1-7.逃亡【挿絵】
* * *
ハイヒールで長い間走り続けていたため、足がひどく痛む。いっそ靴を脱いでしまいたい。ドレスの裾をたくし上げて走りながら、少しのあいだ立ち止まって休憩したいと思った。しかし決して止まってはならない。走り慣れていない足がもつれるたび、握った彼の手を頼りに倒れないよう踏ん張る。
石造りの廊下に遠くからの振動が響く。大砲でも撃ち込まれているのだろうか。窓もなく灯りもない、真っ暗な廊下はどこまで続くか分からない。戦う騎士たちの咆哮も、ここでは夢のように遠くで聞こえるのみだった。
「転んでしまいそうです! ほんの少しでいいの、止まって!」
すがるように請うと、ようやく彼は足を止め手を離してくれた。
「この場所は気付かれていませんが、追い付かれるのも時間の問題でしょう。早く脱出しなければ」
彼は遠くの様子を伺うが、廊下は静まり返って、ときおり足元を去っていくネズミのほかは何の気配もしない。私は息を整え、闇に慣れた目を凝らして床を見た。地面がむき出しのままで、はだしで走ったらもっと痛そうだ。
(靴を脱ぐのはやめておきましょう)
ふいに涙がにじんできたが、目をいっぱいに見開いて、それ以上あふれてくるのを食い止めた。私が泣いてはいけない。彼が遠くを見ている隙に、指先で拭ってドレスで拭いた。ドレスは土ぼこりで汚れている。ドレスの下の、靴擦れで真っ赤になっているはずの足は、見たくない。
「追っ手は来ません。さあ、今のうちにまいりましょう」
彼がもう一度私の手を取った。彼の手のひらは汗でじっとりと湿っていて、簡素な作りの籠手が当たると、手の熱でじんわりと温まっていた。私は返事の代わりに彼の手を力強く握った。
再び走り始めていくらもたたないうちに、石の階段が見えてきた。彼が、身振りで隠れるよう私に示す。
(隠れる場所なんて無いのに)
仕方なしに階段の脇に身をかがめる。彼は、鎖かたびらが音を立てないよう、慎重にゆっくりと階段を上る。階段の先には天井に戸がついているらしい――戸というよりも床下収納の蓋のような代物で、上へ挙げて開くようになっている。彼が何度か力をこめると、重い音を立てて蓋が浮いた。隙間から月明かりが差し込んでくる。外の気配を探ってから蓋を全開にし、まず彼だけが外に出た後に、私に手招きした。
彼に助けられて外へ上がると、そこは城の裏手の森の中だった。月の光が真上から降り注いでいる。暗い木々の向こうの空が、一方向だけ明るい。
「……ああ」
思わずうめき声がもれた。
城が燃えていた。かなり走った気がしたのに、城でいちばん高い見張り塔は、そう離れてはいなかった。叫び声の合間にときおり大砲の音が聞こえてくる。炎の手は今にも階上に届きそうだった。父王陛下はどうしているだろうか。母妃殿下は。
今度は涙を押しとどめることができなかった。炎は、やがて慣れ親しんだ城の全てを飲み尽くしてしまうだろう。頼もしい騎士たち、優しく気の利くメイドたち、自室の壁に掛けられた大きなタペストリーも、燃えて灰となるだろう。
(わたし一人が逃げおおせたところで、何になるのかしら)
民の王家へのまなざしは、取り返しがつかないほどに悪意に満ちている。王家は滅びる。父王陛下がお隠れになれば、ただ一人の子である私に王位が継がれるが、もはや王位そのものに正当性が認められないだろう。このままどこかへ忍び、つつましやかに暮らすのだろうか。そのような生に、意味があるのか。
「お気落としのないよう、姫殿下」
辺りを見回していた彼が、こちらを向いてぽつりと語りかける。
「まずは姫殿下がご無事でここを離れませんと。ブリランテ大公領を目指して、目立たぬよう城下町を避けて街道へ下りましょう」
「反乱の報せはすぐに大公のお耳に入るのでしょうね」
「王陛下や妃殿下も、お逃げになるとすれば大公を頼られるはず。手始めに――姫殿下の休息が必要ですね」
彼は地下通路の蓋を閉めて、土や落ち葉をかけて隠した。
「街道方向に進む途中で、水場があります。井戸は謀反者に押さえられている恐れがあるので使えません。小さな泉ですが、湧き水は飲めますし、疲れを癒せるでしょう」
彼に続いて、私は歩いた。一歩ごとに足が悲鳴を上げる。道中、彼はこの境遇と全く関係のない話ばかり口にした。好きな食べ物のこと、城下町の流行りもの、行軍訓練での珍事……彼の心遣いとは分かったが、話の内容はまったく頭に入らず、右の耳から左の耳へと上滑りしていった。
辺りには同じような木ばかりがせめぎ合い、ツンとむせかえるようなにおいがした。高くそびえる直線的な幹は、自然の作り出した檻の鉄格子のようだった。相変わらず足は痛んだが、森の中にしては歩きやすかった。
「あすなろの植林ですね。下草が刈られたばかりのようです。見通しが良いから、けものの心配も少ないでしょう。さあ、水の音が聞こえてきました。もう着きますよ」
先導する彼の後を必死で追いかけるうちに、開けた場所に出た。岩から湧き出た清水がごく小さな水たまりになって、か細い流れを作っていた。濡れた苔が艶やかに月光を反射し、レース細工のような花を咲かせていた。天を仰ぎ見れば、満月が真上に輝き、針葉樹の細やかな葉陰の隙間からこぼれるような光を投げかけている。
彼が岩を乗り越えて湧き水に近づき、手で受け止めて飲んで見せた。
「御覧のとおり、毒は仕込まれていません。姫殿下、こちらへ来られますか」
彼の手を借り、泥だらけのドレスをたくし上げて苦労して岩場に上がる。清水に手を伸ばすと、意外なほど冷たかった。口に含んでみると、清涼なのど越しがつかの間、争乱を忘れさせてくれた。
私は靴を脱いで、まめの破れた足を水たまりに浸した。
「あまりにも突然のことで、取るものも取り合えず、御許に駆け付けるのが精一杯でした。お手当てもできず、申し訳ございません」
彼はベルトに提げたポーチから手ぬぐいを取り出して差し出した。
彼の姿を改めてよく見ると、鎖かたびらの上に胸当てと草摺りのみ身に着けている。脚には皮のブーツを履いたのみで、ずいぶんと簡略的な装備だ。騎士とはいえ、普段は平服で控えていることも多い。重量のある甲冑は支度に従者の手を必要とする。「取るものも取り合えず」といったのは言葉どおり、必要最低限の装備のみ、自分の手でさっさと身に着けて、いち早くはせ参じてくれたようだ。それは騎士としての品位を保つよりも主君の安全を守ることを第一とした行動で、お陰で私は今ここにいる。
「よいのです。緊急の事態によく対応してくれました」
彼の手ぬぐいで足を拭き、靴を履く。まめが痛むが、ぐっとこらえる。
「できれば夜のうちに、街道の近くまで下りてしまいたいのですが……そのおみ足では無理ですね」
彼は私に背を向けてしゃがんで見せた。おぶされと言いたいのだろう。私は心臓が縮んだ気がした。
「いいえ。まだ歩けます」
「ご無理をなさらないでください。今は一刻も早く城から離れなければ。明るくなってしまえば、敵軍に見つかる恐れが大きくなります」
「大丈夫です」
そう言って私は岩場から降り、歩いてみせたが、数歩のところで一瞬あたりが白く光り、弾力のあるなにかにはじかれて尻餅をついてしまった。不思議に思って見てみるが、何もない。
「殿下、お怪我は」
彼が駆け寄ってきた。
「大事ありません。今、何か白いものにぶつかった気がしたのですが……」
「白いもの、ですか?」
彼が訝しげに私の歩いたほうに手を伸ばすと、先ほどと同じように辺りが白く光り、彼の手ははじかれた。
「これは……結界か⁉」
彼がその見えない壁を手探りで伝っていると、背後から聞き慣れない低い声が響いた。
「その通り」
清水の染み出す岩場に、両手を広げたほどの大きさの白く輝く円が忽然と現れて、中から人影が乗り出してきた。その人物がすっかり姿を現すと、光は消えて白い円は収束する。背の高い男で、あちこちに前垂れや帯のぶら下がった白い神官の衣装を着ている―――かなり高位らしい。黒々とした髪に隠れていた顔を上げると、髪と同じように黒い目がこちらを捉える。
「はじめまして、アモローソ王女。私は大司教にして枢機卿のアキラ・ミカグラ。貴女をお迎えに上がりました」
その男の目は、見たことがある。ベイカーストリートの夕日の中で、こちらを見下ろしていた――結界の向こうから、私をあざ笑っていた――