11.亀裂
生徒棟の離れにある特別棟地球部部室は、人の喧騒から逃れるのに丁度いい静けさ。
水槽のポンプがあぶくを作る水音、部屋中に置かれた観葉植物たちが芳しい匂いを漂わせる。
さっきまでクラスメイト達とふざけていて、興奮状態だった気分は、リラックスに絶好の環境にて少しずつ落ち着いていく。
ハスィは水槽を横から覗き込みながら小網でグッピーを掬い、もう一つの水槽に引っ越しさせている。
「エチルはどこに?」
俺は彼女の隣にしゃがみこみ、水槽を眺めながら尋ねる。
「クラスの買い出しを頼まれてから帰ってこない。」
ハスィは手を動かしながら事務的に答える。
「そうなんだ…。それ、何してるの?」
「モザイクグッピーの限性遺伝の研究、色が派手やかなオスの一部に……尻尾の方に青いラインが入ってる個体があるでしょ。それを分けてる」
「へえ…、限性遺伝かあ……なんか難しそうなことやってるんだね。」
オレは素直に感心して、改めて水槽の中を観察してみる。
グッピーは二、三センチほどの小さな体に赤、青、オレンジの鮮やかな色を乗せていて、不規則な黒ぶち模様と相まって、一つ一つ意思を持った火花のようにも見える。
すると、ハスィは気を良くしたのか、途端に饒舌に喋り始めた。
「別に難しくない。グッピーの遺伝的特性は人間のモノと似ていて、私たちの髪色や瞳の色、その他の形質がどのように後の世代に影響していくのか、その縮図を見ているようで興味深い。自然は生物工学という形でも、我々の生き方や歴史に深く関係してる。単に環境サービス的に楽しむだけでなく、生物の仕組みを学び、研究していくことも大切だと思う。」
アクアリウムのガラスに映るハスィは、とても和やかな表情をしていた。
「ちょっと、いまいいかな?」
オレはちょっといい雰囲気になったところで、クラスメイトから頼まれた用事を果たそうとする。
「何?」
彼女は水槽に顔を向けたまま反応する。
「実行委員のクアドからさ、ハスィのクラスTシャツ代と、文化祭費がまだもらえてなくて、早いとこ出してくれって言ってたよ。」
「そう……。」
その瞬間、ハスィの声色がとても儚くなった。
だが、次の呼吸には、芯の入った声色になって、
「シバヤシは、そのお金を出す必要があると思う?」と尋ねてきた。
「いや…まあ、文化祭って皆で楽しむモノじゃない?クラスの出し物を成功させるには、一人一人の小さな協力が必要だとオレは思うけど。」
オレは言葉の意味をよく理解できず、考えてることを場当たり的に言った。
「その綺麗事に私を巻き込まないでほしい。」
「えっ?」
ハスィの一言は、オレを軽いショック状態にさせた。
「家庭によって財政状況だって違うし、仲間内で金銭を集めるにしても、任意という範囲を超えて強制は出来ない筈。一部の人間の快楽の為に、金銭と時間を搾取されるなんて、馬鹿馬鹿しい……。」
ハスィは冷たく吐き捨てるように言って、オレから顔を背けた。
(なんでそんなキツい言い方をするの?)
はね除けるような、当たりの強い言い方をする彼女に対して若干の苛立ちを感じる。
「じゃあ、ハスィだけ協力できない、何か具体的な……大きな理由とかあるの?」
「詳細な理由を説明する義務は発生するの?こんな下らないことに。クラスTシャツ、価値と実用性に値段が見合わない、だから欲しいとも思えない。また、彼らに協力した時の労力を別の有意義な活動に費やした方がいい。」
「それは、ハスィが自分勝手過ぎじゃないかな。自分の都合が一番大切だと思うのは。みんなだって、やりたいことを少しずつ我慢して協力してくれてるんだよ。」
「それは、多人数の都合が多少個人的な利益に繋がるから参加しているだけに過ぎない。私の場合はデメリットでしかなく、目を瞑れるほどの還元も見込めず、それらを無視して身銭を切る義理もない。多数派の綺麗事が少数派を呑み込めると勘違いしている連中のほうが自分勝手だと思う。」
(何故そんなひどい言い方をするの?)
「ちょっとさ、クラスで一生懸命頑張っている人に対して、少し失礼じゃないかな。その言い方は……。」
「別に……彼らとは価値観の違いで、時間の配分を変えているだけで…。多人数の都合が優先されるのは、個人の都合が少しずつ尊重されているからで……。頑張っている姿は評価するけど、組織的な拘束力はないと思う。」
何故?
オレの頭は混乱する。
こんなに憎悪に溢れた言い方は普通しないよ。文化祭に向けて笑顔を見せ合い、沸き立っていたクラスメイトの顔が脳裏に浮かぶ。
「遅れてごめーん、ちょっと買い出し頼まれちゃって……って、あれ?二人とも何かあったの?」
この中途半端なタイミングでエチルが帰ってきた。
「エチルちょっと聞いてくれよ。ハスィが……。」
あれ?なんて説明すればいいんだろう。
言葉が途中で詰まる。
「ハスィ、シバヤシ君と何かあったの?」
オレが言い澱んでいる間に、エチルは雰囲気を察してハスィに尋ねた。
「別にシバヤシがとかじゃない。資金供出や協力を強いてくる連中に対して、従う必要性について話し合ってた。」
「つまり?」
「ハスィが文化祭費やクラT代を出したくないとか、クラス準備に参加したくないとか言うんだ……。」
オレは弱々しく震えた声を、腹の奥から押し出すように吐き出した。
「へえ……。」と、エチルは腕を組み、人差し指を自分のほっぺにちょんちょんと突っつかせる。少し考える仕草をしたあと、にやりと口角を上げて、ハスィのある提案をした。
「ハスィ、そんなにお金出すのが嫌なら、私が代わりに出してあげようか?」
「え……いや……。」
さっきまで、強気な姿勢を貫いていたハスィが、急にたじろぎを見せる。
「何故、エチルが私の分まで出そうとするの?」
「だって仕方ないじゃない、お金が足りないとみんなに迷惑がかかるんだもの。それに、私は好きで払ってあげるんだから、文句ないでしょ?」
「ま、まって……。エチルに出させるぐらいなら普通に払うよ。」
「そう?心変わりしてくれたのね。ならよかった。」
その刹那、ハスィはこちらへ鋭い眼光を向けた。
「あと、放課後準備に人が少ないと仕事がなかなか終わらないのよねえ。だから、今日みたいに部活に来るのが遅くなっちゃうわね。シバヤシ君。」
「あ、ああ……そうだね。」
「なら、私も明日から少しだけ手伝うよ。」
「そうしてくれるなら助かるわ。」
(なんでエチルには従順なんだ?)
人によって態度が変わるのにも不快さを感じる。
ハスィはエチルとすれ違った時にへたくそな愛想笑いをしてから、居心地を悪くした地球部からそそくさと帰ってしまった
オレとエチルは部室で二人きりになった。
エチルはいつものように、キスをする寸前の距離まで寄ってくる。「ごめんなさい。またハスィが変な事言ったのね。でも、あのコ悪い人間じゃないのよ?」
「エチルが謝る必要は無いんだよ…。ただ、オレが、あんな風に言うべきだったのかな。」
「そんなとないわ。でも……この言い方を何度もしていると嫌われちゃうわね。」
「そうなんだ……。」
「ねえ、私ハスィを追いかけてもいい?」
「え?あうん。いいよ。」
「何かあったら個チャで話しましょ。」
「わかった。じゃあまた明日。」
そして、オレは一人部室に残された。
窓際の水槽が夕日を美しく反射している空間で、棒立ちになって、しばらく動くことが出来なかった。




