3-20.空間を超えて【挿絵】
「――ナターシャに、何かあったの⁉」
アミュウが問いかけるまでの僅かなあいだに、聖輝は出かける支度をすっかり整えていた。その腕をアミュウが掴んだ。
「離してください。時間がありません」
「空間転移するつもりね」
切迫した様子の聖輝の態度を見て、アミュウもオーバーを着込み、靴を履き、蓮飾りの杖を携えた。
「私も連れて行ってください」
アミュウの無謀な申し出に、聖輝は一瞬目を丸くしたあと、顔を背けて一蹴した。
「いけません」
「どうして。ナターシャが危ない目に遭っているんでしょう? 私が行かないでどうするの」
「無理です」
「私だって何かの役に立てるはず――」
「できないんです」
聖輝はアミュウの肩を掴んで椅子に座らせた。そのまましゃがみ込み、アミュウと同じ目線の高さでアミュウの顔を正面から覗き込んだ。聖輝の目には苦渋の色が滲んでいた。
「空間転移術は消耗が激しい。あなたを一緒に連れて行くだけの力は、私にはありません。残念ながら、私では無理なのです」
アミュウは信じられない思いで聖輝の顔を見返したが、その瞳に嘘の濁りは無い。
「私に任せてください。ナタリアさんの身は私が必ず守ります」
普段は胡乱気な彼が見せる、いつになく真剣な目の色を見て、アミュウはひとまず納得せざるを得なかった。しかし、このまま引き下がるわけにはいかない。
「なら、自力で行きます。場所を教えて」
聖輝の瞳が揺らいだが、迷っている暇は無いと判断したのだろう。戸惑いを一瞬で消して、聖輝はアミュウに顔を近づけた。アミュウが息を飲む間もなく、アミュウの額に聖輝の額を合わせる。
「目を閉じて」
言われるままにアミュウは、早まる鼓動を抑えて目を閉じた。その途端、目蓋の裏に先ほどの森の光景がより鮮明に浮かび上がった。
「見えますね。ここがどこか分かりますか」
一見したところ、どこといって特徴のない森の風景だが、アミュウは冬木立の中のひとつ、途中から妙な方向に傾いでいる橡の木に注目した。この木には心当たりがある。
「小屋の目の前だわ。ここなの?」
聖輝は額を離し、頷いてみせた。額が離れた途端に、森の幻像は霧散した。
聖輝は数歩後ろに下がると、芯の通った声でアミュウに言い含めた。
「前にも言ったが、これは真似してはいけませんよ。あなたも来るつもりなら、杖で飛んで来るといい。そのころには全て終わらせています」
そして慣れた手つきで十字を切り、その手で虚空に大円を描いた。すると描いた軌跡のとおりに、何もない空間が白く輝く。その光の円をくぐり抜けて、聖輝はあっけないほど簡単に空間を飛び越えていってしまった。光は音もなく、すぅっと縮んで跡形もなく消えた。
あとには静かな部屋にアミュウが残されたのみだった。暖炉の近くには、さっきアミュウが点火しようと取り出した火打ち金と火打石が転がっていた。
アミュウは蓮飾りの杖を固く握りしめた。聖輝は飛んで来いと言ったが、ここから森の小屋まで全速力で十五分ほど。間に合うだろうか。
そしてアミュウの胸の内には、聖輝の「真似をするな」という言葉に対する違和感がくすぶっていた。その言い方はまるで、やろうと思えば真似できるような物言いではないか。
どうすれば良いのかなど分からない。しかし、空間を繋げることができるのなら、移動することだってできるのではないか。
(――よし)
アミュウは目を閉じて集中した。
目を閉じたアミュウの脳裏に、師の姿が浮かんだ。師といっても、メイ・キテラではない。王都時代に師事した魔術師、三十そこそこの丸まった、痩せて薄い背中が、そのときアミュウには妙に懐かしく思われた。
第二の師に出会ったとき、彼は空間制御魔術の理論の研究をしていた。彼自身に空間制御術の適性は無く、弟子のアミュウがすすんで実験台となり、彼の理論の証明に助力したのだった。師の論文を隅から隅まで読み込み、夜遅くまで師と論戦を交わして過ごした日々。そして初めて工房の一階と二階の空間を「繋げる」ことに成功したとき――師は、眼鏡の奥の目を点にしてアミュウを見た。アミュウ自身は、あっけないほど簡単に術が成功したことに拍子抜けしていた。
そんな思い出が、一瞬のうちにアミュウの胸を去来した。あのころ師に教わったのは、予め専用の魔法陣を敷いてある空間と、目の前の空間とを繋げる方法だった。
(大丈夫。魔法陣なら、ちゃんと用意してある)
そう、空間制御の魔法陣なら、アミュウの小屋全体に、大がかりなものを敷いてある。そもそも空間制御の術は出先から入用な品を取り出すために用いていた術なのだった。アミュウはこれまで何度も、空間を切り取り魔法陣内の任意の空間と繋げ、その「切れ目」に腕を差し入れて、目的の品を持ち出していた。「切れ目」に腕を入れることができるのなら、全身を「切れ目」の向こうに投じることも、可能なのではないだろうか。
迷っている暇は無かった。
アミュウは蓮飾りの杖を掲げると、先ほど聖輝がやったのと全く同じように、虚空に円を描いた。
「――繋がれ‼」
白く輝く魔法円が空中に出現する。この光の向こうは森の小屋に繋がっているはずだ。アミュウがこれまで何度となく行使してきた空間制御の術である。いつもは片手を差し入れるだけだったその光に、アミュウは蓮飾りの杖を握りしめたまま両腕を差し入れる。次は、意を決して、目を閉じたまま頭を突っ込む。肩、胸。そして片足ずつ、空間を乗り越えていく。
光は、よく晴れた春の日差しのように柔らかく、暖かかった。空気の密度が高く、湯のように肌にまとわりつく。風が周囲の風景をさらっていくのを、目を閉じたまま感じていた。その心地よさにアミュウは酔った。
(ああ、懐かしい。私、この感覚なら知っている。ずぅっと昔に、こうして光と温もりに包まれていたわ)
アミュウを抱き止めた懐かしい感覚は一瞬のうちに消えうせた。
アミュウはついに魔法円を乗り越え、光の向こう側へ降り立った。その途端、温かな光はかき消え、同時に、おびただしい量の魔力がアミュウの身体から抜け落ちていくのを感じた。急に襲ってきた倦怠感に膝を折る。今朝やっと消えたばかりの頭痛が再び戻ってくる。熱病による頭痛ではない。魔力を大量消費したことによる頭痛だった。
アミュウは身体の重さと頭痛に耐えながら、蓮飾りの杖を頼りに立ち上がる。ほぼ一月ぶりに帰ってきた我が家は、慌ただしく立ち去ったときと寸分たがわず、懐かしい薬草と香のにおいでアミュウを迎えた。アミュウはよろよろと玄関の横の小窓に向かい、外の様子を窺う。
アミュウの小屋の前は、小さな広場になっている。広場の向こうには、今は葉を落とし裸となった橡の木が佇んでいる。アミュウが脅迫者に襲われた翌日、ジークフリートが気まずそうに身を隠していた樹木である。
その橡の木の前に、正面を向いた聖輝、そしてその後ろにナタリアが立っている。聖輝の手前、小屋との間には、知らない男の後ろ姿があった。聖輝たちと男の間の地面には、刃物が落ちていた。
アミュウには、その男の上着の上等そうな生地に見覚えがあった。
(――脅迫者だ‼)
恐怖で高鳴る心臓の鼓動を抑えようと、蓮飾りの杖を握りしめる。
(落ち着け、アミュウ。まずは状況を把握しないと)
よく見ると聖輝の息は荒く、顔色が青い。アミュウは小窓を、男に気付かれないように細く開けた。
「成程。こっちが本命というわけですな。御神楽の若君」
男は研ぎ澄まされて鈍く光る鋼鉄を思わせる声で、聖輝に語りかけた。
「なぜそう思う」
聖輝は声だけはしっかりと――しかしふらふらと前後する頭を抑え、顔面蒼白な中に浮かび上がる瞳の光は濁っていた。
「あなたが彼女の前に出てきたことが何よりの証拠ではないか。あの魔術師の娘っ子のときにはちっとも動かなかったあなたが」
アミュウは、頬を打たれたような衝撃を受けたが、今は気落ちしている場合ではないと自分を叱咤し、外の様子に注意を払った。
聖輝は遠目にも立っているのがやっとであるように見えた。ナタリアがおずおずと彼の身体を支えようと腕を伸ばすが、聖輝はナタリアを制し、かばうようにして彼女の前に立つ。そして男に問うた。
「名乗れ。どこの手の者だ」
「カルミノ・ザッカリーニ。お察しのとおり傭兵だが、雇用主の名まで教える義理はない。御神楽のひよっこよ」
アミュウはその男の名に聞き覚えがあった。どこでだったか。
男――カルミノは身じろぎした。カルミノの手が、自らの背中、腰のあたりから上着の中へ伸びたのをアミュウは見た。特にどうという所作でもなかったが、アミュウの脳天のあたりに潜む勘が警鐘を打ち鳴らした。
アミュウは考える間もなく、玄関を飛び出していた。扉を抜けた辺りで、カルミノが背中から抜身の小型ナイフを取り出したのが見えた。そして、こちらを振り向く。はじめて見る脅迫者の顔。四十絡みだろうか、眉間の皺の深い、険のある精悍な顔立ち。聖輝と似ているようで彼よりは艶のない、炭のような長い黒髪を後ろで編んで、丈夫な一本縄のようにしている。その灰色の目がアミュウを視界にとらえて丸くなり、振り返った拍子にお下げ髪が尻尾のように跳ねる――。
カルミノがナイフを構えるよりも、アミュウが飛び込む方が早かった。蓮飾りの杖の石突を、カルミノの腰のあたり目掛けて思い切り突き出す。アミュウの、決して重くはない全体重をかけた突きは、確かな手ごたえをもってカルミノの体幹を揺るがした。
カルミノはよろめくが、ほんの半身ほど後退しただけで踏みとどまる。ナイフを握っていない左手で蓮飾りの杖をむんずと掴むと、アミュウごと庭のほうへ放り投げた。アミュウは背中をしたたかに打ちつけた。病み上がりの肺が縮みあがり、思わず咳き込む。
「アミュウさん!」
聖輝は青い顔をさらに青くしながら、革の鞄からハーンズベーカリーの、今朝の朝食ですっかり短くなったバケットを取り出してカルミノに投げつけた。カルミノが飛びのくのと、聖輝が右手指で十字を作るのはほとんど同時だった。
破裂音とともに、バケットが閃光を上げて爆発する。
森が白い輝きに包まれた。鳥たちがけたたましい声を上げて真昼の空へ飛び立つ。庭へと投げ出されたアミュウは目を開けていられなかった。
光の気配がやみ、アミュウは恐る恐る目を開く。カルミノ・ザッカリーニの姿はどこにもなかった。
どさりと重い音がした。
ナタリアが支える間もなく、聖輝がその場に突っ伏して倒れ込んでいた。




