てども、一向に日置は来ないのである。
森上と阿部は、卓球台に触りながら、「遅いなあ」とこぼしていた。
「日置先生、放課後にね、って言うてはったんやろ?」
阿部が訊いた。
「うん、そうやねぇん」
「約束破るような先生ちゃうしなあ」
「用事でも出来たんかなぁ」
そこで阿部は外を覗いた。
けれども日置の姿は、どこにもない。
「恵美ちゃん、どうする?」
「千賀ちゃんはぁ」
「ここにおってもしゃあないしな」
「そやなぁ、ほな、帰ろかぁ」
そして二人は小屋を出て、学校を後にした。
その頃、日置は職員会議の真っ只中だったのである。
議題は、なんと、あろうことか加賀見が「誰も使ってない小屋を放置するのはもったいない。他に使い道を考えるべきだ」と提案したのだ。
その実、加賀見は日置に嫉妬していた。
そう、ある意味、いじめを解決したのが日置であり、自分は失敗したのだ、と。
そのことに、加賀見はプライドが傷ついていたのだ。
加賀見が育ったのは、父親は高校の校長、母親は小学校の教師、兄は中学の教師、というまさに教育者の家庭だった。
そんな加賀見は、教育者としての心得を両親から叩き込まれていた。
「失敗はするな」
この言葉を、嫌と言うほど聞かされてきた加賀見は、赴任してすぐに失敗したわけだ。
しかも相手は、校内随一の人気者の日置だ。
加賀見は、日置に一泡吹かせてやりたかったのだ。
なんとも子供じみた教師である。
「今は、部員はいませんが、三月までは八人いて、インターハイも出場しています。今後、部員が入った時に、あの小屋がなければ練習が出来ません」
日置がそう言った。
「どうして部員がいないんですか」
加賀見が訊いた。
「僕は、やる気のない者の入部は認めていません。遊びで教えるつもりはありませんから」
「あら、ここは学校ですよ。そりゃ、強いに越したことはありませんが、あくまでも部活動は教育の一環です。日置先生の方針は、自分勝手じゃないですか?」
「どういう意味ですか」
「卓球部を私物化してると申しております」
「私物化?あまりに言葉が過ぎやしませんか」
「日置先生、加賀見先生」
そこで校長の工藤が二人を制した。
二人は工藤に目を向けた。
「加賀見先生はご存じないでしょうが、あの小屋は、私の一存で建てたものです」
「校長の?」
「三年前、卓球部は体育館の隅で小さくなって練習していました。今の小屋を建てる前に、ボロい小屋がありまして、そこへ移り、台も二台しかなく、練習に支障をきたしていたのです。だから私が建てました」
「それは、卓球部を特別扱いしてませんか?」
「そう言われればそうかもしれません。けれども、きみは知らないでしょうが、日置先生や部員たちの日々の苦労を見ていると、私は放って置けませんでした。その際、小屋を建てること、他の先生方にも賛成して頂いたのですよ」
「当時の事情は、私にはわかりませんが、私が申しているのは、現状のことです。誰も使わないあの小屋、無駄だとお思いになりませんか」
「加賀見先生・・」
工藤は、困った風に加賀見を呼んだ。
「なんでしょう」
「もし、今後、卓球部に入りたい生徒が、現れたらどうするのですか」
「それは、その時、練習場に戻せばいいんじゃないですか」
「では、加賀見先生は、あの小屋を何にお使いになるつもりですか」
「それは・・他の先生方の意見を訊くべきかと。それと生徒からも訊いてもいいんじゃないでしょうか」
「ちょっとええですか」
堤が口を開いた。
「どうぞ」
工藤がそう言った。
「加賀見先生」
「はい」
「何に使用するかも、ご自身が考えてないのに、先生の提案は、無責任やと思いますけどね」
「無責任って・・」
「そう思いませんか?」
「いえ、無責任なのは先生の方です」
「へぇーなんでですか」
「さきほどから申してますが、誰も使ってないのに、放置している方が無責任だと思いますが。あれは学校の所有物、つまり全校生徒のものです」
「だから、なんで放置て言えるんですか」
「放置じゃないですか。だって、もう五月ですよ?」
「まだ、五月です」
「そっ・・」
「まだ五月やないですか。なにをそんなに急いどるんですか」
「別に・・急いでるわけじゃありません。個人の持ち物ではないと申し上げているのです」
「そんなん言われたら、バレー部かて、肩身が狭いわ」
「どうしてですか」
「体育館を占領しとるんは、うちですからね」
「バ・・バレー部は・・部員がたくさんているやないですか。私は!部員もいてない卓球部のことを言うてるんです」
「だから・・。あかん、堂々巡りや」
「日置先生、ご意見は?」
工藤が言った。
「確かに、誰も使ってない小屋を、あのままにしておくのはもったいないと思います」
「そうでしょう!」
加賀見は、いきり立った。
「では、加賀見先生」
「なんですか!」
「どうぞ、あの小屋を自由にお使いになってください」
「え・・」
「何でも結構です。その代わり、桐花の名前を全国にとどろかせてください。スポーツでも、文化部でも、なんでも結構です」
「どうして私が、そんなことしないといけないんですか」
「加賀見先生は、なにか、一つの目標に向かってやり遂げたことがありますか?」
「それと小屋の使用と、関係ないんじゃありません?私は、無駄だと申しておるだけですが」
「あの小屋を使って、毎日練習しました。その結果、全国出場を果たしました。その子たちもここの卒業生です。三月に卒業したばかりです。その子たちの気持ちも考えてやってくれませんか」
「卒業したのでしょう?だったら、無関係じゃないですか」
「そうですか。そうまで言われますか」
「大事なのは在校生じゃありません?」
「わかりました。でも、さっき申し上げたこと、必ず守ってくださいね」
「なんのことですか」
「桐花の名を、全国にとどろかせることですよ」
「私には関係ないです」
「いいえ、必ず守ってください。そしてご自身で、その苦労を経験してください」
そして日置は「僕の意見は以上です」と工藤に言った。
この日の会議は、ここで終わった。
そしてこの問題は、今後に持ち越されることになった。
「日置くん」
日置が帰ろうとすると、堤が声をかけた。
日置は立ち止まって「はい」と言った。
「どんならんな・・あの若いの」
加賀見はとっくに学校を後にしていた。
「まあ、そうですね」
日置は苦笑した。
「なんの苦労も知らんと、よう言うたよな」
「でも僕は、一理あると思ったんですよ」
「え・・」
「確かに、誰も使ってないのは、無駄になりますからね」
「まあ、そやろけどなあ」
「僕の方針が、厳し過ぎるんですよ」
「いや、そんなことないで。全国目指すんやったら、そうなるて」
日置は、また苦笑した。
「こんなん言うたら、あれやけどな、バレー部は、外でやってやれんことはないんや。せやけど、卓球は外では無理や。体育館を卓球部が使ういうたら、僕は反対でけへんで」
「先生、そんなこと言わないでくださいよ」
「せやかてな、卓球部は我が校でダントツの成績や。全国でベスト8やで。どこの部も、もの言われへん成績や」
「・・・」
「なあ、日置くん」
「はい?」
「部員、募ったらどないや」
「うーん・・募る・・ですか」
「とりあえずおったら、加賀見はなんも言われへんで」
「でもなあ・・」
「わかってる。きみの方針は、僕かてわかってる」
日置は思った。
もし、小屋が使えなくなれば、あの子たちの思いを全て踏みにじるようになるのでは、と。
加賀見などにはわかりはしない、あの二年間の思いを。
そんな悲しい思いを、日置はさせたくなかった。
つまり、小屋が使えなくなるということは、それは同時に廃部を意味するからだ。
「募ってみるのも、いいかな・・」
日置はポツリと呟いた。
「ええんちゃうか。きみやったら、出来るて」
「でも、僕の方針だと、すぐに辞めてしまうと思うんです」
「そやな・・」
堤はそれもわかっていた。
そして日置は、森上に「放課後にね」と言ったことを、すっかり忘れていたのである。
一方でこの先、加賀見は、また問題に直面するのであった。




