3-18.逢瀬の記憶【挿絵】
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石造りの城の夜は冷える。デウス山脈に抱かれるように、扇状地の要の部分に築かれたロウランドの城と城下町は、昼夜の寒暖差が激しく、秋から冬の始まりにかけてのこの時分は霧に包まれるのが常だった。
私は厚い錦織のカーテンを押し開き、窓の鎧戸を開けた。白み始めた空と全く同じ色のミルクを流したように、濃霧が眼下の森を覆い、背高の樹々の三角帽子のみが見えていた。
部屋の中は夜明けの透明な光にうすぼんやりと照らされている。敷き詰められた絨毯、寝台の天蓋のアラベスク紋様のひだやレースの陰影、ベッドサイドの小さな机に飾られた初雪起こしの花――どれも彩度を失って、ガラス細工のように見える。
こういう朝には、どうしたって期待が高まる。
水差しの水と陶器のたらいで顔を洗い、暗く艶のある栗色の髪をくしけずる。いそいそと寝間着から部屋着に着替えて、窓辺に椅子を引き寄せ、合図を待った。
それほど時間のたたないうちに、窓に礫の当たるひそやかな音が響いた。私は立ち上がり、窓を開ける。塔の根元の武者走りに、霧に紛れて人影が見える。その人影に向かって私は手を振ると、寝台の下に隠してあったロープを引き出して、窓の下に放った。ロープの端は、大きくて頑丈な寝台の脚に括りつけてある。
私は窓をすっかり開け放し、侵入してくる外気に震えながら寝台に腰かけて、その人物が塔をよじ登ってくるのを待った。
「お早うございます、姫殿下」
窓枠に足をかけるより早く朝の挨拶を投げかけるその騎士を、私は腕を差し伸べて迎え入れた。もうすぐ十六の誕生日を迎える、初冬の煌めく朝だった。
彼が窓枠に腰を預け、部屋に足を下ろす段になると、私は彼に抱き着いて全体重を預けた。
「シグルド――待っていました」
彼は、私の飛びついた勢いに仰け反らせ弓なりになった上体を、反動に任せて縮め、私の体を抱きすくめた。
「会いとうございました」
シグルドは私を抱いた勢いそのままに、寝台まで突き進んだ。
逢瀬はあっという間だった。太陽が顔を出した時が、夢のようなその時間の終わりだった。シグルドは装備を整えると、来た時と同じようにロープを伝って武者走りへ着地し、持ち場へ戻っていった。私はロープを引き上げながら、憂鬱に考えた。今のこの幸せな時が永遠に続くわけではない――いつかは、父王陛下の選んだ婿と婚儀を果たし、子を成さねばならない。それが王女として生まれついた運命だった。
鋭い頭痛がこめかみを襲った。
運命について考えるとき、決まって訪れる痛みだった。私は寝台に背中から飛び込み、その痛みの去るのを待った。
普通とは違う星のもとに生まれた。物心ついたときから、自覚はしていた。しかしこの頃は胸騒ぎを抑えきれない。野生動物の凶暴化に、凶作。そして流行り病――次から次へと難事が国を襲った。城の者は、王女である私に対しては、国内の惨状を語りたがらなかったが、たとえ私が他の者の言う「深窓の姫君」であったとしても、我が国のことを何も知らないわけではない。年を追うごとに深刻さを増していく国内情勢に、父王陛下の眉間の皺はどんどん深くなっていった。憎しみを向けるべき明確な外敵がいるわけではない。だからこそ、民衆の不満が、煮えたぎる茹で窯のようにふつふつと泡を立てているのだ。その湯はいつか溢れ、王政へ降りかかるのではないか。
父王陛下の政治手腕は、娘の私から見ても、決しておしなべてのものではなかった。問題のひとつひとつに対しては、適切に対処できていた。しかし、こう立て続けに難局が重なっては、うまく政策効果が上がらない。他の誰が政を執っても、たいして成果は上がらないだろう。たとえ革命派が王権を地に伏し、代わりに政権を担ったとしても。
寝台に仰向けに寝転がったまま、私は衣服の乱れを正した。そう、事態は王政の手に余っていた。そんな窮状を忘れさせてくれるのは、シグルドと過ごすひとときだけだった――。
そして、そんな自分に嫌気が差すのだった。乱れた世を正すべき王室に連なる姫としては、私はあまりに矮小で、無知蒙昧な小娘だった。
その一方で、頭の芯の方で、何かが私を揺さぶっているのも感じる。
(使命を思い出せ)
私の中の誰かが、野太い声で私を導く。
(使命を思い出せ。今度こそ、国産みを果たすのだ)
私は頭を抱え、背を丸め、掛け布のうちに閉じこもった。
(そんなもの、知らない、知らない、知らないわ――とうに忘れたわ……)
* * *
アミュウは薄く目を開けた。部屋は暗く、炉の火もすっかり消えていたが、カーテンの隙間から差す月明かりで、部屋の様子が窺い知れた。月の角度からすると、まだ夜半は回っていないらしい。聖輝と繋いでいた手は既に離れていて、聖輝はアミュウのベッドに寄せた椅子に座り、身体を折ってアミュウのベッドに腕枕をして眠っていた。
頭痛はきれいさっぱりと消え去っていた。熱もだいぶ下がったらしい。
月光が聖輝の睫毛と眼窩、そして鼻筋に影を差している。それが見えなくなってしまうのが惜しくて、アミュウは鎧戸を閉めないままでいた。
アミュウは聖輝の寝顔を眺めながら、今しがた見た夢を反芻していた。アミュウ自身にその経験は無かったが、夢で味わった感覚を回数に入れてしまえるのではないかというほど、夢は真に迫っていた。騎士シグルドがアモローソ王女に覆いかぶさってきた重みも体温も、アミュウはつぶさに思い出せる。そして間近に見たシグルドの顔は、ジークフリートと寸分も違わないのだ。まるでジークフリートその人に抱かれたかのような、うすら寒い感覚がアミュウを襲う。
(アモローソ王女の記憶が、私を侵食してきているみたい)
そう思うと戦慄し、アミュウは掛け布の下で両腕を抱いた。初体験ですら半ば奪われたようなものだった。夢を見ている間、アミュウは王女に成り代わっているので、王女の溺れた陶酔感をそのままにアミュウも味わっていた。しかしひとたび夢から覚めれば、アミュウは王女の記憶という重みを一挙に背負い込む。今まで四度見た夢の中で、今回ほど夢と現実の乖離を感じたことはなかった。
聖輝の寝息は安らかだった。寝顔をたっぷり見分したのち、アミュウは彼を起こさないようそろりとベッドから出て、布団を延べた。そして渾身の力を振り絞って聖輝を椅子から布団に引きずりおろす。意識の無い身体は重かった。ようやっと寝かせてみると、布団に対して斜めになってしまったが、まっすぐに正すのは諦め、そのまま掛け布をかけた。
アミュウは水差しの水で喉を湿すと、膝をついてもう一度聖輝の寝顔を見た。普段の胡乱気な様子からは考えられないほど、邪気の無い寝顔だった。そっと頬に手を添えてみれば、伸びかけた毛の感触がぷつぷつと掌を刺す。聖輝の髭は薄かったが、夜ともなればそれなりに伸びてきていた。その点さえ除けば、寝顔は少年のようにも見えた。
(そういえば、私、聖輝さんが今までどんな風に生きてきたのか、あんまり知らない)
身体が弱かったとは、さっき話を聞いてはじめて知った。姉がいるということも。
反対の頬に手を当ててみると、思いがけず冷たかった。そちらは腕枕に埋もれていない方の頬なのだった。そういえば、長い時間掛け布も無しに椅子に座りっぱなしだったのだから、冷えていておかしくはない。アミュウは暖炉に薪を組み、火打石を鳴らした。しくじらずに火口を燃やすことができたが、音が夢の中まで届いたのか、聖輝がううんと唸った。しまったと思って布団を見てみると、聖輝が寝返りを打ったところだった。起こさないで済んだようだ。
暖炉に無事火を起こすと、アミュウはまたもや聖輝の寝顔に見入った。月明かりの元で見るのと、炉の灯りに照らされているのとでは、寝顔の印象はまるで変わった。橙色に照らされて、陰影も深く、今にも目を開きそうな活力に満ちて見える。
本心を隠し、アミュウを煙に巻き、ナタリアに執着する聖輝。冷淡に見えて、アミュウの危機には必ず駆け付けてくれる頼もしい人。おぞましい禁術を使うかと思えば、自身の血を注いでアミュウやナタリアを守ろうとする優しさを併せ持っている――。
「私、あなたのことが全然分からないわ」
アミュウはぽつりと呟くと、聖輝の傍らを離れて自分のベッドに潜りこんだ。そろそろ目蓋が落ちようかというころ、ベッドの下の方から返事が返ってきた。
「分からないままでいてください」
アミュウは返事をしないまま、眠りに落ちた。返事をしない方が良いような気がしたのだった。




