3-23.尾行【挿絵】
実際に聖輝は、その後すぐに気を失うようにして眠りこんだ。アミュウの頭痛もいいかげんに我慢の限界だった。ナタリアとジークフリートが、二階の「カトレヤ」へ食事がてら酒を飲みに行ってしまう頃には、アミュウも倒れる寸前だった。
アミュウのベッドは聖輝が使っていたため、アミュウは聖輝の布団を使った。
床を延べて布団にもぐりこむと、何かが足に当たった。布団の中から引き出してみると、小さな錦の布袋だった。良いにおいがする。白檀と丁子の小片が入っているらしい。
(いつも酒臭いかと思ってたら、一応気を配っているわけね)
アミュウはその小袋を握りしめて目を閉じた。床に直接布団を敷いて寝るのには慣れていなかったが、魔力の消耗が激しかったため、目線の低さをあまり気にすることなく眠りに落ちていった。
鎧戸を開けたまま眠ってしまったので、部屋の玄関扉が遠慮がちに叩かれたとき、窓から差し込む光の色で、アミュウはまだ朝の早い刻限だと見当をつけることができた。着替えもせずに眠ってしまっていたので、そのままの格好で扉を開けた。
黒い毛皮のコートを羽織ったエミリが外廊下に立っていた。クリスティアナが彼女をカラスと称したのも頷けるような出で立ちだった。
「おはよう、アミュウさん。昨日は大丈夫だった?」
「ご心配をおかけしました。はい、お陰様で」
エミリは、華のある笑顔を見せた。
「よかった。あれから心配してたのよ……はい、これ。お店の残りで悪いけど、良かったら二人で召し上がってね」
エミリはコートの下に抱えていたものをアミュウに差し出した。すっかり冷めた鍋だった。被せた布巾を持ち上げて見ると、もったりと白いポタージュスープが入っていた。
「わぁ、美味しそう!」
エミリは部屋の奥にちらりと目線を送った。
「彼、まだ寝込んでいるの?」
「ええ……」
アミュウは曖昧に頷いた。
「アミュウさんに続いて聖輝さんまで倒れちゃ大変でしょう。何度も繰り返すようだけど、いつでも頼ってね」
エミリは「それじゃ」と言って、隣の三〇二号室へ戻っていった。鍋はすっかり冷めていたが、アミュウの胸の奥がじんわりと温かくなった。
アミュウは暖炉に火を入れた。火打石を鳴らすと、例によって聖輝が唸りながら寝返りを打った。アミュウは聖輝がまだ眠っていることを確かめてから、エミリの持ってきた鍋を火にかけた。芋のポタージュらしい。鍋の中身が温まるにつれて良い香りが漂ってくる。アミュウは暖炉の前を離れて、ベッドに近付く。昨日はアミュウと同じく着替える余力もなく、聖輝も祭服のまま眠っていた。アミュウは、ワイン染みのできた聖輝の詰襟が気がかりだった。カーター邸で過ごしていた頃、イルダの来ない日にはアミュウが洗濯を受け持つこともあったが、セドリックやナタリアが作ったワイン染みはなかなか頑固だった。早く洗ってやりたいと気を揉む。
アミュウの行李の中には、もう洗濯済みの服は無かった。もう一日同じ服を着て過ごすのかと諦めてうなだれていると、再び玄関扉が叩かれた。戸を開けると、大籠を背負った婦人が立っていた。
「おはようございます。今回は随分と多かったですね。仕上がりましたよ」
「ひょっとして、洗濯屋さんですか」
「ええ、ミカグラさんには贔屓にして頂いていて。さあ、どうぞ」
婦人は生成りの麻袋から洗濯済みの衣類を次から次へと取り出しては、差し出されたアミュウの両腕に山と積んでいった。山の中には聖輝の肌着も混じっていて、アミュウは思わずそれらをまじまじと見た。支払いを済ませて扉を閉じると、ベッドの上で上体を起こした聖輝と目が合った。
「立て替えて頂きましたか。いくらでしたか」
「私の分もずいぶんあったわ。気にしないでください」
アミュウはごくあっさりと言い切り、帆布の鞄に財布をしまった。再び枕に突っ伏した聖輝に、アミュウは訊ねた。
「具合はどうですか」
「昨日よりはましですが、今日は一日寝ていたいところです」
アミュウは温まったスープをベッドに持っていくと、自分も食卓で芋のポタージュをすすった。二人ともぺろりとスープを平らげた。食器の片付けが終わるころ、再び横になっていた聖輝はアミュウに問いかけた。
「アミュウさん。あなたこそ調子はいかがですか。病み上がりの上、昨日は随分無茶をしたのでは?」
アミュウは敷きっぱなしの布団に腰をおろして、洗濯物をたたみ始めた。
「さすがに疲れました。でも大丈夫、聖輝さんよりは元気よ」
聖輝の分とアミュウの分に分けた洗濯物をそれぞれの行李にしまうと、アミュウは久しぶりに衝立を広げて、その裏で着替えた。聖輝は呟いた。
「既に一度見てるんですから、隠れなくてもいいのに」
「馬鹿。助平。変態。それでも牧師ですか」
「まだ見習いですから、煩悩にまみれているんですよ」
アミュウが思いつくままに罵ると、聖輝は声をあげて笑った。アミュウは着替えが済むと、衝立を畳んで部屋の端に寄せた。
聖輝はアミュウの方を見てしばらくニヤニヤ笑っていたが、やがて目を閉じた。規則正しい寝息が聞こえてくると、アミュウは肩をすくめた。
聖輝はアミュウより八つも年上のはずだったが、今の聖輝はその寝顔の印象のとおり、まるで子どもだった。思えば、出会った頃にはいかがわしい男だと感じたものだった。ナタリアを結界のうちに拐かした聖輝の横顔を、アミュウは今も鮮明に思い出すことができる。それが、不本意ながら付きまとわれるようになり、果ては唐突に共同生活を始めるに至ったわけだが、近ごろは一緒にいるのが当たり前になり過ぎて、聖輝が王都へ帰ってしまうというのに、今一つ実感がわかなかった。
そこで本日三回目のノックがあった。アミュウは聖輝を起こさないよう、そっと玄関のドアを開けた。
「おはよう、アミュウ!」
今度の来客はナタリアだった。彼女は片腕にピッチを乗せ、もう片方の手に弓を握り、矢筒を背負っていた。アミュウは慌てて「しぃー」っと人差し指を立てると、声をひそめて挨拶に応じた。
「おはよう……どうしたの、そんな格好で」
「どうしたのって、ケインズおじさんとジークの後をつけるに決まってるじゃない」
アミュウはくらりと眩暈を感じた。病み上がりだからというわけでは、決してない。
「どうして弓なんか持ってるの」
「念のため」
「どうしてピッチが一緒なの」
「お散歩も兼ねて、ね」
アミュウはこめかみを押さえた。頭痛が戻ってきそうだった。そんなアミュウの様子を、ナタリアは別の意味で心配したようだった。
「なに? まだ具合が悪いの?」
「いいえ、大丈夫よ」
アミュウはかぶりを振った。確かに、ケインズ・カーターとマッケンジー・オーウェンの動向は気になる。アミュウは聖輝の方を見た。ぐっすり寝込んでいる。
「私も一緒に行くわ。すぐに準備するから、待ってて」
商工会議所はセントラル・プラザの片隅、プラザ・ホテルの影になる場所にひっそりと事務所を構えていた。もとは教会や職人街と同じ西部にあったのを、ケインズが会頭になってから街の中心部へ移転してきたのだった。もう十年以上昔、アミュウがほんの子どもだった頃の話だ。
「そのときは、他の地区の会員や役人からは通いやすくなったって評判だったけど、昔気質の西部の職工さんたちからは大ブーイングをくらったって、ヴィタリーが話してた」
「ねぇ、それよりも。私たちが尾けるってこと、ジークに知らせなくていいの?」
「いいのいいの。話したら、どうせ危ないだのなんだのって、反対されるでしょ」
ナタリアは手をひらひらと振った。
アミュウとナタリアは、広場の木陰のベンチに座っていた。ピッチはベンチの手前の地面をひょこひょこと歩いている。ベンチは灌木に囲まれ、商工会議所事務所からは見えにくいが、ベンチ側からは枝影を透いて事務所の様子がよく見える。
しばらく待っていると事務所の扉が開いて、ジャケットを着込んだジークフリートと、中折れ帽をかぶったケインズが出てきた。ナタリアはクスリと笑った。
「あのジークが、秘書みたいな真似してる。似合わないね」
アミュウも同感だった。ジークフリートには、切った張ったの世界の方がお似合いだ。そう感じるのは、ジークフリートの本業を知っているからか。
「ボディーガードが、剣を忘れてきたっていう風体ね」
ナタリアはうんうんと頷くと、足元のピッチに向かって腕を差し出した。
「ピッチ、おいで」
「ピッチャン、おいデ!」
ピッチはナタリアの言葉を文字通りオウム返しで繰り返し、ナタリアの腕にちょこんと乗った。ナタリアとアミュウは物陰に隠れながらケインズたちを追う。
「今日はまた、一段と冷えるな」
ケインズの独り言を受けて、ジークフリートは荷物の中からマフラーを差し出す。
「お、気が利くな」
セントラル・プラザを抜けて西部地区へ向かう目抜き通りだった。雑踏のうちではあったが、彼らが大声で話してくれているお陰で、アミュウとナタリアはかえって彼らの会話を明瞭に聞き取ることができた。
「気が利くのは秘書さんっすよ。あの人、今日は自分が休暇だからって、昨日のうちにわざわざ俺にこれを寄越してくれました」
「あいつは、この仕事が長いからな」
「俺はまだ一か月です」
尾行しているアミュウたちには二人の表情は見えなかったが、ジークフリートが歯を見せて笑っている様子がアミュウの目に浮かんだ。
「もう一か月か。どうだ、この職場は」
「良いところっすね。みんな親切ですし。俺、こんな風に腰を据えて働いたの、初めてです」
「君は確か、収穫祭までの臨時のアルバイトだったね。どうかね、長期で働いてみては?」
ジークフリートの曖昧な誤魔化し笑いが聞こえてきた。次いでケインズも声を上げて笑った。
「君は、実に気持ちが良い青年だね。息子のそばに置いておきたい気分だよ」
「ダミアンさんっすか。青年部の」
「ああ。あいつにはじきに、私の後を継いでもらわないとな。そのとき、近くで支える若者が必要だ」
「別に俺じゃなくても、ダミアンさんには青年部にそういうお仲間がいっぱいいるじゃないですか」
ケインズは首を横に振った。
「駄目なんだよ。青年部に入っているのは、おおむね皆、どこかの跡取り連中だ。そういう若者が、商工会トップと公私にわたってつるむとどういうことが起こるか。こういう組織のマネジメントをやるには、出身がフェアでないとね。分かるかい?」
「よく分かりません」
ジークフリートは素直に答えた。
「要は俺が根無し草だから、『フェア』な仕事ができるだろうってことですか」
「もちろんそれだけではないよ。君自身の資質もある」
ジークフリートは少し考えてから、こう切り出した。
「根無し草といえば、俺が遭難してたところを助けてくれたのが、町長さんたちだったんですが――」
「ああ、セドリックから聞いたよ。大変だったろう」
「町長さんたちにはホント世話になりました……それで、町長さんの家に厄介になってるときに聞いた話なんですけど」
「ほう」
「あそこのお嬢さん――姉のほうが、何やら教会の偉い人の御曹司と見合いをしたそうなんですけど、どうやらそいつをフッたそうで」
アミュウとナタリアは顔を見合わせた。うまい話の繋げかただ。ケインズも興味を持ったようで、後ろを付いてくるジークフリートの方を振り返った。
「なに?」
「あの家には息子がいないから、お嬢さんが跡を継ぐしかないじゃないですか。せっかくうまい縁談が舞い込んだのに、相手が牧師じゃ嫁に行かなきゃならない。そんな話は受けられない……そんなとこじゃないんですかね」
「なるほど」
ケインズはうつむいて何やら考え込んでいる様子だったが、やがて口を開いた。
「うちのダミアンもそういう年ごろでね。こっちが苦労して見つけてきた見合いに、なかなか乗り気になってくれないんだよ。こんなことなら、早いうちから婚約させておくんだった」
「婚約っすか」
「ああ、扱いの難しい年齢になる前に、さっさと相手を定めておくべきだったよ」
ジークフリートは、ケインズの嘆きには黙したままだった。
ケインズたちは目抜き通りを折れて、職人街の方へ歩いて行った。この道は人通りが少ないので、アミュウたちは十分な距離をとって二人を尾行した。二人は相変わらず世間話を続けているようだったが、何を話しているか、はっきりとは聞こえてこなかった。




