106 得体のしれない気持ち
日置ら一行は、食事を済ませた後、解散してそれぞれ家路についていた。
日置と小島は、そのままマンションへ向かい、たった今、部屋に入ったところだった。
「先生、お疲れさまでした」
小島は早速、台所で手を洗い、お茶の準備に取り掛かった。
「彩ちゃん、なにもしなくていいよ」
日置はトイレに入った。
「いいえ、せめてお茶くらいは。先生、コーヒーと紅茶、どっちがええですか」
小島はドアの前で訊いた。
「ああ・・それなら日本茶がいいかな」
「わかりました」
そして小島は、茶の葉と急須を用意した。
「それは先生~」
小島はまた、鼻歌を口ずさんでいた。
「彩ちゃん」
日置がトイレから出てきた。
「はい」
「それだけでいいからね」
日置はお茶のことを言った。
すると小島はニコッと笑った。
そして日置は「あ~」と言いながら、ソファに腰を下ろした。
「疲れたでしょう」
「まあね・・」
日置は苦笑していた。
小島は思っていた。
練習の鬼の日置が、帰りの際、明日の日曜日、休みにすると森上らに言っていた。
ここ一週間は、芝居の稽古に時間をとられ、全く練習していない。
やっと芝居から「解放」され、さあここからだ、という時に、日置なら休みにするはずがない、と。
よほど疲れたにせよ、自分のことより、あの子たちの練習を優先させるはずだ、と。
そして小島は、湯飲みを二つテーブルに運んだ。
「どうぞ」
小島は日置の前に湯飲みを差し出し、そのまま座った。
「ありがとう」
「先生」
「ん?」
「明日・・練習、休みにしたんは、疲れてはるからですか」
「ああ・・まあ、そうかな・・」
「そうですか・・。そうですね。無理はあきませんね」
「・・・」
日置は、何かを考え込む風に、黙っていた。
「先生・・?」
「・・・」
「先生、どうしたんですか」
「なんだろう・・」
日置は独り言のように、そう呟いた。
「え・・」
「自分でもよくわからないんだけどね」
「はい・・」
「きみたちを教えてきた二年間は、本当に充実してたし、一分一秒を惜しんで練習してきたよね」
「はい」
「でも、なんて言うのかな・・四月に新学期が始まって、森上と出会って、ここに来るまでほんとに色々とあった」
「はい」
「ようやく森上が練習に参加できるようになったかと思えば、森上は以前の森上ではなくなってた」
「・・・」
「いや、僕はそれでも森上を育てる気持ちに変わりはない。きみたち素人を一から教えた時のようにね」
「はい・・」
「でも・・何かが違うんだ・・」
その実、日置自身は気が付いてなかったが、日置のインターハイ出場の目標は、あくまでも団体戦に拘っていた。
実際、小島らの時代は、八人という選手に恵まれた。
それが素人であろうと、なんであろうと、団体戦に参加できる資格は持っていたのだ。
だからこそ、日置の目指す、団体でインターハイという高見も、けして絵空事ではなかったし、苦難を乗り越えながらも日置自身も頑張れた。
けれども今は、団体に参加すらできない有様だ。
たとえ全国へ行けたとしても、森上のシングル、或いはダブルスのみだ。
一方、ここまで様々な問題に直面してきた。
それが卓球の技術のことなら、日置は乗り越えてきたであろうし、当然、通る道だと悩みもしなかったであろう。
けれども、その様々な問題は、練習時間が取れなかったり、或いは森上家の事情であったり、『よちよち』のコーチのことであったりと、いわばスタートラインに立つ以前のことで悩まされ、時に、森上の母親である恵子から何度も侮辱され続けたこともあった。
そんな日置は、知らず知らずのうちに、そうとうなストレスを抱えていたのだ。
「先生、芝居の稽古やら、今日の公演で疲れたんですよ」
「うん・・そうだと思うんだけど」
「明日は、ゆっくりと休んで、また月曜から頑張ればいいですよ」
「あのね・・彩ちゃんにだから言うけど・・」
「なんですか・・」
小島は、瞬間的に、聞きたくないという勘が働いた。
「僕・・きみたちを教えてた時の方が、生き甲斐を――」
日置がそこまでいうと「先生」と、厳しい表情で小島が制した。
「え・・」
「先生の口から、そんな情けない言葉、聞きたくありません」
「彩ちゃん・・」
「森上さんを強引に誘ったのは先生でしょ」
「うん・・」
「その後も、何とかして森上さんに練習させようと、卓球を続けさせようと、嫌なことも言われたのに耐えて頑張ってきましたやん」
「・・・」
「それを今さら、なにを言うてるんですか」
そこで日置は、小島から目を逸らした。
「先生、大丈夫ですって」
「・・・」
「今は、疲れてはるだけです」
「うん、そうだね・・ごめん」
日置はそう言いながら、いつもはつけないテレビをつけた。
「この時間、なにやってるのかな」
日置はチャンネルを捻った。
「ずっと練習ばっかりだし、僕、知らないな」
日置は適当なところでチャンネルを止めて、「なんだろうね、これ」と笑っていた。
先生・・
なんかおかしいな・・
私の言葉で傷ついたんかな・・
「先生・・」
「ん?」
日置はテレビ画面を見たままだ。
「私の言うたこと、悪かったです。すみません」
「なんできみが謝るの?」
日置は小島をチラリと見た。
「いや・・ちょっときつ過ぎたと思います」
「何とも思ってないから、気にしないで」
日置はニッコリと笑った。
「あの・・先生」
「ん?」
日置はまた、画面を見ていた。
「生き甲斐なんて・・一つやと決まってないと思うんです」
「・・・」
「森上さんらはきっと、先生の期待に応えてくれます」
「・・・」
「だから・・その・・やる気をなくさんといてください」
「・・・」
「先生が引っ張らんと・・あの子ら、どうしたらええか、迷います。私らかて、出来るだけ協力しますから」
「彩ちゃん」
日置はまだ画面を見たままだ。
「はい」
「悪いけど、ちょっと黙っててくれないかな」
「え・・」
「あのね」
そこで日置は小島を見た。
「僕があの子たちを見捨てるはずがない。きっと強い選手に育てる。でもね、僕が弱みを見せられるのは彩ちゃんだけなんだよ。愚痴をこぼせるのはきみだけなんだよ」
「・・・」
「僕は強い人間なんかじゃない。そうなろうと努めてるだけ。辛いこと、苦しいこと、一杯あるんだよ」
「・・・」
「きみは僕に、完璧でいてほしいみたいだけど、それじゃ息が詰まるよ」
「すみません・・」
「僕こそ、ごめん」
そこで二人は、テレビ画面を見るともなく見て、しばらくの間、沈黙の時間が流れた。
「今日は・・帰ります」
小島はいたたまれなくなり、そう言った。
「そっか。じゃ、駅まで送って行くよ」
日置も引き止めはしなかった。
「いえ、一人でええです」
小島はそう言って立ち上がり、鞄を持って玄関に向かった。
日置も小島の後に続いた。
「お邪魔しました」
「ほんとに送って行かなくてもいいの?」
「はい」
「じゃ、気を付けてね」
小島は一礼して部屋を出た。
そして「はぁ・・」とため息をついた後、マンションの廊下を歩いた。
ああ・・なんか・・付き合うって難しいな・・
でも確かに・・先生の言う通りかもしれん・・
先生かて・・人間やもんな・・
悩みもするし・・苦労もある・・
そんな時・・支えになってあげられるんは・・私だけやん・・
私は・・先生を誤解してたかもな・・
少なくとも卓球に関しては・・絶対に後ろ向きにならんと思てた・・
そうじゃないこともあるんやな・・
小島は日置の心情を思いやり、申し訳ない気持ちになっていた。
そして、意見をするのではなく、話を聞いて共感することも大事なことなんだと、また一つ大人になったのである。
一方で日置は、ソファに座りながら、テレビ画面を見ていた。
僕は彩ちゃんより、一回りも年上なのに・・
子供みたいなこと言っちゃったな・・
でも・・僕は、一体・・どうしたんだろう・・
なんなんだ・・この気持ちは・・
いや・・考え過ぎだ・・
それこそ彩ちゃんが言ったように・・芝居で疲れてるだけなんだ・・
また月曜から・・頑張れるさ・・
その後、日置は風呂に入ったあと、パジャマに着替えてベッドで横になった。
そして、ずっと天井を見つめていた。
正直・・あの子たち八人と必死になって練習してきた日々が懐かしい・・
団体戦・・か・・
来年の予選には・・間に合わない・・
たとえ部員が増えたとしても・・試合では勝てない・・
森上の調子もいつ戻るかわからない・・
阿部もやっと応用に入ったばかりだ・・
ましてや・・中川は・・まだまだこれからだ・・
日置は何度も寝返りを打ち、気持ちを整理しようと努めた。
けれども一旦、心の中に芽生えた「得体のしれない」思いは、日置の眠りを妨げるほど重くのしかかっていたのだった。




