9、一人
「じゃ、行ってくる。鍵かけといてくれ」
「はい、行ってらっしゃい」
簡単な挨拶を終えて高本さんは会社に行ってしまった。
閉まったドアに鍵をかけて今日も高本さんとの約束を守るために、やらなければいけない家事に目を向ける。
朝に使った食器を片付けて、部屋の掃除を開始する。
この家に最初に来たときはそんなに綺麗じゃなかった。
せっかくいい家に住んでるのに、ごみは溜まってるし、埃っぽかったから、ちょっともったいないなって思ったことを覚えてる。
この家にお世話になってからまだ一週間も経ってないけど、流石に毎日掃除してたらそこまですぐに汚くなるものでもなくてすぐに終わってしまう。
二人しかいない家だから洗濯物もいっぱい溜まるわけじゃなくて、二、三日に一回すればいいから、私がしなきゃいけないことは大体お昼までには終わってしまう。
簡単なお昼ご飯を作って食べたらすることがなくなってしまう。
福岡から来た時に持ってきたノートパソコンを開いて、今書いている恋愛小説をちょっとずつちょっとずつ書いていく。
三角関係をテーマにした純愛もの。もうそろそろ、ライバルの子が振られそうなシーンでずっと止まってるその小説を早く書かないといけない。いつまでもこの家にお世話になるべきじゃないし、そのためにはちょっとでも早く書き上げないと。
でも、私は告白されたことはあっても、告白したことがないからライバルの子の気持ちが分からなくてずっと止まってる。告白シーンまでは書いたけど、その後のライバルの子の動き方が分からなくてずっと迷ってる。
時計を見たら書き始めてもうそろそろ二時間が経ちそうになっていた。
今日はここまでしようと思って、さっきまで書いていたテキストファイルを閉じて、また違うテキストファイルを開く。
子どもの頃から毎日つけている日記。昔はノートに鉛筆で書いてたけど、ノートが多くなりすぎてパソコンに書くようになったこの日記を今日も付ける。
書くことは昨日のこと。昨日のご飯のメニューだったり、高本さんとの会話を少しずつ書いていく。昨日は三日かけて読んだ長編SFについて話したから、そのことも書いておかなくちゃと、白かったパソコンの画面がどんどんと黒く染まっていく。
小説のネタになるかなと書き始めたこの日記を見返してみると、一週間前から分量がいつもより多くなっている。東京に来てすぐの時は行ったカフェや、観光地のことも書いてあるけど、それだけ。
一週間前の日記を読むと、あの時コンビニで出会ったことが書いてあって、ちょっと懐かしかった。次の日のことを読んだら、泊めてもらえることに嬉しい気持ちと、ちょっと戸惑ってる不安そうな私がいて、クスリと笑ってしまった。
買い物に行ったこと、おいしそうにご飯を食べてくれたこと、本の感想を言いあったこと、部屋がきれいになって驚いてたこと、近くのコンビニに煙草を買いに行った時に一緒にデザートを買ったこと。
毎日のちょっとしたことでも書いてあるこの日記は日に日に分量が増えていて。
そんなことがちょっとだけ嬉しかった。
昨日のことも書き終えて、時計を見たらもうそろそろ夕飯の支度をしなきゃいけない時間になっていた。
パソコンの電源を落として、冷蔵庫の中を見てみる。昨日の夕飯は魚だったから、今日はお肉料理にしようと、豚肉だったり野菜だったりを出して調理を始める。
あとは焼くだけでいい状態にして時計を見てみると、もう六時。そろそろ高本さんが帰ってくる時間になる。帰ってくるまでの時間に寝室の本棚から一冊の本を取り出して読み始める。元々本を読むのが好きだったからこの時間はとても好き。
今日のご飯にどんな感想をくれるのかなとか、会社で何か面白いことなかったかなとか、この小説を読み終えたらまた感想を言いあいたいなとか。そんなことを考えながら高本さんが帰ってくる時間を待つのが最近ちょっとだけ楽しいと思える。
初めは好きな作家さんの本があって、久しぶりに読みたかったから読み始めたけど、泊めてもらうのだから、ちょっとでも仲良くなって追い出されないようにしようと思って、本の感想を聞きたいという名目で話しかけた。結構打算的な考えだなって今では思う。
高本さんは、その話に乗ってくれて、ちょっと盛り上がって楽しかった。だから、また違う本を読んで感想を言いあいたいなって。だから本を読み始めた。
でも、いくら待てどもいくら待てども、もう小説を半分読み終えても、高本さんは帰ってこなかった。
いつもは残業は長時間ないから早く帰ってくるのに、今日は九時になっても帰ってこなかった。
心配になってきたけど、私は高本さんの連絡先を知らない。探しにいってもその間に帰ってきたらどうしたらいいのかわからないから、動けなかった。
そこから一時間待っても帰ってこなくって、お腹が鳴ったから、一人でご飯を食べた。
いつも美味しいって言って食べてくれる人がいないから、今日のご飯は味気なかった。
もう何年も誰かと一緒に晩御飯を食べてなかったから、高本さんと食べてるときは嬉しかったし、おいしかった。けど、今日のご飯は上手にできたはずなのに全然味がしなかった。
ちょっと前まではそれが当たり前だったのに、ちょっとでも幸せになると、当たり前だったことが今では考えられないくらい、悲しかった。
ご飯も食べ終えて、お風呂に入っても、高本さんは帰ってこなかった。
不安でいっぱいになっても、私には何もできなかった。
そういえば、私がコンビニで出会ったときは飲み会の帰りだったって言ってたのを思い出した。今日も飲み会だから遅くなるのかな。それなら朝に言ってくれたら、ご飯一杯作らなかったのに。
考えても考えても高本さんが帰ってこない理由がはっきりとは分からなかったから、怖かったけど、それでも眠気はやってくる。
分からないから、どうしようもないからと、いっぱいの理由をつけてお布団に入って横になった。
このまま帰ってこなくなったら私はどうすればいいのかを考えていたら、いつの間にか夢の中にいた。
とっても懐かしい夢。お母さんがいて、お父さんがいて、私が原稿用紙に書いた作文を二人で読んで、私を褒めてくれた小学校の頃の夢。
お父さんが、私のことを将来小説家になれるよって言ってくれた大切な大切な思い出。
もう二度と起こらない貴重な場面。
朝起きたら、枕と目のまわりが濡れていた。
横に昨日ずっと待っていた高本さんがいて、とっても安心した。
今日は帰りの時間を聞かなくちゃ、と意気込んで、部屋から出て、朝食の準備をした
今回は稲森朱音ちゃん視点でした。
どうやって違う人視点を書いたらいいのかわかりません……。
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