3-7.小桑を囲んで【挿絵】
ほどなくしてチョロチョロと水の音が聞こえ始め、か細い小川に行き当たった。ジークフリートとナタリアは、担いでいたイノシシを下ろした。
アミュウは上流を見やって言った。
「もう少し先に行けば泉だけど」
「いい。血抜きだけでも、ここでやる」
ナタリアは弓用のグローブを外して腰からナイフを取り出すと、ジークフリートが剣を叩きつけて作った傷口から切っ先を差し込み、イノシシの心臓を貫いた。赤黒い血が噴き出る。傷口を流れにさらして血を流すと、頼りない流れはあっという間に真っ赤になったが、次から次へと押し寄せる優しい清水が血を洗い流し、せせらぎはもとの清い流れへ戻っていった。
ジークフリートが感心したように言う。
「慣れたもんだな」
「まあね……あらかた流れたかな。泉で一休みしよう」
ナタリアはせせらぎで手を洗うと、立ち上がった。ナタリアとジークフリートの二人がかりでイノシシを担ぎあげる。
小川を十分も上っていくと、鏡のような泉にたどり着いた。アミュウが水汲みをしていたほとりからは大分離れた場所で、清水の湧き出るいつもの岩場は、木々の影に隠れて見えなかった。
ナタリアは冷たい泉の水にイノシシの身体をさらして、肉を冷やした。ナタリアとジークフリートが、イノシシのあちこちを指さして解体方法について話し込んでいるうちに、アミュウはそろりとその場を離れた。
アミュウは新居に持ち帰る薪を探していた。木の枝ならそこら中に落ちているが、ある程度の太さがあり、乾燥しているものを選ぶとなると、少しばかり歩き回る必要があった。アミュウは、ナタリアたちの話し声が聞こえる範囲で薪を探した。
拾った枝を、膝を使って適当な長さに折っていく。下ばかり向いていたら首から肩にかけての筋が張ってきた。背中を伸ばし、大きく伸びをする――すると、頭上の木に絡みつく蔓に、小さな青々とした実が鈴なりに実っているのを見つけた。小桑だ。
アミュウは集めた薪を木の根元にうちやり、帆布の鞄を肩から下ろすと、木の節々に手をかけ足をかけ、軽々とよじ登っていった。たわわに実った小桑のうち、皮に皺の寄ったものに触れてみると、柔らかい弾力がある。ひとつもぎ取り、軽くスカートで拭いて、アミュウはそのまま樹上で皮ごと果実を頬張った。甘酸っぱく、完熟している。
手にもって木を下りるには、その果実はあまりに柔らかすぎた。ナタリアの手を借りようと、アミュウはひょいと木から飛び降り、泉へと駆け戻った。
「アミュウ、どこへ行ってたの」
ナタリアはイノシシの傍らを離れてアミュウに歩み寄る。血のにおいがむっとたちこめる。イノシシの方を見ると、きれいさっぱりとはらわたが抜かれていた。離れたところに桃色のかたまりが打ち棄ててある。じきにキツネか何かが食べにくるだろう。
アミュウは息を弾ませて宝の報告をした。
「あっちで小桑を見つけたわ。実を採るから、手伝ってちょうだい」
ナタリアはジークフリートの顔をちらりと見た。
「行ってこいよ。俺はここで番をしていればいいんだろう」
ジークフリートはてらいのない笑顔で応じた。アミュウはナタリアの手を引いて、木々の間を分け入った。
泉からいくらも離れず、小桑の自生する場所に戻ってくると、アミュウは意気揚々と木を登り始めた。あっという間に果実の在り処まで登りきったアミュウを見上げ、ナタリアは呆れたように言った。
「アミュウ……あんたスカートでよく木登りできるわね」
「ドロワーズを履いてるから大丈夫」
「そういう問題じゃないでしょう。そんなんで男と二人暮らしなんて、よくもまぁ」
ナタリアがこぼすうちにも、アミュウはひとつ、またひとつを小桑をもいで、ナタリアへ投げて寄越す。ナタリアは全く危なげなく、それらをキャッチしていく。ひととおり収穫すると、アミュウはするすると木を下りて、薪を背負子に括りつけて背負い、鞄を肩にかけた。ナタリアは聞こえよがしに呟いた。
「ジークには、泉で待っていてもらってよかったわ」
泉に戻って三人で小桑の実を囲むと、山と積まれた果実はあっという間に溶けて消えていった。
誰よりもむさぼり食べていたのはナタリアだった。ジークフリートは鷹揚に笑って言った。
「あんまり急いで食べると、服を汚すぜ」
もごもごと口の中の果実を飲み込むと、口の周りの果汁を手でぬぐってナタリアは答えた。
「どうせ狩猟着だもん、汚れたって全然平気」
木の実を食べ尽くしてしまうと、狩りで高揚した気分は随分と落ち着いた。イノシシはまだ冷却中だ。ジークフリートはイノシシの身体がむらなく冷えるよう、ひっくり返しながら言った。
「俺、商工会でアルバイトすることになったんだ」
「商工会で?」
驚いたナタリアが顔を上げる。ジークフリートは水しぶきで濡れた革のマントを脱いだ。
「収穫祭とやらで人手がいるんだとよ。ちょうどいい小遣い稼ぎだ。
お前らの大おじさんが、本当に牧師と繋がってるのかも分からないだろ。聖輝の言うことを真に受けて疑ってかかるよりも、実際に自分の目で確かめた方が早い」
ジークフリートは水辺の乾いた岩に腰かけると、彼にしては慎重に、言葉を選んでいるような歯切れの悪さで話し続けた。
「……知り合いのことを悪く言いたくはねぇ。けどよ、あの夜、聖輝の言ってたことは、ハタで聞いてたって無茶苦茶だった。どう考えたって、アミュウは実家に戻るべきだったんだ。それを、無理やりお前らの大おじさんを悪者に仕立てて、まるでアミュウに実家に戻ってもらいたくないみたいな」
ナタリアも頷いた。
「私もそう思った。教会のことについては何も分からないけど、マッケンジー先生と脅迫者を繋げるには、無理があると思う」
アミュウは黙っていた。アミュウとて聖輝の詭弁に気付かなかったわけではないが、聖輝の意図もなんとなく予想がついていた。
(火種となっている私をナタリアに近付けたくないんだわ。聖輝さんは何も言わないけど、ナタリアの身の安全については、私に対する以上に気にかけているみたいだもの)
だからこそ、今日のこの狩りを聖輝が認めたことが意外だったのだ。ナタリアなら、アミュウの案内なしでも森を歩ける。ナタリアとジークフリートの二人で行くか、聖輝も加わって四人で行くかのどちらかだと思っていた。それが、この三人組である。
アミュウは、ナタリアの手前、自分は遠慮した方が良かったのではないかと、いったんは尻込みした。しかし今回の狩猟は、アミュウが気持ちの整理をつけるための機会として、他でもないナタリアが提案してくれたものなのだ。主役であるアミュウが行かなくては元も子もない。
ジークフリートがいるから大丈夫だと送り出されたが、アミュウはそんな聖輝の反応を気味悪く感じていた。あれだけ「自分といるのが安全だ」と言っていたのに――。
(まるで、一人になりたいみたいだった)
気楽な宿暮らしから、狭い部屋での同居生活へと、環境が激変したのだ。一人の時間が恋しくなるのは当然といえば当然だが、どうもそれだけではない気がしてならない。何かアミュウに対して隠しているのか、はたまたアミュウが邪魔なのか。
スタインウッド教会に乗り込むときにも、聖輝は教会にアミュウを連れていくのを渋った。あの時は結局、グレゴリー・エヴァンズの押しに負けて礼拝堂に足を踏み入れたのだったが。
不意に、ナタリアがアミュウの顔を覗き込んできた。
「ねえ、聞いてる?」
アミュウは首を横に振った。
「ごめん、ぼーっとしてた。なに?」
「今からでも遅くない。うちに帰ってきなよ」
アミュウの心がほんの少し揺れたが、そのじくじくと震える柔らかい部分をかばって、アミュウは踏みこたえた。アミュウがカーター邸に戻らない方がナタリアにとって安全だと聖輝が判断したのなら、それは恐らく本当のことなのだろう。
「ありがとう。でも大丈夫。さあ、おみやげの小桑を採りに行きましょう」
心配そうにアミュウを見つめるナタリアの視線には気付かないふりをして、アミュウは立ち上がった。
ジークフリートには再び獲物の番をしてもらい、アミュウはナタリアを伴ってさっきの場所に戻ってきた。
手の届く範囲の食べごろの果実は採り尽くしてしまっている。アミュウは蓮飾りの杖の石突に足をかけて、垂直方向に浮上した。枝先に絡む蔓から重そうに垂れ下がる実のある場所まで、立ち泳ぎの要領で近付いた。ホバリングは、推進飛行よりもずっと難しい。上下に大きく揺れながら、アミュウは片手で手早く完熟した実をもぎ取っては、ナタリアへ放り投げる。ナタリアは次々と降ってくる柔らかい実を受け止め、布袋に収めていった。
ナタリアはそれまでただの一度もしくじらなかったが、ある時、アミュウよりもほんのわずか上方に目線を留め、口をぽかんと開けた。アミュウはナタリアの様子の変化に気付かず、小桑の実を投げてしまった。熟れた果実は無残にも地面に落ちて潰れた。
「あーぁ」
その声が潰れたような、やけにしゃがれた妙な声だったので、アミュウは思わずナタリアを見た。
「今の、ナターシャ?」
ナタリアは視線を上の方にぴたりと留めたまま、ゆっくりと首を横に振った。それでようやくアミュウもナタリアの様子がおかしいことに気付き、頭上を見上げる。
樹上には、逆光にふちどられた、水瓶ほどの大きさの影があった。アミュウが目を細めてその正体を確かめようとしたとき、突如として影の面積が何倍にも膨れ上がったと思うと、アミュウの鼻先をかすめ、未だ呆けているナタリア目掛けて真っ逆さまに落ちてきた。




