3-15.流行り病【挿絵】
明け方、ジョシュアの呼吸状態が悪化した。アミュウが手当てを終え、ジョシュアが寝付いたときには、既に東の空が白んでいた。アミュウはまんじりともせず、台所で顔を洗った。壁を叩く音が聞こえたので振り返って見ると、台所の開け放したドアのところに、オリバーが立っていた。
「ジョシュアは、どんな状態なんでしょうかね」
アミュウは藍染めのハンカチで顔を拭いて答えた。
「どうにか夜を乗り切りました。まだ大丈夫とは言えませんが、一番苦しいところは過ぎたと思います」
オリバーはコップに水差しの水を注いで飲み、むせかえった。彼自身もまだつらそうな様子だった。アミュウはオリバーの首筋に手を伸ばす。昨日ほどではないが、熱が下がりきっていない。呼吸も荒い。
「まだ休んでいてください」
アミュウはオリバーを寝室まで連れて行こうとして、彼の目が赤くなっていることに気が付いた。アミュウが何も言えないでいると、オリバーは鼻をすすって言った。
「すみません。妻も肺炎だったので。ちょっと思い出しちまった……」
アミュウは黙って首を振り、オリバーを寝室に見送った。そして空になった水差しに水を注ぎ足して、オリバーの寝室を後にした。
食堂に戻ると、アミュウは食卓に突っ伏した。窓は小さかったが、ある時点までは薄紙を剥がすように段階的に夜が明けていくと、あとは一気に明るくなった。
食堂ではなく、店の扉の方から微かに聞こえてくるノックの音に気付いたのは、それからアミュウがずっと眠れずにいたからだった。店舗へ走り、ドアを開けると、聖輝が立っていた。
「どうですか。ジョシュア君は」
「なんとか一晩乗り越えましたが、まだ何とも言えません」
アミュウは外の冷気とともに聖輝を店内に招き入れ、食堂へ案内した。他人の家の燃料を勝手に使うのは気が引けたが、マントを脱ごうとしない聖輝を見て、アミュウは冷たくなっていた暖炉に火を起こした。
食卓の長椅子に座ったアミュウは、しゃがみ込んで火に当たる聖輝の背中を見ているうちに、急に強烈な眠気に襲われた。アミュウは再び食卓に突っ伏し、目を閉じると、吸い込まれるように眠りに落ちていった。
次にアミュウが目を開いたとき、小さな窓から差し込む陽の光はだいぶ高くなっていた。上体を起こすと、肩から何かがずるりと落ちた。聖輝の二重マントだった。アミュウはマントをたたんで長椅子に置くと、そろりと食堂から抜け出した。
階上に上がると、ジョシュアの寝ている老夫婦の部屋から話し声が聞こえてきた。
ノックをして扉を開ける。ジョシュアや老夫婦はもちろん、オリバーも聖輝も、全員がこの狭い部屋に集まっていた。
「アミュウさん。気が付きましたか」
ジョシュアの枕元に膝を折っていた聖輝がアミュウに目を向ける。オリバーもちらりとアミュウの方を見て、またすぐ息子へと視線を落とした。
「ジョシュア君の具合は」
アミュウは、全員が集合している様子になんとなく不安を覚えて、聖輝に訊ねた。
「ええ」
聖輝は立ち上がり、アミュウだけでなくその場にいる全員に向かって説明した。
「熱は昨日より下がっていますが、肺の具合は横ばいです。今日も苦しい状態が続くと思います。特に夜が危険です。症状が出てから今日で何日目ですか?」
「六日目です」
オリバーが即答する。聖輝は頷いた。
「一週間もちこたえれば、症状は落ち着いていくでしょう。昨日という峠を越えました。ジョシュア君の頑張りを信じて、今日という峠も越えられるよう、全力で支えていきましょう」
聖輝の言葉に、ジョシュアの祖父はひざまずいて十字を切り、祈る姿勢を見せた。オリバーは、聖輝とアミュウを交互に見てこぶしを握りしめ、頭を下げた。
「お願いします、牧師の先生。それにカーターさん……!」
聖輝は肩をすくめると、アミュウに向き直って言った。
「昨日、あのあとに教会の施療室に行ってみたのですが、似たような症状に苦しむ患者がごった返して、機能不全に陥っていました。伝染性の病でしょう」
「流行り病……」
アミュウは戦慄を覚えた。アミュウはカーター・タウンで流行り病を経験したことがない。この町の医師はマッケンジー牧師ただ一人。あとは、メイ・キテラやアミュウに薬草学の心得があるのみである。圧倒的に医療資源が不足している。
「長丁場を覚悟した方がいいかもしれません。アミュウさん。あなたはまず家に戻って、夜に備えて休息をとってください。幸い、今はジョシュア君も小康状態を保っています。私はこれから、教会の施療室へ応援に行くつもりです」
聖輝がここを離れると聞いて、老夫婦の顔が不安に歪む。聖輝がオリバーに耳打ちするのに、アミュウは耳をそばだてた。
「万が一、ジョシュア君の容態が急変したら、『カトレヤ』のエミリさん、もしくは『アラ・ターヴォラ・フェリーチェ』の先代やクリスティアナさんに事情を話してください。すぐにアミュウさんが駆け付けるでしょう――これは、内密に」
オリバーは緊張した面持ちで頷いてみせた。聖輝はジョシュアの眠るベッドから離れ、寝室の入り口に立ち尽くしたままのアミュウに近寄った。
「私たちがここにいたままでは、皆さんの休息のお邪魔になってしまいます。いったんおいとましますが、何かあったら遠慮なく呼んでください――神のご加護を」
そう言って聖輝はアミュウとともに、老夫婦の寝室を辞した。
ハーンズベーカリーを出て、聖輝とともにキャンデレ・スクエアに戻る途中、アミュウは大きな鳥のような影がはるか頭上をよぎるのに気付いた。空を見上げて、声を張り上げてその名を呼ぶ。
「メイ先生!」
街並みの上空を滑空する師の姿があった。
メイ・キテラはアミュウに気が付いたようで、またがったトネリコの杖から魔力の火花を散らしながら、とんぼ返りしてアミュウたちのそばに着地する。
「誰かと思ったらお前。なんだい。あたしゃ忙しいんだよ」
「先生、流行り病が蔓延していると聞きましたが」
アミュウが問いただすと、メイ・キテラは首をすくめた。
「そうだよ。肺を侵す病さ。お前もせいぜい気をつけるこったね」
「そうじゃなくて。先生、患者が溢れているんじゃありませんか。私にできることはありませんか」
聖輝が胡乱げな表情でアミュウを見る。聖輝に引き止められる前に、アミュウは聖輝に言い切った。
「こういう時に、私ひとりだけ、安全な場所に隠れているわけにはいきません」
「なんだい。アミュウ。無理して現場に戻ってこなくても、このあたしに任せておけばいいんだよ」
アミュウと聖輝、それにメイ・キテラは三すくみの様相を呈して、しばしにらみ合った。最初に折れたのは、メイ・キテラだった。
「まあ、実を言うとね、かなり酷いありさまだよ。体力のない子どもと老人が特に難しい。今週に入ってから、あたしはもう二人看取ったよ」
聖輝もため息をついた。
「施療室も似たような状況です。同じく亡くなった方もおられるようだが、マッケンジー牧師の手が空かないので、葬送にも出せない」
「ああ、遺された家族がそんなことを言って嘆いていたよ。あの牧師も首が回らないんだろうね」
アミュウは聖輝と師の顔を見比べていった。
「聖輝さん。今は私のことに構わないで、教会へ行って。私はメイ先生を手伝います」
聖輝は長い沈黙の後に頷いた。
「分かりました。私はこのまま教会へ向かいます。ただし、アミュウさん。今晩は家で待機していてください。ジョシュア君が危なくなったとき、あなたに連絡がつかないといけませんから」
そこで聖輝は重そうな革の鞄をガチャガチャ言わせながら、町の西部に向かって走って行った。アミュウは、明朝に師の家を訪ねる約束をして、キャンデレ・スクエアの部屋へ戻った。
その晩、聖輝は帰ってこなかった。
果たして、聖輝の言ったとおり、ジョシュアはその翌日には危ない状態を脱した。アミュウは後から聞き知ったことだが、この頃には学校も臨時閉鎖の状態となっていたらしい。ともあれ、ジョシュアが外を出歩けるようになるまではさらに一週間ほどの時間が必要だった。
いっぽうアミュウたちは、ジョシュアの容態が峠を越してから二週間ほどのあいだは、目の回るような忙しさだった。聖輝もアミュウも、キャンデレ・スクエアの部屋でまともに眠れたためしがなかった。
アミュウは町中を駆けずりまわって看病に努めたし、聖輝は次々と施療室に送り込まれてくる患者の対応に追われた。メイ・キテラも老体をおして、みずからトネリコの杖にまたがって、文字通り町のあちこちを飛び回った。メイ・キテラやアミュウが蓄えていた薬草はあっという間に底を尽き、馴染みの行商人から仕入れる羽目になった――薬草は、購入すると高くつく。
十一月の最終週に予定されていた収穫祭も、早いうちに延期が決定された。アミュウたちがそれを知ったのは、街のあちこちに貼りだされたポスターに、手書きで延期の日程が書き足されていたからだった。アミュウは患者の家をはしごしながら、これもジークフリートの仕事なのだろうかと想像を巡らせた。
マッケンジー牧師がラ・ブリーズ・ドランジェへ要請した応援要員がカーター・タウンに到着する頃には、肺炎の流行は少しずつ収束し始めていた。
そして、亡くなった患者の合同葬に、教会がようやく着手できるようになったとき、アミュウも同じ病に倒れた。十二月に入り、ときどき粉雪がちらつく時分だった。




