4、お礼
とりあえずの話し合いも決着し、昨日帰ってきてから布団に直行していたこともあり、汗を流すために順番にシャワーを浴びた。
「それで、お礼とやらはどうするんだ? 何か思いついたのか?」
もはや必要性も感じられない冷蔵庫からお茶を取り出し、リビングの椅子に腰かけながら先にシャワーを浴びた稲森に問うた。
「えーと、その、まだなにも思いついてません。自分に何ができるのか分からなくて……」
対面の椅子に腰かけながらお茶をちびちびと飲みながら彼女は少し困惑気に、申し訳なさそうな顔をして答えた。
「なら、さっきの宣言通り家事全般をやってもらうことにしよう。料理はできるのか?」
「はい。一応一通りは……」
「なら、それでいい。あとは掃除と洗濯だけやってくれていれば問題ない」
「はい。そんなことで少しでも役に立てるなら……」
よし。これでとりあえずのことは問題ないだろう。細々としたことは後で必要になったら決めればいい。
「そういえば、その服どうした?」
稲森は先ほどまで来ていたパーカーとホットパンツ姿ではなく、灰色のスウェットを着ていた。自分はそんなもの持っていないし、自分のものだとしても丈が合っているのは不自然だ。
「あ、これは、福岡から来るときに持ってきたものです。他にも少しだけありますよ」
そういって彼女は椅子の下に隠していた黒のボストンバックを見せてきた。
「元々3月にできた小説の原稿を出すつもりで、取材も兼ねて東京に来る予定だったんです。その原稿を親に捨てられてしまいましたけど……」
出版社に持っていこうと書いていた原稿を捨てられたが、予定していた取材とやらのために東京に来たはいいものの、女子高生が少ないお金でやりくりしていくには限界がある。それが昨日だったというわけか。
それよりも、
「3月? 今はもう5月だぞ? そんなにずっと独り歩きしてたのか?」
高校生は一応バイトができる。高校に入ってすぐに始めたとしたらそこそこの貯金があってもおかしくはない。
だが、所詮はバイト。1年丸々使っても稼げる額に限度がある。
約2か月の間、食事や寝床の確保のために使える金は相当ギリギリだったのだろう。
「はい……最初は1週間ほどの予定で来ていたんですが、帰るときにまた怒られると思うと帰る気にならなくて……。帰ることをやめてからは引っ込みが付かなくなってて……」
家出を拗らす典型的な例が目の前にいた。
元々の予定通りに帰って、親に怒られるよりも現実逃避をして、逃げ回る。それが長引けば長引くほど収拾がつかなくなって、さらに帰れなくなる。
その上、物価が高い東京で、食べるにもお金が嵩んで帰る金も無くなって。
まさに、負のスパイラル。綺麗なまでの家出のテンプレ。
ここまで来ると、よくそこまで意固地になれるものだと感心する。
「なんでそこまでして小説家になりたいんだ? 今はネットもあるし趣味の範囲で書けばいいんじゃないのか?」
「いえ、ネットでも書いてるんです。けど、それがデビューできるかと言われれば難しくて……。あとは、小説が一番やりたいことで、それに時間をかけたくて」
「そこまでなりたい理由はあるのか? 好きな作家さんだとか、本を読むのが単純に好きだとか」
小説家になりたい奴なんて、それこそ読書家で自分にはこれしかないと思い込んでいたり、好きな作家先生の真似事をしているうちに段々とそれが夢になる。
たいていはそんな単純なものだ。
自分はそうだった。
高校の頃、暇で趣味もなかったから時間つぶしにいろんな本を読んだ。読んでいるとキャラに愛着がついてそのキャラを幸せにしたくて、様々な妄想をした。
そこから、自分で書けば不幸にならない。自分が思い通りにできると思って、設定を考えて、現実味のない妄想をスマホのメモに書き連ねていた。
だけど、それはどうしようもなく幼稚で、陳腐で、そして何より書きたかった魅力的なキャラは死んでいた。
小説を読んでいるときにおこる高揚感。展開を先へ先へと進めたい焦燥感。読み終えた後の充足感。物語が終わったことへの喪失感。
そんな何物にも代えがたい様々な感情が自分のメモからは浮かんでこなかった。
才能がない。そう思った。
だけど、そうじゃない。努力もなしにただ自分の妄想を連ねた文字列は、一見綺麗で誰も損してないのに、それがどこか空虚で、中身のない張りぼてで、誰もが人間として生きてはいなかった。
それに気づいたときにはもうメモを開くことができなかった。
そんな自分の過去があるからこそ、彼女の小説への想いがどれほどなのか知りたかった。自分にはない答えが眠っている気がして。
「あの……その、こう言っては失礼ですが、あまりにも急に踏み込み過ぎじゃないですか?」
稲森の諫めるような、どこか非難めいたその言葉に少し苛立ってしまった。
そんな自分の器の小ささが恨めしかった。
ちっぽけな自分のことを隠すように本意ではない言葉がすらすらと出てくる。
「すまん。悪気はなかったんだ。単純な疑問と興味本位だ。だが、これから短期間とは言え一緒に住むんだ。その問題の小説のことなんだ。当然気になるだろ?」
ここでその質問をしない奴は余程人間のできた聖人君主か、単なるお人好しの馬鹿だ。
「いえ、そうですね。私が間違ってたのかもしれません。ですが、このことについてはあまり人に言いたいことでも、面白い話でもないので……。もし何かこのことが大切になったらその時には正直に話しますから、今は聞かないでください」
なんとも自分本位な答えが返ってきたものだ。
まあ、こういう言い方をするときは大体子どもの頃にいじめられて、その時に読んだ本に感銘を受けたって言うのが小説なんかのテンプレだ。ありきたり。
真実は分からないがそう予想立てて自分を納得させる。
「わかったよ。話したくなったら話してくれ」
「ありがとうございます」
消化不良感は否めないが、現状として稲森が話したくないのであればこれ以上は何も手が出せない。
お互いに話す内容がなくなりリビングに静寂が訪れる。
この家に人が来ること自体稀なため何を話せばいいのか皆目見当がつかない。自分の家で気まずい思いをするなんて考えもしなかった。聞くべきことも思い浮かばず、テーブルに置いてあるお茶をちびちび飲み、ペットボトルからまた注ぎ、何とか時間をやり過ごす。
何分経ったかの感覚なんて消え失せ、この先も稲森が小説を書き終えるまでこの空気感が何日も続くのかと不安になり始めたころ、稲森が口を開いた。
「あのー、家事をするのはいいんですが、その……食材とかってありますか?」
「いや、ない」
「ないんですか?! だったら買いに行きましょう! とりあえず冷蔵庫見せてもらっていいですか?」
「ああ、好き勝手にしてくれとはそこまで手放しには言えんが、自分家だと思って振舞ってくれ。この緊張感は耐えられん」
「ふふっ。はい。これから一緒に生活しますもんね。ちょっと冷蔵庫見てきます」
立ち上がって笑顔を見せた稲森はどこか子どもっぽくて、先ほどまでの暗い、緊張感が溢れたこの部屋を少しだけ元気づけているようにも見えた。
緊張感が薄らいだせいか、キッチンから聞こえてくる稲森の声は良く部屋に響いた。