Play×Tag×Vampire06
あぁ良かった。あの人は死んでいないのだ。アイゼンバーグは殺していないのだ。沸き上がっていた怒りが徐々に収まっていく。
「良かったとは、また変わったことを言う。別に親しくもないホノカが心配するようなことではないはずだろ」
アイゼンバーグはゆったりとした足取りでアタシの前まで来て、ぐいっと腕を引っ張った。身体が浮き上がる。しかし、それでも立ち上がれないアタシに少しだけ眉を寄せてそのまま歩き出した。どうやら引きずっていくことに決め込んだらしく、お構いなしに引きずっていくので靴がすり減りそうだった。ガガガガガガッと不愉快な音がしている。流石にこれではいけないと思い、アタシは頑張って足に力を入れて立ち上がった。その間も彼は進んでいるので少しもつれながらではあったが、立ち上がり、今は一応歩いている。相手の足が速すぎることもあってまだ若干引きずられているが。
「確かに親しくはないけど、でも目の前であんなことがあったら心配する。当たり前でしょ」
遅れて答えるとアイゼンバーグは少しだけ不思議そうな顔をして振り返った。しかし何も言わずに前を向いてしまう。
よく、分からない。アタシがあの人を心配しているのは人間社会では比較的当たり前だろうが、彼の世界では違うらしい。考え方が根本的に違うのだろうか。
トンッ
考えていたらアイゼンバーグが立ち止まっていることに気がつかず、背中にぶつかってしまった。少しだけしっとりした感覚がアタシの顔に伝わる。そうだこの人、今立っているのが不思議なくらいひどい怪我をしていたのだった。いつの間にか血の臭いに慣れてしまっていたので忘れていた。こういう時、適応能力の高い人間というものが嫌になる。
「さて、早く洗い流さないとな。血の臭いに誘われて面倒な奴が来る前に」
アイゼンバーグは呟いてアタシの腕を放し、ボロボロになったシャツを脱ぎ捨てた。真っ赤な背中が露わになり、少しだけ肺がギュッとなる。臭いに慣れても視覚的には慣れていないらしい。
それからアイゼンバーグは目の前にある蛇口を捻って出てきた水で体を洗い始めた。そうか水道。アイゼンバーグがここに来たのは水道で身体の血を洗い流すためだったのか。血の臭いに誘われてということだし、吸血鬼だからその類の臭いには敏感なのだろう。
アタシは洗い流されていく華奢な背中を見ながら、傷口には染みないのだろうかとぼんやり考えた。そんな素振りもないからきっと痛くないんだろうけど、深い切り傷と大量出血しているところを見るとホントに大丈夫なのかなと思う。さっきの男の人もだが、こんなになっても生きているというのはすごく不思議なことだ。
彼らは、吸血鬼というのはどんな存在なのだろう。知りたいとは思うが、まぁ知る必要もないような気がする。アタシは巻き込まれただけだから。
そうだ、今なら家に帰れるかもしれない。あれから随分と経ってしまっているのでさすがに家族も心配しているだろう。ここが分からなくてもそう遠く離れているわけでもないだろうし、何しろチャンスは今しかない。
アタシは白い彼の背中を窺いながら、きびすを返した。
「逃げてもいいが、殺されても知らないからな」
踏み出した一歩が、止まる。今何と言った? 殺される? アタシが?
「どういうこと?」
振り返るとアイゼンバーグは頭を垂れて水を被り、髪に飛んだ血をバシャバシャ洗い流していた。髪を通って下に落ちる水が赤を含まなくなると蛇口を閉め、背を伸ばした彼は髪の毛を掻き上げた。その、濡れて輝く純白の髪がひどく美しかった。
「そのままの意味だ。俺から離れれば、ホノカは殺される」
引き込まれそうになっていた意識が一気に引き戻された。
殺されるって、意味が分からない。アタシは彼の顔が見えるところまで回り込んだ。
「何で? アタシは関係ないのに!」
叫ぶつもりはなかったのに叫んでしまった。だって殺されるなんておかしい!
「関係はある。……俺の、吸血鬼の存在を知った時点で関係者だ。俺たちは人間に存在を知られてはいけない。いろいろ面倒なことになるからな。だから知られたらその相手を殺す」
淡々と言ってのける彼にアタシの怒りは増幅する一方だった。
「そんな一方的な! どうしてアタシが殺されるわけ? だって気づかれたのはアイゼンバーグなんだからどう考えたってそっちの方が悪いでしょ!?」
そう、アタシは見てしまっただけで、見られたアイゼンバーグが悪いに決まっている。見たくもなかったものを見て、それで殺されてしまうなんて理不尽にも程がある!
「ハッ。どうして俺が? どうして人間よりも吸血鬼が罰を受けなきゃならない? たかが人間ごときに俺たちが」
ゾクリ、全身が冷たくなる。
アタシの方を向いたアイゼンバーグの顔が、背筋が凍るほど怖ろしかった。ニヤリと笑う唇から覗く銀の牙はもちろんのこと、瞳が、少しも笑っていない冷たい青い瞳が怖かった。アタシを、いやアタシたち人間を明らかに自分たちより下に見ている目、蔑みの、目。たぶんアイゼンバーグたち吸血鬼は人間を家畜のようなものとしか思っていないんだ。ただの食べ物、力の無い弱きもの、食べ物に抱く感情などなく、殺すことなど至極簡単な……。
「でも、それならあの女の子は……?」
アタシがアイゼンバーグを見た時に血を吸われていたらしいあの女の子は殺されてしまったのか?
項垂れた身体、首筋から見えた真っ赤な血。それとももう殺された後で、死んでしまっていたのか? だとしたらアイゼンバーグは、この人は……人殺し。
「彼奴か。彼奴なら生きている」
「へ?」
驚きの一言に間の抜けた声が出てしまった。生きているって、だって。まぁほっとしたのだが、彼は今、自分の存在を知った者は殺すと言っていたのにまたどうしてだろう?
「彼奴は俺を見た瞬間に気絶した。そこを噛みついてやったから記憶も飛んでいる。それに一瞬では夢だと思うはずだ。人間は己の理解を超える出来事が起こると現実から逃げる生き物だからな」
アイゼンバーグはなにやら少し不機嫌そうに言った。ふむ、確かにアタシもこの人が吸血鬼だと公言した時に現実逃避しようとしたし、間違ってはいないだろう。でも、それなら。
「アタシだって見逃してくれれば良かったのに」
言ってもアタシも見たのは一瞬だった。あの時はアイゼンバーグの顔さえも分からない状態だったのだ。もしアイゼンバーグが追いかけてさえ来なかったら、アタシも現実逃避して終われたのに。
「あぁ、ホノカは無理だ。俺の姿だけならまだしもデインの姿まで見たからな」
……あのお兄さんはアイゼンバーグを追いかけてきたんだよな。だったらやはりアイゼンバーグがアタシの所に来なければ良かったのではないか? つまり全てを整理するとアイゼンバーグの所為ということで……。
あぁもうっ! 元凶は全てこの人にあるのか!
「それってアイゼンバーグが追いかけてきたからじゃない!」
「ホノカが逃げるからだ」
「じゃぁどうして追いかけてきたの?」
「そういう気分だった」
「は? 気分?」
淡白に答えた彼に気が抜けていくのを感じた。
「不味いものを飲んでかなりムシャクシャしていた時にホノカが逃げていくのを見て反射的に追いかけた」
あぁ、だからあの時少し怒ったような顔をしていたのか。あれは怒りというか不機嫌な顔だったのだ。いや、でもたったそれだけでアタシは命を狙われるようなことに巻き込まれてしまったのか? ただの反射で? もう自分の運の無さに悲しくなってきた。
しかしなんだ、アイゼンバーグはどうしてアタシを連れて逃げているのか分からなくなってきた。アタシなんて何の利益にもならない足手まといだからそのまま放っておけば良かったのに。アイゼンバーグにはアタシの命を助ける理由はないはずだ。アタシはその御陰で命拾いしているわけだが。これも気分なのか? ……もうっ、なんなんだ。