107 少年との出会い
―――翌日。
日置は、久しぶりに羽を伸ばそうと、一人で大阪港に訪れていた。
ここには、日本一低いと知られる、天保山という山があった。
標高5メートルにも及ばない天保山は、山というより丘だった。
日置は「山頂」へ登り、海を眺めていた。
日置の他にも、家族連れやカップルも数組いた。
ここは公園施設でもあり、散歩を楽しむ年寄りなども見られた。
そこへ一人の中学生と思しき男子が、ギターケースを抱えて登って来た。
日置も他の者も、何事かと男子に注目した。
「ああ、すみません。今からちょっと練習しますんで」
男子はそう言って、ケースからギターを取り出した。
「わあ~なに歌うん~?」
家族連れの幼い男の子が、興味深そうに男子に近寄った。
「こらこら、邪魔したらあかんよ」
母親が、済まなそうに子供を追いかけた。
「いいですよ」
男子は優しく微笑んだ。
「なあ~なに歌うん~?」
子供は、男子を見上げていた。
「お兄ちゃんの曲やねん」
「ええ~漫画がええ~」
「ぼく、なに好きなん?」
「ドカベン!」
「ああ~山田太郎やな」
「そうやねん~」
子供の横で、母親が「ほんま、ごめんね」と詫びていた。
「ごめんな。お兄ちゃん、ドカベン、まだ練習してないねん」
「ええ~そうなん~」
「また練習しとくわな」
「うん~わかった~」
そして子供は興味をなくしたのか、男子から離れて走って行った。
日置は、どんな曲を歌うのか、少し興味を持った。
男子はストラップを肩にかけ、ピックを手にしてギターをつま弾き始めた。
――昨日までは当たり前で 明日も続くと思っていた
何気ない日々の中で そう・・当たり前に
悩み続けることさえも 苦しみから逃れることも
明日という日がきっと 変えてくれると思った
だけど僕は気づいたんだ 大事なものを失うこと
そうさ僕は誰にも Oh~打ち明けられずに
ねぇ僕は何を探してるの? どこへ行くの
宝物があるとしたら この手の中 ああ~
ねぇ僕は何を求めてるの? 信じてるの
当たり前に戻れるように 笑えるように 走り出したいんだ――
ここで歌は終わった。
他の者は、あまり聴いてなかったが、日置はその歌詞に惹かれた。
「ねぇ、きみ」
日置は男子に声をかけた。
「はい」
「それ、なんていう曲なの?」
「仮ですけど、当り前に、です」
「二番はあるの?」
「いえ・・まだ一番だけなんです」
「そうなんだ。とてもいい曲だったよ」
「そうですか。ありがとうございます」
男子はとても嬉しそうに笑った。
「よければ、もう一度、歌ってくれないかな」
「えっ!いいんですか」
「もちろんだよ」
「はいっ!」
そして男子はもう一度歌った。
男子が歌い終わると、「その歌詞、僕にくれないかな」と日置が言った。
「ええ~~こんなんでよければ!」
男子は歌詞を書いた紙を日置に渡した。
「どうもありがとう」
日置はニッコリと笑った。
「僕、三島英太郎と言います」
「僕は日置慎吾です」
「日置さんは、この近くなんですか」
「ううん。市内だけどここじゃないよ」
「僕は、この近くなんです。あそこのマンションに住んでるんです」
三島は天保山から見える、高層マンションを指した。
「そうなんだね」
「家で練習すると、母親がうるさくて」
三島は苦笑した。
日置も気の毒そうに、苦笑した。
「三島くん、いつもここで練習してるの?」
「はい。ここやと、誰にも気を使わんでええですから」
「そうなんだね」
「僕、ミュージシャンになりたいんです」
「おお、大きな夢だね。きみならきっとなれるよ」
「そうですか!嬉しいなあ~」
「二番の歌詞は、いつ頃できそう?」
「メロディーもそうですが、歌詞って、結構難しくて。鋭意考え中です」
「そうなんだ。出来上がるの、楽しみにしてるね」
「ええ~待っててくれはるんですか」
「うん。すごくいい曲だったからね」
「ありがとうございます。頑張ります!」
「また会える日を楽しみにしてるね」
日置が立ち去ろうとすると、「待ってください」と三島が引き止めた。
そして三島は、メモ用紙を一枚破って、電話番号を書いて日置に渡した。
「日置さんの番号も、教えてください」
「うん、わかった」
日置も番号を書いて渡した。
「ここで練習する時、連絡させてもらいます」
「ありがとう。楽しみに待ってるね」
そして日置はこの場を後にした。
日置は歩きながら、三島の歌詞を読んでいた。
「ほんとにいい歌詞だな・・」
日置は、まさに歌詞と今の自分が重なっていた。
「宝物があるとしたら・・この手の中・・か。あ・・そうだ。今度、録音したテープ貰おうっと」
こんな風に思う日置であった。
―――その頃、桂山化学では。
練習を終えた彼女らは、更衣室で着替えて、小島と浅野以外の者は、先に帰っていた。
小島は練習中でも、日置のことが気になって仕方がなかった。
大丈夫なのだろうか、と。
少しは落ち着いただろうか、と。
「彩華」
浅野が呼んだ。
「なに?」
「今日は、先生と会うんか?」
「いや、その予定はないけど」
「ほなら、なんか食べに行かへん?」
「ああ、ええな」
そして二人は難波へ出て、お好み焼き屋へ入った。
二人は店員に、席へ案内されて座り、それぞれ注文した。
「昨日、先生とこ行ったんやろ?」
「ああ・・うん」
「芝居の話で盛り上がったんちゃうの?」
「いや、なんか先生、疲れてはったし」
「ああ・・そらそうや。先生、芝居なんて初めてやったやろしな」
小島は、昨日のことを浅野に話すかどうか迷っていた。
なぜなら、日置の「弱さ」を報せてしまうことになるからだ。
「それにしても中川さん。めっちゃ美人やな」
「そうやな」
「せやのに、あの喋り方やんかいさ」
浅野は「あはは」と笑った。
「ああ、確かにすごいギャップやな」
「でも中川さんて、根性ありそうやから、先生も教え甲斐があるやろな」
「うん、そやな」
「あんたと同じなんやろ?」
浅野は「型」のことを訊いた。
「うん、一枚と裏な」
そこで浅野は、窓から店の外へ目を向けた。
「え・・彩華、先生やで」
「えっ」
小島は浅野の視線を追った。
「先生・・なにしてんねや・・」
浅野は、半ば唖然としながら呟いた。
そう、日置は楽器店の前で立っていたのだ。
小島は、黙ったまま日置を見ていた。
「ちょ・・彩華、行かんでええんか」
「いや・・ああ・・」
すると日置は、なんと店の中へ入って行ったのだ。
「ええ・・先生、楽器て・・」
浅野はさらに驚いていた。
「彩華」
「なに?」
「先生て、楽器とかできたっけ」
「いや・・知らんけど・・」
「あれか・・学校関係かな」
「え・・」
「音楽の先生に頼まれたとか」
「いや・・なんも聞いてへんけど・・」
「というか、彩華、声かけへんのか」
「ああ・・今日は、ええわ・・」
「どしたんよ。なんかあったんか」
「お待たせしました~」
そこへ店員が、お好み焼き二枚を運んできた。
二人はそこで、また楽器店を見た。
すると日置は、店員に丁寧に頭を下げて、この場を後にしていた。
「先生、行ってまうで」
浅野が言った。
「あとで、電話するし」
「あんた、昨日、なんかあったやろ」
「・・・」
「言いなさい」
「他の子には言わんといてや」
「うん」
「実は――」
そして小島は、昨日の話をした。
「なほどなぁ・・」
浅野は、なんと答えていいか戸惑っていた。
「考えたら、あれやもんな。先生、森上さんのことで、ほんま色々あったし、おまけに、私ら・・ほら、早苗のことでひと悶着あったりもしたやん」
「ああ・・うん」
「あの件も、先生には多大な迷惑かけたし、それも関係してるんかもな」
「どうなんやろ。あのことはもう忘れてはると思うけど」
「忘れてるんは忘れてるやろけど、ほら、やっぱり様々なことが蓄積したってことはあると思うねん」
「そうか・・」
「先生は、卓球に集中したいはずやのに、なかなかできひん状態がずっと続いて、んで、芝居やがな」
「うん」
「慣れんことした後って、大概、しんどいで」
「そやと思う」
「まあ、心配せんでも、先生なら大丈夫や」
「うん・・」
「あんたは、話を聞くだけでええねや」
「うん、今後はそうするつもり」
「でも、先生・・なんで楽器店なんか・・」
浅野はもう一度、店の外を見ていた。




