3-13.宴のあと【挿絵】
歌い終えたナタリアを、温かい拍手が包む。ナタリアは微笑みを湛えて室内を見回すと、恩師と握手を交わし、師を椅子に座らせた。すると拍手が鳴りやみ、師がソロでギターを奏ではじめる。
ナタリアは人の輪の中にアミュウとジークフリートを見つけ、近寄ってきた。ジークフリートが小声でナタリアに話しかける。
「けっこう上手いんだな」
「でしょ」
「エミリさんとこの酒場で歌えるぜ」
「歌ったこと、あるわ」
「まじか」
歌のあいだはアミュウがピッチを預かっていたのだが、ナタリアが戻ってくるとピッチはピョロロと一鳴きして、まるでそこが指定席だと言わんばかりにナタリアの腕に収まった。ナタリアと一心同体のようにふるまうピッチがいじらしくてアミュウは笑みを漏らす。
ふと辺りを見回すと、セドリックがこちらを見ているのに気付いた。しかしアミュウとは目線が合わない。セドリックの目は、ジークフリートと談笑するナタリアを捉えているのだった。その表情は、いつになく険しい。どうしたのだろうと考えていると、アミュウはある考えに思いいたった。
セドリックは、今宵のパーティーを欠席している聖輝と、いかにも仲睦まじい様子で語り合うナタリアとジークフリートの間に、何か相関性を見出しているのではないだろうか。
音楽教師のギター演奏が終わった。
客人たちの拍手が鳴り響く。それでセドリックの視線が外れた。いつの間にかダミアンが居間に戻っていて、父ケインズの隣で手をたたいていた。
パーティーは、夜闇が色濃さを増すまで続いた。セドリックが手を打って宴の終わりをつげた後、ナタリアはドレス姿のまま、凍えながら屋敷の門で客人たちを見送った。アミュウは、ヴィタリーやイルダとともに後始末に奔走した。カーター邸に一時滞在していたジークフリートも、屋敷の勝手をいくらか知っていたので、片付けの役に立った。料理を下げた後、ヴィタリーとジークフリートで居間にソファを運び入れた。あらかた片付いたところで、アミュウとジークフリートはカーター邸を退出した。
「結局、会頭とろくな話ができなかったぜ」
ジークフリートは道の小石を蹴ってぼやいた。アミュウはキンバリーからもらったウールのショールごと自分の身体をかき抱くようにして、先を進むジークフリートの背中に訊ねた。
「もう商工会の仕事は始まってるの?」
「ああ。雑用ばっかだ。初日は町中にポスターを貼って回った。二日目は露店の小道具をかき集めた。三日目に書類を刷って、四日目に会員に配って回った。会頭と話すチャンスなんてこれっぽっちもねえ」
「まぁ、期間限定のアルバイトじゃ、そんなものかもしれないわね。私も今日、ケインズおじさんとは話せなかったわ」
「なんでだよ、親戚だろ」
「そうだけど、私は養女だもの」
ジークフリートが立ち止まって振り返ったので、アミュウはもう少しで鼻先を彼の胸にぶつけるところだった。
「――そうだったのか」
ジークフリートはまっすぐにアミュウを見つめていたが、やがて困ったように視線を逸らした。
「全然分からなかった。すまねえ、言いにくいことを言わせちまったな」
「別に、隠していることではないもの。私はお父さんとも、ナターシャとも似てないでしょう」
「確かに、タイプが違うとは思ってたけどよ……聖輝は、知ってんのか」
「多分ね。もともとは聖輝さんとナターシャの縁談から始まった腐れ縁だもの。私が養子であることは、お父さんが話しているはずよ」
「縁談? なんだそれ?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、ジークフリートがアミュウを見る。
「そっか、そういえばジークは知らなかったのね」
アミュウは歩きながら、聖輝がナタリアを拐かそうとしたこと、ナタリアが聖輝のプロポーズを断ったこと、縁切りのまじないで二人の記憶が失われたことを、順を追って話した。すっかり話し終えたころにはとうにキャンデレ・スクエアに到着していて、「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」のオリーブの鉢植えのところで立ち話する格好になっていた。
ジークフリートは腕を組んで暫く考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「アミュウ、お前さ。どうしてそんな奴と一緒にいられるんだ」
アミュウが黙っていると、ジークフリートは言いにくそうに、しかしはっきりとした口調で言葉を続ける。
「なんだよそれ。結局聖輝は、ナタリアが相手じゃ話にならなかったから、妹のお前をものにしようとしているだけなんじゃないのか」
「そういう人じゃないのは、ジークも分かるでしょう」
「別に手籠めにするとか、そういう意味じゃねえ。失くした記憶の手がかりになりそうだから、お前に付きまとう? なんていうか……お前のことをいいように利用しているように見えるぜ」
ジークフリートのまっすぐな視線を受けるには耐えられず、アミュウは目をそらした。
「……なんだか嫌な感じがするの。今また聖輝さんとナターシャが接近したら、次は、記憶を失うどころの話じゃなくなるんじゃないかって。それくらい、あのお見合いの日の二人の剣幕はすさまじかった。だから私は、聖輝さんが必要以上にナターシャに近付かないよう、気をつけて見ているつもりよ」
「ナタリアのために、か?」
アミュウは答えなかった。ジークフリートはため息をついて、赤いマントで自身をくるんだ。
「お前さ。もうちょっと自分のことも大事にした方がいいぜ」
ジークフリートはアミュウの肩にポンと手を置いて、「ザ・バーズ・ネストB&B」の方へ去っていった。
アミュウはショールの前をぐっと合わせて、オリーブの鉢植えの脇から伸びる狭い階段をのぼり、二階の「酒処カトレヤ」を通り過ぎて、三階の部屋の前で立ち止まる。ノックをしてから鍵を開け、キィィと木の扉を開くと、小さな暖炉と、ごく絞ったランプの弱々しい灯りが漏れ出す。
食卓で書き物をしていた聖輝が顔を上げて、僅かに口の端を持ち上げる。
「おかえりなさい、アミュウさん。遅かったですね」
聖輝は既に部屋着の着流し姿だった。扉を後ろ手に閉めるアミュウの耳に、ジークフリートの声がよみがえった。
(どうしてそんな奴と一緒にいられるんだ)
アミュウは華奢なピンヒールの靴も脱がないまま、手元の紙に目線を落とした聖輝を見ていた。聖輝は、便箋らしいその手紙にいくつか文字を書きつけてから、再度アミュウを見た。
「どうしたんですか、そんなところに立ち尽くして。外は寒かったんじゃないですか。早く上がって、火にあたるといい」
そう言って聖輝は立ち上がり、暖炉のフックにかけたケトルの様子を確かめて言った。
「ほら、お湯も作ってありますよ」
アミュウは言われるままに靴を脱ぎ、オーバーを脱いで暖炉の前にしゃがみ込んだ。カクテルドレスからむき出しになった二の腕が寒いので、キンバリーのショールを羽織った。
「何か飲みますか」
聖輝は戸棚をあさったが、自分が茶を淹れるのは早々に諦めた様子だった。アミュウは森の小屋から、戸棚に収まる限り、ありとあらゆる種類のハーブティーを持ち込んでいた。大量に並ぶハーブの小瓶を前にして、どれを手にしたらいいか分からないらしい。アミュウは立ち上がり、聖輝に近寄る。
「聖輝さんも飲みます?」
「いただきます」
ケトルの湯でティーポットを温めるとき、アミュウの肩からショールが滑り落ちた。床に落ちたそのショールを聖輝が拾い上げ、アミュウの肩にかけた。アミュウにはそのとき、聖輝の手がアミュウの肩に触れていた時間が、一瞬よりは心持ち長い時間のように思われた。余韻を残して、聖輝の手はアミュウから離れた。
アミュウは努めて聖輝の顔を見ないよう心掛け、茶の支度を整えた。茶を蒸らしている間に、聖輝は二重マントを引っ掛けて部屋の外へ出ていった。アミュウはカクテルドレスを脱いでさっと身体を拭き清め、寝間着へ着替えた。部屋のドアを開けて聖輝を招き入れる。聖輝は二の腕をさすりながら部屋に入り、暖炉の前に陣取った。アミュウは蒸らし終わった茶を注ぎ、聖輝に差し出す。聖輝は小声で礼を言い、しばらく無言で茶を啜っていた。アミュウも暖炉のそばに座り同じ茶を啜る。パーティーの喧騒が残した疲労が、耳の奥から溶けて流れ出るようだった。椀の茶がそろそろ空くかという頃、聖輝はぽつりとつぶやいた。
「前も思っていましたが、さっきのドレスは、あなたによく似合っていますね」
アミュウは頷くことも、否定することもできなかった。聖輝の顔すら見ることができず、じっと暖炉の橙色の炎を見つめていた。
(どうしてそんな奴と一緒にいられるんだ)
アミュウは膝を抱いた。
(聖輝さんをナタリアから遠ざけるため……本当にそうなの?)
そう自問するが、擦過傷に思いがけず触れてしまったときのように、アミュウの胸の奥が痛んだ。それでアミュウは深く考えるのをやめた。
椀をかるく水で流し、折りたたんであった衝立を開いてベッドの前に立てかけると、アミュウは早々に床に入った。
聖輝はくぐもった声で「おやすみなさい」と言い、再び食卓の椅子に座り、書き物を再開する。アミュウも就寝の挨拶を口にしようとして、ふとセドリックの言葉を思い出した。
「父が、聖輝さんとナターシャがお見合いをしたこと、ケインズおじさんに話したと言っていました」
「ケインズ・カーターに? まぁ、親戚同士ならそういう話もするでしょうね」
「ナターシャはお父さんに、聖輝さんのプロポーズを断ったこと、まだ話していないみたい」
「わざわざ私をパーティーに招待するくらいですからね、そういうことだと思っていましたよ」
「……きちんと話したほうが良いと思うの」
衝立の向こうから、聖輝がペンを置く音が聞こえた。
「ナタリアさんが、破談の件をカーター氏に伝えていないというのは、私にとって都合がいい。まだチャンスが残っているということですからね」
そして再び、ペン先が紙をひっかく音が聞こえ始めた。アミュウは目を閉じた。さっき胸の奥に覚えた痛みが、より強烈にアミュウの体幹を支配した。しかし慣れないパーティーでの疲れは、時間とともにその痛みを強引に拭い去り、泥のような眠りへとアミュウを引きずりこんでいった。




