2、決意
「知ってる天井だ……」
よかった。
ここで知らない天井を見上げて消毒のツンとする臭いを感じたり、自分の家の白い天井とはかけ離れた色の天井を見上げることにならなくて安心した。事故も異世界転生もしていなくて安心した。
白い天井に窓際を除いた壁という壁に天井近くまで伸びた2メートル越えの茶色い本棚に敷き詰まった漫画や小説、ライトノベルの様々な色の背表紙が寝起きの自分を呼び起こしてくれる。
地震対策に気持ちだけのつっかえ棒を施しただけの本棚に囲まれ、小さな白テーブルと布団を敷いただけの簡素な部屋が我が家の寝室である。
地震がきたら本の下敷きにになって死んでしまうだろ危険な部屋だけど案外気に入っている。
充電器ケーブルが刺さったままのスマホを手繰り寄せて時間を確認すると朝の10時だった。朝といっていいのか微妙な時間ではあるが昨日の泥酔具合と帰宅時間を考えればなかなかの早起きな気もする。正午を回って起きることを前提に寝たためにちょっとしたお得感を味わっていた。
「そういえば……。昨日のあいつはもう帰ったか。朝には帰れと言ったはずだしこの時間ならもういないだろ」
昨晩酔っていたにも関わらずそのことだけは克明に覚えていた。
一晩だけ。玄関だけ。そう言って連れ帰ってきた彼女のことを思い出す。
「はぁ……なんであんなことまで口走ってしまったんだ」
昨日つい言ってしまったことを後悔しているとさっきまでのお得感はもうどこかへ行ってしまった。
でも、自分の言ったことに間違いはない。かなりの本音だ。
酒が入って思考能力が下がったが故の失態と、心からの言葉。
彼女のあの少し怖がった、それでいて申し訳なさそうな顔を思い出す。少しの罪悪感がさざ波のように小さく小さく心に波打った。
「まあ、もう会うこともないだろ。あんな特殊なことはそうそうないしな」
そう自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、尿意を感じ部屋を出た。
リビングを抜け玄関に近い扉を開けるとそこには彼女がいた。
昨日の恰好のまま膝にノートパソコンを置いて真剣な表情で画面に向き合っていた。
「……っ! なんでいるんだよ!」
あまりの驚きに一瞬固まってしまった。そのまま追い出そうかと考えたが、それを遮るように膀胱からのSOSが発せられた。
「と、とりあえずトイレ!」
慌ててトイレに駆け込み用を足す。
昨日飲み過ぎたせいかかなり長い用にふと思考が彼女のことに持っていかれる。
さっき見たときの時間は10時過ぎ。もう朝とは言えないほど昼よりの時間ではあった。
なぜまだ彼女がいるのか甚だ疑問だった。朝のうちに姿が消えているものだと思っていたからその驚きはかなりのものだった。
用を終え、手を洗い、トイレを出ても彼女はその場にまだいた。寝ぼけて幻覚を見ていたわけではないようだ。
「おいっ! なんでまだいる! 一晩泊めたら終わりじゃないのか?」
彼女は未だに玄関に座ったままだった。
彼女はゆっくりと立ち上がり深々とお辞儀をした。
「あ、あの……泊めて頂きありがとうございました。とても助かりました。そ、それで、あの……お礼をしようと待っていたのですが……」
なるほど。一晩のお礼だけはやりたいと。玄関だけという約束も律義に守ってずっとここにいたと。
約束は守るし律義にお礼まできちっとやろうというその姿勢は感心する。だけど、逆にそれが怖かった。
なんでこんな奴がコンビニで泊めてもらおうとしていたのか。訳アリ感がプンプンと匂ってくる。これ以上彼女と関わると悪い予感しかしない。ここはさっさと出て行ってもらうに限るか……。
そう結論づけて口を開こうとした瞬間、ぐうううううううううううう、と大きく腹の音が玄関を支配した。それに気づいたのか彼女は顔を真っ赤にして、おなかを抑えた。
「あ、あの……そ、その……これは、え、えーと……」
しどろもどろになりながらも恥ずかしさを誤魔化すように意味のない言葉を紡いでいく。
「なんだ? 腹減ってんのか? お前飯は?」
単純な疑問だった。
自分が寝てる間に勝手に部屋に忍び込んで勝手に冷蔵庫の中のものでも食べればいいものを。自分ならそうする。そして相手が起きてこないうちに勝手に出て行って有耶無耶にする。自分がホームレスになったり、金に困ったらやる自信がある。
いくら約束とはいえもう二度と会うこともない人間に気を使って死にたくない。死にたいならあんなに人に頼み込まない。そこらで野垂れ死ぬ覚悟を持った方がいい。
だからこそここまで律義に玄関だけという約束を守っていることも、お礼をしたいということも訳が分からなかった。
「えーと、昨日一日食べてなくて……」
「そうか。金ないのか? そんなに困窮するまで何してた?」
「そ、その……家出してきて今まで貯めてたお金が尽きてしまいまして……」
そう言って誤魔化したような愛想笑いを浮かべ、また彼女のお腹が大きく鳴った。先ほどよりも大きく鳴ったお腹を抱えて彼女は恥ずかしそうに顔を伏せた。
こんな姿を見ると自分が悪いことをしている気分になってきた。
一晩だけ泊める約束を自分は守ったわけでそれ以上は完全な出過ぎた真似で、もうここで彼女のお礼なんて求めずに突き返すのが一番いい選択なのはわかっているのだが。
それでもやはり、たった一人の縮こまった女の子を見ていると少しいいことでもした方がいいんじゃないかと思えてしまって……。
だからだろうかつい口から言葉が漏れ出た。
「朝飯くらい食ってくか? 簡単なものしかできんけど」
「え……いいんですか?! で、でも泊めてもらったのにそんなことまでして頂くわけには……」
なんというかここまで謙虚というか、律義というか。そんなこと言ってる場合でもないだろうに馬鹿正直というか。
そんな彼女を邪険に扱って休日を何もなかったかのように過ごせるほど自分の心は図太くできていなかった。
「いいよ。一食ぐらい。どうせ大したもんでもない。俺の飯のついでだ。そんな状態じゃお前の言うお礼というのもできんだろ。リビングに来い」
それだけ言い残してリビングのドアを開けてキッチンへと足を進める。彼女も申し訳なさそうではあるもののついてきているみたいだ。
「そこの椅子にでも座って待ってろ。すぐできるから」
「はい。ありがとうございます」
彼女は小さくお礼を言って大人しくダイニングテーブルの椅子に座った。
そのまま自分はキッチンに入り、冷蔵庫を開ける。
そこにはもはや見慣れた食材しか入っていない。
卵、ご飯、味噌、キムチ、ウインナーにチーズ。あとは簡単な調味料と2Lのペットボトルに入ったお茶しか入っていない。男の一人暮らし特有の缶ビールなんてものは一本たりとも存在していなかった。
ほとんどからの冷蔵庫から卵を4つとウインナーと、一食分に小分けされたご飯の入ったタッパーを二つ出す。ご飯はそのままレンジでチン。卵とウインナーをそのままフライパンで焼いて終わりである。
味気や栄養、彩なんてものは全く無縁の朝食の出来上がりである。
大学の頃たった一年の一人暮らしで得た朝の定番。もはや家ではこれしか作ってないまである。
できた料理とも言えない簡単すぎる目玉焼きとウインナ―を皿にそれぞれ乗せてご飯をレンジから出して、リビングに持っていく。幸い自分の面倒くさがりによって、食器類は溜まってから洗うので若干予備が多くある。
「ん、朝飯だ」
汁物すらないそんな朝食に彼女も驚いたのか、目が大きく開かれている。
「えーと、ありがとうございます。いただきます」
「文句は受け付けんぞ。俺は家ではこれ以外は基本食べないから材料もない。食えるだけありがたいと思ってくれ」
こんなものしか出せない自分が少し恥ずかしくて少し八つ当たり気味になってしまった。
でも仕方ないのだ。基本は外食やコンビニ弁当、時間があって何か作りたくなったらその日に材料を買ってその日のうちにすべて調理しないと腐らせることは何度も経験した。だからこその冷蔵庫のあの中身なのである。
「いえいえ。ご飯を頂けるだけでありがたいです。今日も何も食べられないものと思ってましたから……」
そう言って目玉焼きを食べる彼女は心底嬉しそうにおいしそうだ。普通ならここで彼女に色々聞くべきなのだろうがそんな姿を重い話で中断するのは躊躇われて自分も黙々とご飯を食べていく。
簡素な朝ごはんはものの10分ほどで終わり、腹に物が入ったからか、寝起きに一服しなかったからか、煙草を吸いにベランダに出ようと立ち上がる。
「あ、あの……ご飯ごちそうさまでした! そ、そのお礼なんですけど……」
そう言ったきり口を閉じてお礼を何にすれば考えている様子が見て取れる。
「とりあえず煙草行ってくる。お礼でも事情でもなんでも後で聞くから考えとけ」
それだけ言ってベランダに行き、置いてある椅子に腰かける。
嫌煙家の母が実家の部屋で吸うと怒るからと習慣づいた癖である。
室外機の上に置いてある灰皿とその横にちょこんと置かれている木製の椅子だけの簡易喫煙所は、そこだけでベランダでありながら一種の特別な空間を形成している。
ヘビースモーカーというわけではないが一日に何度もこの場所に来るためか一つの部屋みたいな感覚がある。
風も吹くし、雨が降れば少しばかり濡れたりもする。日差しが強くて嫌になる日も、凍えるような寒さの日でもずっとこうしてきた。だからなのか、ここで煙草を吸うということはある一つの精神安定の儀式みたいなところもあって。
5,6分かけて煙草を吸い終わり、少し空を見上げて考えに耽る。
ただただその行為が自分の心と思考をクリアにしてくれる。
彼女のことはどうしようもない。
年齢も出身も名前さえも知らないのだ。何も情報がない。
だからこそここからのことは出たとこ勝負。
何とか自分にできるとこをやってやろう。
そう決意して、ふーー、と少し長く大げさに息を吐きリビングに戻った。