3-14.異変の足音【挿絵】
山の斜面を転がり落ちるように秋は急速に深まり、ぐんと気温が下がっていった。聖輝は階下の井戸や薪棚へちょっと行くにも二重マントをひっかけるようになったし、アミュウもキンバリー手製のショールが手放せなくなった。
異変は、ある日ナタリアがカーター邸から届けた一通の手紙から始まった。しかしアミュウはまだそれを異変であるとは認識していなかった。
◎ ◎ ◎
アミュウ・カーター様
お元気ですか。おれは元気です。父さんも、だんだんと元気になってきました。いよいよ学校生活も、あとひと月でおしまいです。
ジョシュアのやつが、もう三日も学校を休んでいます。それできのう、ハーンズベーカリーにおみまいにいきました。
お店はしまっていました。
ジョシュアもジョシュアの父さんも、おじいさんもおばあさんも、みんな高いねつがでて、ぐったりとねこんでいました。
カーターさんはおしごとを休んでいると父さんからきいたけど、ジョシュアたちの病気をみてもらえませんか。おねがいします。
サザンフロンティア一丁目二十五番地
イアン・タルコット
◎ ◎ ◎
手紙とは名ばかりの、ノートを一枚破って書きつけただけの、封筒にすら入っていない紙切れだった。
アミュウは読み終えた手紙をナタリアに寄越し、訊ねた。
「この手紙が届いたのはいつ?」
ナタリアは素早く文面を目で追ってから答えた。
「昨日の夕方に郵便受けを見たら、入ってた。あんた専用の郵便受けはもう閉じてあるから、家族用の郵便受けの方にね。昨日の昼間はみんな留守にしていたから、きっとイアン君も困って、手紙を残していったんじゃないかな」
「どうしたんですか」
食卓の椅子を窓の方に寄せて聖典のページを繰っていた聖輝が顔を上げた。ナタリアはアミュウにことわってから、イアンの手紙を聖輝に渡した。
「今からハーンズベーカリーへ行ってきます」
アミュウは、戸棚から調合済みのハーブティーと香油の瓶をいくつか取り出して帆布の鞄に放り込むと、オーバーを着込んだ。
「私も行きましょう。ナタリアさん、施療は私たちにまかせて、あなたはカーター邸へお戻りなさい」
聖輝も椅子から立ち上がり、二重マントを引っ掛けた。
「聖輝さんまで来なくたって大丈夫よ。私ひとりなら、ベイカーストリートまでひとっ飛びで行けるわ」
「いけません。約束したでしょう」
聖輝はアミュウの制止に構わず、何本も常備してあるワイン瓶のひとつを、革の鞄に詰めた。二人のやりとりを見ていたナタリアが首をすくめる。
「まるで保護者ね」
アミュウが眉をひそめる。
「なんですって」
「聖輝さんってばアミュウの心配ばかりして、なんだか父親みたい」
聖輝が苦笑する。
「おいおい、父親とは心外な。私はまだ二十六ですよ」
「子どもがいてもおかしくない歳じゃない」
アミュウは急いでいることにかこつけてナタリアと聖輝のやり取りを無視したが、ナタリアの言葉が妙に頭に引っかかっていた。
(聖輝さんが保護者? 父親? バカみたい。聖輝さんが本当に心配しているのは、ナターシャなのよ)
パーティーの夜に、「好い人はいるのか」と訊ねてきたセドリックの気まずそうな視線が脳裏に浮かぶのを、アミュウはかぶりを振って打ち消した。
三人で部屋を出ると、ナタリアはそのままセントラル・プラザ方面へ引き返し、アミュウと聖輝は連れ立ってベイカーストリートへ急いだ。
木枯らしが通りを吹き抜ける。聖輝は革の鞄から、キンバリーのマフラーを取り出して首に巻き付けた。一輪の手押し車を押す男性が、アミュウたちとすれ違いざまに大きなくしゃみをひとつぶちかまして、その破裂するような音が、路地の家並みの漆喰の壁に反響しながら吸い込まれていった。
まだ午後の早いうちだった。いつもなら、家の内外の仕事にいそしむ人々や買い物客で、ベイカーストリートは人通りの絶えない時間帯なのだが、今日はなんとなく活気が無い。アミュウは違和感を覚えた。
通りに入ってから五つめの四つ角を右に入る。聖輝と出会った四つ角だ。路地に入って三軒目がハーンズベーカリーである。すっかり常連となったこの店は、今は扉に閉店のプレートを掲げていた。
アミュウはためらいがちにその扉をノックして見た。返事は無い。すると今度は聖輝が、ドアが揺れるほど強く扉を叩いた。扉の内側でドアベルが鳴るのが微かに聞こえる。たっぷり一分ほど経ってから、扉が細く開き、青白い老婆の顔が覗いた。オリバーの母親だ。
「……悪いけどねぇ、今日も閉めてるんですよ。ごめんなさいねぇ」
「魔術師のアミュウ・カーターです。ジョシュア君のお友達から、皆さんお加減が良くないと聞いて、伺いました」
アミュウは、老婆が扉を閉めてしまう前に、急いで名乗った――アミュウの側は、オリバーの母親のことをよく覚えているのだが、老婆の側はアミュウの顔を覚えていないらしい。
「ジョシュアの友達が?」
扉が大きく開いた。老婆が開けたのではない。いつの間にか老婆の後ろにオリバー・ハーンが立っていて、彼が扉を開けたのだった。老婆の顔の青白さと比べて、オリバーの顔は真っ赤だった。オリバーは顔を背けて大きく咳き込んでから、アミュウたちに訊ねた。
「カーターさん、それに牧師の先生。どうしてここに」
「イアン君から聞いたんです。診させていただけますか」
「もちろん。こちらからお願いしたいところってもんです。特に息子が悪くて……ジョシュアから診てやってください」
「分かりました」
オリバーの案内でアミュウと聖輝は屋根裏にあがる。階段をのぼっている最中、オリバーの息遣いは時折苦しげに乱れた。狭い階段を上りきった屋根裏の、明りとりの小窓からの陽光に照らされて、粗末なベッドに眠るジョシュアの薄い胸が、上掛けの下で荒く動いているのが見えた。アミュウは脱いだオーバーを猫の額ほどの床にうち投げてジョシュアに駆け寄る。聖輝は背中を屈めて少年に近付いた――聖輝の上背では、頭を梁にぶつけてしまいそうなのだった。
「ジョシュア君、しっかりして。アミュウ・カーターよ……分かる?」
ジョシュアは薄く目を開き、とろんとした瞳をアミュウの方へ向けた。苦し気な呼吸の合間に弱々しい声をあげる。
「……カーター、さん……?」
「もう大丈夫よ」
アミュウは、汗ばんだジョシュアの髪を撫でつけながらおでこに手を触れる。かなり熱い。ジョシュアの寝間着のボタンをいくつか外し、むき出しの胸を観察した。呼吸のたびに肋骨のあいだがペコペコと凹んでいる。その胸に耳を寄せると、耳を押し当てる前から、気道が狭まったとき特有の空気音が聞こえた。
「オリバーさん。クッションか何か、ありますか。それからお湯を沸かしてください」
アミュウはジョシュアを助け起こし、窓際の壁にもたせかけてやりながら言った。
「えっ、あ。はい! わかりました」
熱も高いが、呼吸が苦しそうなのが心配だった。聖輝もジョシュアの枕元に身を寄せて首筋に手を触れ、アミュウがやったのと同じように胸元に耳を当てて呼吸音を確かめた。
「難しいな。肺の方まで侵されているようだ」
アミュウは神妙に頷く。
階下から戻ってきたオリバーからクッションを受け取ると、アミュウはジョシュアの枕の下にクッションを入れて、高さを出してやった。
「息がうまくできないうちは、横になっているとかえって苦しいので、こうやって何かに寄り掛からせて、座らせてあげてください」
「お湯が沸いたよ」
階下から、オリバーの母親がしゃがれた声を無理に張り上げて、湯ができたことを知らせる。アミュウは彼女への遠慮をしばし忘れて大声で答えた。
「お湯をたらいに入れて持ってきてください! タオルと、それから持ち手のついたカップもお願いします」
足元の覚束ない母親に代わって、オリバーが屋根裏まで湯を運んできた。アミュウは湯気の立つたらいに、ラベンダーと檸檬、それにメリッサの香油を垂らして、カップに注ぎ、ジョシュアの口元近くにあてがった。飲ませるためではなく、蒸気を吸わせるためである。たちまち爽やかな香りが屋根裏に広がり、空気がいくらか洗われたかのようだった。
カップの支えを聖輝に任せると、次にアミュウはたらいにタオルを沈め、やけどしないよう注意しながらよく絞った。やけどの心配のない温度まで冷ますと、ジョシュアのむき出しの薄い胸に熱いタオルをのせた。
心配そうに息子をのぞき込むオリバーに、アミュウは説明した。
「熱そのものよりも、呼吸の状態のほうが良くありません。もしもスペースがあれば、屋根裏ではなく、ご家族の目の届く範囲へ移動させてあげた方がいいでしょう」
「それは……どういう意味ですか」
動揺するオリバーに、はっきりと病状を告げたのは聖輝だった。
「今晩が峠だということですよ」
オリバーの喉仏が動いて、生唾をのみこんだのが分かった。アミュウは放心したオリバーを床に座らせて、今度は彼の状態を確認した。熱が高く、多少の息苦しさがありそうだが、オリバーの体力であれば心配はいらないだろう。
アミュウは聖輝にジョシュアを任せ、階下で休んでいるオリバーの両親の容態も診た。彼らは一番先に発症した分、既に快方に向かっている様子だった。
アミュウはハーン家の台所を借り、さらに湯を沸かしてハーブティーを淹れると、一家全員に飲ませた。食糧庫に残されていた野菜で、簡単なスープとパン粥も用意した。水瓶の水が底を尽きかけていたので、近場の井戸で水を汲んでくることも忘れなかった。
ジョシュアの寝床は、二階の祖父母の部屋へと移された。蒸気浴と温湿布によって、幾分呼吸状態は改善したが、依然として予断を許さない。アミュウは、今晩はハーン家で過ごすことにした。
聖輝はこう言い残して去って行った。
「仕方ありませんね。明朝、迎えに行きますよ。そのときになってもまだジョシュア君の具合が芳しくなければ、私が交替しましょう」
主のいなくなった屋根裏部屋のベッドが空いていたが、病の感染から逃れるため、アミュウは一階の食堂で夜を明かすことにした。伏せったオリバーの部屋に夕食を運ぶと、アミュウは問題なく食事のとれるオリバーの両親とともに、言葉少なにスープとパン粥を口にした。オリバーの父親が、一つ二つ、ジョシュアの容態について質問した。アミュウはなるべく老夫婦の不安を煽らないよう、努めて穏やかに、しかし嘘とはならないように返答した。
食堂から老夫婦が退出すると、アミュウは後片付けをしてから、借りた毛布を体に巻き付け、畳んだショールを枕にして、硬い木の長椅子にその身を横たえた。
(久しぶりの、ひとりの夜だわ)
食堂の暖炉には熾火がくすぶっていた。一階は底冷えがする。ピッツィーニ夫妻から借りた三階の部屋は、階下からの柔らかな熱で、厳しい冷えは感じずに済んだ。地階ならではの底冷えを味わうのは、森の小屋での冬以来だ。
老夫妻とオリバーには、ジョシュアの容態がおかしかったら、すぐにアミュウを呼ぶよう話しておいた。案の定、夜のごく早いうちに呼び出しがかかり、アミュウは肝を冷やしながらジョシュアに手当てを施した。ジョシュアは目を閉じたままうわごとを呟いた。
「母ちゃん……」
アミュウはジョシュアの細い背中をさすり続けた。やっと眠ったかと思えば、すぐにまた咳き込んで、苦しげに首を振る。深く寝入ったタイミングを見計らって、アミュウは仮眠をとりに階下の食堂へ戻った。
アミュウはその夜、浅い眠りと覚醒を何度も繰り返した。長い長い夜だった。




