3-16.医者の不養生【挿絵】
息をするたびに、胸の内を木枯らしが吹き荒れるようだった。仰向けに寝ていると、胸が押しつぶされそうな圧迫感がある。横向きに寝てみれば、枕に押し当てた耳に、ヒューヒューと甲高い呼吸音が響いて、アミュウはわけもなく心細く、せつない気持ちになるのだった。
「水でも飲みますか」
食卓の椅子に斜めに腰かけて本を読んでいた聖輝が、アミュウに訊ねる。アミュウは返事をするのも億劫で、黙ってうなずくだけだった。
水を飲むにも、水差しからただ注いだだけの水では、冷たさが気管に障って、かえって息苦しくなるだけだった。聖輝は慣れた手つきで椀に水差しの水を入れると、暖炉にかけていたケトルの湯を足し、ぬるま湯を作ってアミュウに手渡した。アミュウは重い上体を起こし、少しずつ舌を湿らす。湯の半分も飲めずに、聖輝に椀を突き返すと、アミュウは再び伏せった。聖輝は肩をすくめて、残った湯を流しに捨てた。
アミュウが熱を出してから既に四日目となっていた。初日の症状、咳嗽と発熱は、一見したところ、ただの風邪と同程度だった。アミュウは、彼女を待つ患者の家々を回ろうと外出しかけたが、そのころには流行り病の一般的な経過を熟知するところとなっていた聖輝が、断固として反対した。聖輝の判断は正しかった。その日の夜には高熱となり、アミュウはベッドから起き出すのも困難になっていた。翌日には呼吸器症状が出始め、文字通り寝たきりとなった。
いつもなら就寝時にはベッドスペースを区切っている衝立も、今は看病の邪魔になるので、畳んで脇に置いてある。
「アミュウさん。言いにくいのですが」
椀をすすいでいた聖輝が、後ろを向いたまま言った。
「……?」
アミュウは先を促すこともできず、目線だけを聖輝の背中に向けた。
「そろそろ着替えが足りなくなるのではありませんか」
普段、聖輝は洗濯屋に洗濯を頼んでいたが、アミュウは自分の手で洗濯を済ませていた。アミュウが倒れてからは、汚れものがたまっていく一方だった。見かねた聖輝が、自分の分と合わせて洗濯屋に出したのが昨日。洗濯屋に頼んだ洗濯物が乾いた状態で戻ってくるまでには、中二日ほど空くのが常だった。このままでは、着替えが足りなくなる。
アミュウは朦朧とした頭でぼんやりと考えた。さすがに、聖輝に女性ものの下着を買いに行けとは頼めない。
「……実家に、まだ残してあるかも」
アミュウは咳でかすれた声で言った。聖輝は頷き立ち上がると、二重マントを羽織ってあっという間に出かける支度を整えた。
「食欲は?」
「……あるように見えますか」
「フェリーチェさんに何か喉を通りやすいものを頼んでみましょうか」
アミュウは枕の上で首を横に振った。
「分かりました。外で昼食を済ませてくるので、戻るまでには少し時間がかかります」
そう言って聖輝は部屋を出て行った。外から鍵を閉める音が響く。
アミュウは息苦しさのためにため息をつくこともできず、横向きになって目を閉じた。胸が重苦しいのは、肺炎のためだけではなかった。
(聖輝さんを、ナタリアのところへ行かせてしまった)
聖輝がナタリアに接触するのを、なるべく避けていたつもりだったが、アミュウ自身の都合で、こうもたやすくそれを破るとは。普段のアミュウであれば、ありえないことだ。そして、そんな愚を犯した自分のことが嫌になっている筈だった。
それが、いつもの感覚が麻痺しているのか何なのか、不思議とアミュウは自己嫌悪を感じずにいた。その代わり、平時には自分自身にさえひた隠しにしていた本心が、厚い皮を破って正体をさらしていた。
アミュウは、聖輝が結界のうちにナタリアを拐かした夜のことをぼんやりと思い出した。これまで、再び聖輝がナタリアに近付けば、同じことが起こるのではないかと考えていた。ジークフリートに話したとおり、その予感めいた憶測は、確かに今も胸の内にくすぶっている。
しかし、今やアミュウは、聖輝とナタリアに接触するのをなりふり構わず阻んでいた本当の理由が、単なる嫉妬に過ぎないことを理解していた。アミュウが必死になって保っていた理性は、アミュウの内側にいるアミュウが、愚蒙にも感情のまま突っ走っていた振る舞いに、もっともらしい理由をつけていただけのはりぼてだった。高熱と息苦しさにより理性の皮が剥がれ落ちてみれば、いかにも幼稚で卑小な醜い自分が、膝を抱えて駄々をこねていたのだった。そんな自分に喝を入れる気力は、今のアミュウには残っていなかった。
普段の自分であれば、私らしくないと一蹴しただろう。こんなの私じゃない、と。そうする余力の無いアミュウは、情けない自分の鏡像を前にして、ただただ息苦しさに喘ぐのみだった。
眠っているのか起きているのか、泣いているのか耐えているのか、判然としない曖昧模糊とした時間が過ぎていった。喉が渇いたが、水を飲みにベッドから出るのも大儀だった。アミュウは、長さという概念の消失した時間を、ただベッドに横たわって過ごしていた。数えきれないほどの咳の回数だけが、その時間を区切っていた。
聖輝が鍵をガチャガチャといわせて扉を開けたとき、アミュウは確かに覚醒していた。鍵の音より先に、階段を上がってくる靴音までしっかりと聞いていたのだった。
「ただいま、お待たせしました」
聖輝は靴を脱いで部屋に上がりこむと、両腕に抱えていた紙袋を食卓に置いた。
「ナタリアさんに相当警戒されましたよ。下着泥棒じゃないかって。見てください、この紙袋を」
アミュウは聖輝の差し出した紙袋を見た。カーター家の、斧を模した家紋の刻まれた封蝋が施してあった。アミュウは重たい腕を上掛けから出して、その包みを受け取った。封蝋を割って紙袋を開けてみると、ナタリアの寝間着と下着が何組か入っていた。アミュウのものはカーター邸に残っていなかったのか、あるいは虫にでも食われたのかもしれない。
「確かに、未開封のまま渡しましたよ。ナタリアさんは明日見舞いに来るそうなので、そう伝えてください」
ナタリアが着替えの包みにわざわざ印章を押しているところを想像すると、なんとなく可笑しかった。息苦しさに喘ぐアミュウの口元が少し緩んだ。
「……久しぶりに笑いましたね」
聖輝も頬を緩めると、もう一つの紙袋から林檎を取り出し、ナイフでくるくると皮をむき始めた。手のうちで刻んでは鍋に放り込んでいく。
「何か作るんですか」
アミュウはかすれ声で訊ねた。
「身体を温める飲み物ですよ。前に作ったのとは違いますよ。この前はオレンジを入れたが、今度は林檎です。刺激が少ないので飲みやすいはず」
そう説明する合間にも聖輝は、アミュウが森の小屋から持ち込んだスパイスを取り出し、鍋に加えた――肉桂に丁子。最後に赤ワインをひたひたになるまで注ぐと、聖輝は暖炉に据えた三脚の上に鍋を置いた。
「……ホットワインですか」
「そうです」
「酒は飲むなと」
聖輝は口の端をニッと持ち上げた。
「ここは家です。正体なく眠りこけたとしても、あなたは既にベッドに入っているじゃないですか」
正体をなくしたという部分に反論しようとして、アミュウは咳こんだ。ベッドに横たわったまま背中を丸め、咳の嵐をやり過ごす。落ち着いたところで、聖輝はその乾いた大きな手のひらをアミュウの首筋に当てた。
「まったく、医者の不養生という言葉を体現していますね。まだだいぶ熱が高い」
「私は医者じゃないわ……頭が痛い」
「眠るしかありません。さあ、頃合いですよ」
聖輝は杓子で、ごろごろとした林檎ごとワインを椀によそい、匙を添える。アミュウは起き上がり、冷たい石壁にもたれて椀を受け取った。湯気とともにスパイスの香りが広がる。アミュウはその中につんと鼻を刺す酒気も感じた。
「前に飲んだのより、濃いような……」
「シンプトン農場では、随分火にかけましたからね。今は、少しは酒の力も借りて眠るといい。ほら、飲んで」
聖輝に促されて、アミュウは赤黒いその液体に口をつけた。舌がかあっと熱くなるような酒気が過ぎ去った後には、爽やかな林檎の香りと、スパイスの複雑な芳香が口腔から鼻腔へ突き抜けていった。舌にはワインの渋みが残ったが、嫌な感じはせず、むしろ味わいに奥行きを感じさせるたぐいの渋みだった。アミュウは匙で林檎をすくって口に運ぶ。火の通りの浅い、しゃきしゃきとした歯ざわりで、くたくたに煮込んだものとは一味違う清涼感があった。
アミュウは無心に椀の中身を腹に収めていく。聖輝は満足気に微笑み、自分の椀にもワインをよそった。




