3-19.再び、紙雛【挿絵】
翌朝目が覚めると、熱はすっかり下がっていた。呼吸もだいぶ楽になった。アミュウは大きな伸びをひとつして、そろりとベッドを抜け出した。聖輝はまだ眠っている。
アミュウは行李を開けて、着られる服を探した。ほとんど洗濯屋に出してしまっていたが、運よく残っていたシャツワンピースに着替えた。こうして身支度を整えるのは三日ぶりだった。アミュウは空腹を覚えた。ここ最近、食べ物をろくに口にしていないのだった。
食料置き場には、野菜がいくつかと燻製肉が残っていた。アミュウはそれらをざっくり刻み、鍋に放り込んでスープをこしらえる。炉の火に薪をくべ、三脚に鍋を乗せると、アミュウは布団に横たわる聖輝を見た。聖輝の朝はいつも遅い。まだしばらくは起きないだろう。
水瓶の水をスープに使い切ってしまった。アミュウはオーバーを着込むと、水瓶を抱えて部屋を出た。冷たい空気に肺が縮みあがる。アミュウは咳こみながら狭い階段を下りて、建物裏手の私設井戸に向かうと、先客がいた。
「あら、アミュウさん」
クリスティアナが、この寒いなか上着も着ないで、シャボンの泡を散らして洗濯板にシャツをこすりつけていた。
「おはようございます」
アミュウは挨拶をして、蓋の開いたままになっている井戸に釣瓶を落とした。
「なんだか長いこと顔を見なかった気がするわ」
洗濯の手を休めずに、クリスティアナが話しかけてきた。
「最近忙しかったので……それに、ここ数日は寝込んでしまって」
「あら、まさか流行り病?」
「ええ……」
「まぁ、大変!」
アミュウは釣瓶を引き上げ、水瓶を水で満たすと、笑みを浮かべてクリスティアナに頭を下げた。
「うつしてしまってはいけないので、もう失礼しますね」
「ちょっと待って」
クリスティアナは前掛けで手を拭き立ち上がり、冷たい両手でアミュウの手を握った。あまりの冷たさに、アミュウは思わず後ずさりするほどだった。
「いくら二人暮らしでも、病気じゃ大変だったでしょう。困ったときは遠慮なく頼ってちょうだい」
ちょうどその時、扉が開く音がして、二階からエミリが真っ黒な毛皮のコートを羽織って降りてきた。
「あ、来たわねカラス女」
「藪から棒ね。どうしたのよクリス――おはよう、アミュウさん」
エミリも井戸に用があるらしく、大きな水瓶を抱えていた。案外力持ちのようだ。麦打ちのときに、彼女が農家出身だと話していたのを、アミュウは思い出した。
クリスティアナは呆れたように首を横に振った。
「この子ってば、流行り病で寝込んでいたんだって。エミリ、知らなかったでしょう」
「え、そうだったの? 大丈夫なの、アミュウさん」
エミリが心配そうな目をアミュウに向けると、クリスティアナは腕を組んだ。
「駄目じゃないの、お隣さんから目を離しちゃ。よく気をつけてあげて」
「そうは言っても、ここ最近あまり見かけなかったから……」
そこでエミリははっと気付いたようだった。
「そうだ、アミュウさんはメイさんのお弟子さんだものね。今回の流行り病で、メイさんのお手伝いをしていたんじゃないの」
アミュウは二人の会話の速度からやや取り残されながらも、遠慮がちに説明した。
「お手伝いというか……患者さんのお宅を回っていました。聖輝さんもずっと施療室に詰めていたので、今、私たちにあまり近付いては、病気をうつしてしまうかもしれません。クリスティアナさん、お気持ちはとても嬉しいのですが、そういうわけであまりご迷惑をかけられないんです」
そういうとアミュウはさよならの挨拶をして、水瓶を抱えて階段を上がっていった。エミリとクリスティアナのもの言いたげな視線を背中に感じたが、振り返らなかった。
部屋のドアを開けると、暖炉のスープが煮えたぎっていた。アミュウは火ばさみで薪を動かし、火加減を調節した。しかし、一度勢いのついた炎はなかなか収まらなかった。薪の山を崩してみれば、かえって新鮮な空気を送り込むこととなり、火が大きくなる。
「貸しなさい」
いつの間に起き出したのか、背後にいた聖輝がアミュウから火ばさみを奪い取ると、器用に薪を一本ずつよけていき、火の手を落ち着かせていった。アミュウは昨日のやり取りを思い出してなんとなく決まりが悪くなり、膝立ちのまま後退した。聖輝が振り返って目を細める。
「随分と顔色が良くなりましたね」
アミュウはカーペットの上にぺたりと尻をつけて座った。カーペットの下から石の冷たさを感じる。一頻り金の巻き毛を指で弄んだ後、アミュウは小声で言った。
「……ありがとう、ございます。お陰様でだいぶ良くなりました」
聖輝は思い切り噴き出した。アミュウは顔から火が出そうだった。
「――笑わないでください!」
「ああ、失敬。別に、私は何もしていませんよ。湯冷ましを用意したり、あなたの洗濯物をまとめたり、着替えを取りに行ったり、枕を貸したり、何なら手を握らせてあげたり。まぁそれくらいのことです。ああ、そう。それに――」
聖輝はそこでいったん言葉を切ると、そこ意地悪く笑ってみせた。
「――着替えだって、私が何か手を貸したわけではありませんよ。あなたが勝手に自分でやったんです」
アミュウは、頭の中で何かが爆発する音を聞いた気がした。
「……最低‼」
そのままアミュウはベッドにもぐり、頭の先からつま先まで掛け布の内に引きこもった。聖輝がくつくつと笑う声が暫く聞こえてきたが、そのうちに食器の擦れる音やパンを切る音が聞こえてきた。朝食の準備をしてくれているらしい。
「アミュウさん。もう一日絶食したってもちろん構わないのですが、もし食べたいのなら、早くそこから出てこないとスープが冷めてしまいますよ」
アミュウはのろのろと起き出した。食卓の上には、アミュウが森の小屋から持ち込んだ鍋敷き――アミュウが実家を出るときに、イルダが餞別にと持たせてくれた、彼女の手製の厚手のキルト――の上に、湯気立つ鍋が載せられている。パン皿には、営業を再開したハーンズベーカリーのバケットが数切れ。聖輝は椀にスープをよそり、手際よく二人分の食事を整えた。アミュウの胸の内にはまだ悔しさがくすぶっていたが、腹の虫は正直で、ぐぅと鳴ったその音を聖輝に聞かれてさらに笑われるという失態を演じた。踏んだり蹴ったりだったが、食欲には勝てずにアミュウは黙って食卓についた。
聖輝が祈りの文句を唱え、アミュウは目をつむって手を組む。そしてスープにありついた二人は、間の抜けた顔を見合わせた。
「――聖輝さん、味付けしなかったの?」
「てっきり、アミュウさんが済ませていたものかと」
聖輝はアミュウの調子が戻ってきているのを見て取ると、教会へ出かける支度をした。流行り病の患者動向はだいぶ落ち着いてきたものの、教会には雑用が山のようにたまっていた。聖輝がカーター・タウンの教会を助ける理由はどこにも無いが、彼は「敵地視察」とつぶやきながらマッケンジー・オーウェン牧師を手伝っていた。
「お昼ごろにナタリアさんが来るはずです。何か差し入れを持ってくると言っていたので、食事の支度は不要でしょう。私も、そのころに戻ります。いいですか。まだ体調も万全でないのだから、しっかり寝ているのですよ」
そう言い残して、聖輝は祭服の白いチュニックにガウンを羽織り、二重マントを身につけると、部屋を出て外からしっかりと鍵をかけた。
聖輝の靴音が階下へと消えていくのを聞き届けると、アミュウは立ち上がって部屋の掃除を始めた。ナタリアを迎えられるよう、塵を掃き、こまごまとした物を片付け、暖炉の中の灰を掻き出し、灰溜めバケツに放り込む。灰がもうもうと舞い立つのを吸い込んでしまい、アミュウは咳こんだ。このくらい大丈夫だと踏んでいたが、肺炎の病み上がりには流石に無理だったらしい。急に疲れをおぼえて、アミュウはベッドに横になった。目を閉じると、昨夜の夢がまぶたにうかぶ。今回見た夢について、聖輝に報告する必要があるだろうか――もちろん、情事の部分は除いて。考えているうちに、アミュウの目蓋は閉じていた。
外から鍵を開ける音で目が覚めた。少し休むだけのつもりが、すっかり眠り込んでしまっていたようだ。アミュウは飛び起きた。
「遅くなりました――あれ、まだナタリアさんは来ていませんか」
聖輝が部屋に入るなり辺りを見回して訊ねた。
「おかえりなさい。ええ、まだですが」
「おかしいですね。もう昼を回っているのに」
聖輝は二重マントを脱いで椅子の背に掛ける。茶でも淹れようとアミュウがベッドから立ち上がると、聖輝は首を横に振った。
「そのまま寝ていてください」
「いいえ、そろそろ起きるわ」
アミュウは湯を沸かすため、火打石と火打ち金を手に取った。しかしそれらを打ち鳴らす前に、聞き慣れない微かな音が聞こえた気がして、アミュウは手を止めた。
――ちりっ。
紙屑に火を着けたときのような、微小な音だった。何の音だろうと辺りを見回すと、眉を寄せてポケットを探る聖輝の姿が目に入った。
「どうしたんですか」
聖輝はそれには答えずに、ポケットから小さな布袋を取り出した。袋の中から出てきたものの形を見て、アミュウは首を傾げた。
「それって――紙雛?」
聖輝は頷きもせずに手に持った小さな紙雛を凝視していた。アミュウも聖輝に近付き、それを見つめる。アミュウが以前にもらったものとは、少し印象が違っていた。細かな模様の描かれた青藍色の紙が使われている。男性を模した人形なのだろうとアミュウは見当をつけた。その人形の首の部分に、何か尖ったもので突いたようなへこみがあり、今にも紙が破れそうになっている。
アミュウがこれは何なのか問いかけようと聖輝の顔を見ると、聖輝の目は人形を映していなかった。黒い瞳に鏡のように映っているのは、手元の紙雛ではなく、ここではないどこか他の風景だった。不安になったアミュウが聖輝の手ごと紙雛に触れると、冬木立の並ぶ森の景色がアミュウの目にも垣間見えたが、聖輝が瞬きをすると、その不思議な光景は幻のように消えた。
「今のは」
アミュウが聖輝の顔を見上げると、聖輝はぶんぶんと頭を振って舌打ちした。
「何だって森なんかにいるんだ」
聖輝は紙雛をポケットに突っ込むと、戸棚からワイン瓶と朝の残りのパンを掴み取って小脇に抱え、革の鞄を肩に掛けた。
アミュウは今見たものの意味を考えていた。スタインウッドで聖輝が新しい紙雛をアミュウに持たせようとしたとき、アミュウははっきりと断った。今、紙雛を持っているのは――そこまで考えて、アミュウは青くなった。




