3-10.派閥【挿絵】
アミュウと聖輝は、職人街の食堂に入った。
飾り気の一切ない食堂は、普段はその界隈の職工を相手にしているのだろう。週末だというのに店を開けているのが不思議なくらいだ。他に客はいなかった。
特に案内もなかったので、入口近くの適当な席に座る。昼定食は二種類のみで、アミュウと聖輝はそれぞれ別のものを注文した。
「ブリランテ自治領の独立運動についてはご存知ですよね」
聖輝は唐突に口を開いた。二人分のグラスに水差しの水を注ぎながら、アミュウは頷いた。大陸の最東端であるカーター・タウンと最南端であるブリランテ自治領は、直線距離上ではカーター・タウンから王都へ行くのとそう変わらないが、深い森とデウス山脈に阻まれて、陸路では直接行き来できない。国の中心を南北に走るデウス山脈を、その北端に位置する王都まで大回りしなくてはならない。カーター・タウンが街道の終着点であるとすれば、ブリランテ自治領は街道の反対側の終着点である。そのため、お互いを行き来しようと思えば海路が主な交通手段となるが、ブリランテ側の治安が悪く、最近は便が悪くなってきていた。
そんなわけで、カーター・タウンから見たブリランテは、さながら近くて遠い異国の地である。アミュウがブリランテについて知っていることといえば、大家である「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」の元主人フェリーチェ・ピッツィーニがブリランテ出身であり、かの地の料理は大変美味しいということくらいだった。
そんなアミュウでも、ブリランテの治安が悪くなってきているのは、独立の気運が高まってきているからだということくらいは理解していた。
「そもそもブリランテというのは、もとはロウランド王家に連なるブリランテ大公領です。ソンブルイユ軍がロウランドを制圧できたのは、ブリランテ大公の助力があってのこと。その借りがあったからこそ、体制が変わっても、ソンブルイユ側は彼らから自治権を剥ぎ取ることができなかったんです。
しかしそれも百年も前のこと。時が経つにつれて、体制側の締め付けはどんどんと強くなっていきました。国王としては、当然のことながらブリランテを直接支配したいわけです。この動きを支持するのが、国王派……」
聖輝はグラスの水で喉を湿した。
「じゃあ、法王派っていうのは」
アミュウが言いかけた言葉の続きを、聖輝は「しっ」と人差し指をアミュウの唇に当てて制した。
「つまりはそういうことなのですが、そこから先は気安く口にしてはいけませんよ」
「ちょっと! この手! どけてください」
アミュウは聖輝の手を自分の口元から引き剥がして放り投げた。聖輝はニコニコと笑顔を浮かべたかと思えば、笑みをスッと引っ込め真顔になる。
「歴史は繰り返すというのはよく言ったもので、百年前の歴史を今まさに繰り返そうとしているんですよ。
ロウランド王国は、教会と良好な関係を保つことができなかった。あの革命は表向き、都市としての力を蓄えたソンブルイユが、悪政を敷いていたロウランドに反旗を翻したことになっています。しかし、ソンブルイユ将軍を後押しし、ブリランテ大公と引き合わせたのは、教会――つまりは、あなたが夢に見た、御神楽啓枢機卿だったのですよ」
アミュウはその名前を聞いて胸が詰まった。目の前に座っている聖輝の顔は、夢で見た啓とよく似ていた。聖輝が百年前の革命について語っていると、夢の世界から現出した啓が聖輝に乗り移っているかのような錯覚を覚える。
「裏で糸を引いていたのは、教会だったっていうことですか?」
聖輝は頷く。ちょうどそのとき、化粧っけのないおかみさんが料理を運んできた。聖輝は十字を切ると目を閉じて食前の祈りを口にした。アミュウも手を組み、黙祷した。
二種類の定食は、メインのパイ包みの中身を肉にするか魚にするかの差異しかなく、添えられたスープや揚げ芋、豆の煮込みは共通だった。聖輝は魚のパイを切り分けながら、声をひそめて話を続ける。
「今また、都市として大きく成長したブリランテが、独立を求めてソンブルイユに盾突こうとしている。そこで、教会は二派にわかれているのですよ。体制に与してソンブルイユによるブリランテの直接統治を望む国王派と、独立を後押しする法王派にね。
もちろん、後者については大っぴらにはできません。法王派の本当の狙いは、ブリランテに国家転覆するだけの力を付けさせることですからね。法王は、そうして神輿の上に担ぎあげた新体制に、建国に助力したという恩を売りたいのですよ。百年前とまったく変わっていません。
まあ、そう入れ知恵したのは父なのですがね」
アミュウはナイフで切り分けたミートパイをひと切れ頬張り、考えをめぐらせる。
「聖輝さんのお父さん、御神楽枢機卿が……」
聖輝は頷く。
「それなら、どうしてスタインウッドのエヴァンズ先生は私たちを狙ったの……? 御神楽枢機卿と同じ法王派なんでしょう」
「彼も、私には手出しできなかったでしょう。あの人が狙ったのは、アミュウさんただ一人です。八年も前の呪い騒動を蒸し返したことへの口封じにしては、やり方が強引だ。彼も、例の脅迫者と同じく、アミュウさんのことを、私の婚約者だとでも思ったのでしょうね。ジークについては、気の毒ですが完全に巻き添えです」
「私のことを、王都の枢機卿の下へ連れて行くと言っていました。なんて言ったか忘れちゃいましたが、ブリランテか、ロウランド風の男の人の名前も出てきたような……」
「枢機卿ですか。ブリランテの人間も絡んでいるとなると、なかなか面白いですよ」
聖輝はニヤリと笑って見せた。ミートパイの味は決して悪くはなかったが、アミュウの味覚はだんだんと色あせ、砂を噛んでいるような心地になってきた。ナイフとフォークを置いて、聖輝に問う。
「もし、私が聖輝さんと一緒にいなかったら、狙われていたのはナターシャってことになりますよね」
聖輝は口の中のものを流し込むように水を飲んでから、アミュウの問いには答えずに、手を挙げて店のおかみさんを呼んだ。
「はいよ」
「ワインをボトルで。赤でお願いしたいのですが」
「はい」
「グラスは一つで」
「はいはい」
おかみさんは厨房へ姿を消し、すぐにワインとグラスを持ってきた。コルク栓を抜いて、テーブルにワインが垂れるのも意に介さないような素振りでグラスに注ぐと、エプロンにひっかけた台拭きでさっと汚れを拭い去り、また厨房へ戻っていった。
聖輝は一杯目を一気に飲み干した。
「その点では、あなたに謝っても謝りきれません。私とナタリアさんの問題に、あなたを巻き込んでしまいました」
「その言い方が気に入りません。聖輝さん、あなたはよく『私たち』という言葉を使うけど、私はあれが大嫌い。ナタリアだって私と同じ、巻き込まれた側よ」
聖輝が、空になったグラスに二杯目のワインを手ずから注ぐのを、アミュウは睨みつけていた。以前、アミュウは「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」で聖輝にワインを注いでやったが、今は無視を決め込んでいる。聖輝はワインを一口飲んで言った。
「残念ながら、そうではないのですよ。アミュウさん。ナタリアさんと私は、月の定めのもと、ある使命を持ってこの世界に生まれてきました。確信をもって言えます。このきなくさい物語の主人公は、私とナタリアさんです。あなたではない。
時間をかければかけるほど、外野が騒ぎだしてややこしくなることは分かっていました。だから、初めて会ったあの晩のうちに決着をつけたかったのです。まぁ、このことは今さら言ってもしょうがないのですが」
これだけ面倒ごとに巻き込んでおきながら、ナタリアを当事者だと主張する聖輝の言葉を聞けば聞くだけ、アミュウは余計に腹が立ってきた。そのうえ聖輝は、いくらアミュウがナタリアを守ろうとしても、お前は部外者なのだと釘を刺している。それがまた苛立ちの材料となった。しかしアミュウは、言い返すだけの言葉の持ち合わせが無かった。そこで、聖輝を詰問した。
「月の定めって何ですか。笑わせないでください。使命って何ですか。ナタリアはプロポーズを断ったんでしょう。くだらない争いに、ナターシャを巻き込まないで!」
「言葉通りですよ。月の定めとは、天命。使命とは――安く言ってみれば、この世界を守ること、とでも言いましょうか。繰り返します。ナタリアさんは巻き込まれたのではありません。元よりこのゲームに参加している側なのです。そして、本人の意思がどうであれ、そのゲームから降りることは許されない」
「ゲームですって?」
「ええ。ゲームですよ。ブリランテが独立する? 革命が起こる? そんなものよりもっと恐ろしく、際どいゲームに、私たちはずっと前から参加しているのです。あなたもアカシアの記録に触れることができるのなら、よくご存じなのでは?」
アミュウはしばらく聖輝を睨み続けたが、やがて力なく首を横に振った。
「全然、分かりません」
聖輝は、皿に残っていた白インゲンのトマト煮をスプーンですくい、口へ運んだ。ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。アミュウは半ば伏せた目で、その口元と喉仏の動きを見守っていた。
「あなたにはまだ、分からないのですね。あれから、例の夢は見ていないのですか」
アミュウの脳裏に、騎士シグルド・ログンベルクの顔が浮かび、それはすぐにジークフリートの顔へと重なった。
アミュウは、やはり首を横に振った。
「……そうですか」
聖輝は烏の濡れ羽色の瞳に失望を滲ませ、残った食事を平らげた。それきり、その話題はおしまいだった。
「アミュウさん、食べないのですか」
アミュウの食の進まないのを見て、聖輝は声をかけた。
「……食欲がありません」
「残りを頂いても、構いませんか?」
行儀が悪いと一瞬ためらったが、どうせ聖輝とは同居までしているのだ。アミュウは頷いた。聖輝の健啖家ぶりは、ジークフリートには及ばないものの、なかなか頼もしいものだった。
聖輝はアミュウの残した料理を綺麗に食べ尽くすと、既に四杯目か五杯目となるグラスを空けた。聖輝はワインボトルを、ずっと手酌で攻略し続けていた。意地を張るのも馬鹿らしくなり、アミュウはとうとう酒を注いでやった。聖輝は意外そうにアミュウを見た。アミュウはわざとその視線から目を逸らした。
アミュウは帆布の鞄から、預かり物の招待状を取り出した。
「これ、ナターシャからです」
聖輝は無言でそれを開封し、文面を素早く目で追った。
「申し訳ないが、私は行けません。理由は分かるでしょう」
アミュウは頷いた。聖輝の本当の求婚相手がナタリアであると、「脅迫者」に勘付かれてしまうわけにはいかない。
「どうせジークも行くのでしょう。二人で行ってきてください。もちろん、行きも帰りも、彼に送ってもらうんですよ」
再び頷きながら、アミュウは暗く考えた。聖輝は、いつもこんな風にして生きてきたのだろうか。他人の反応をあれこれと先読みして、自分が不利にならない道だけを踏み外さないようにして。彼の立場にとってそれが必須であったということは、田舎育ちのアミュウにも朧気ながら想像はついたが、それはあまりに寂しい生き方であるような気がしてならなかった。
そこまで考えて、アミュウはふと思いついた。そういう生き方をしている人間は、聖輝だけでなく、身近にもう一人いる。ナタリアだ。彼女も、他人の期待を裏切らない道を、過たずに歩んできた。ナタリアの望みがどこにあるのか、アミュウはいつも不思議に思う。聖輝とナタリアの性質は似ても似つかないが、他者によってその生き方を決められている点には、何某か共通するものを感じる。
その共通点に思い至ると、アミュウは、冷たい手で胸の奥をまさぐられるような心地がするのだった。アミュウは、ナタリアという出来の良い義姉の影で、家業に関して何一つ気負うところのない養女という身分のもと、自由を満喫してきた。そのことの代償を、ナタリアに払ってもらっているような気分になるのだ。そしてその考えは、聖輝から記憶を奪っておきながら不思議な夢を秘密にしている罪悪感に引きずられてか、彼に対する負い目を強調するのだった。たとえ、アミュウが一方的に巻き込まれた側であったにしても、である。




