3-5.アカシアの記録【挿絵】
突然のナタリアの来訪で、その日は結局買い物に出られず、アミュウと聖輝は「カトレヤ」で小腹を満たすのみに留めた。
アミュウは聖輝がぐっすり寝入ってから、炉に残った火で湯を作り、衝立の後ろで体を拭き清めた。ランプが無くとも、暖炉の明かりが部屋をうすぼんやりと照らしている。石造りの建物は、昼も夜もひんやりと冷えている。この部屋で冬を越すには、随分な量の燃料が必要かもしれない。
アミュウは身の丈よりもなお高い衝立を、聖輝を起こさないよう苦労しながら、ベッドと布団の間に立てかけた。衝立の内は炉の光が届かない。アミュウは寝間着に着替えて床に入りながら、その暗さに安堵を覚えた。明るさが残っていると、どうしても隣で眠りこけている聖輝を意識してしまいそうだった。
しかし、光は遮断できても、音は防げない。斜め下の布団から聖輝の寝息が聞こえてきたし、煙突を伝わって、直下に住むピッツィーニ夫妻の話し声が微かに響いていた。むろんその中身までは聞こえなかったが。窓の外からは、鎧戸を閉めていてもなお、歓楽街をそぞろ歩きする人々の笑いさざめく声――時には酔客の罵声が、部屋の中に忍び寄ってくる。
久しぶりの感覚だった。
カーター邸で寝起きしていたときの感覚ではない。広い屋敷では、家族の物音が耳につくことはあっても、表の喧騒が気になることは無い。アミュウはもっとずっと前に、この感覚を味わっていた。
(王都のステュディオが、こんな感じだった)
薄い木の壁、共同の洗面所、遅くまで雑踏の絶えない表通り。十二歳で足を踏み入れた大都会。昼間、人前では毅然としていたアミュウも、夜、ひとりで硬いベッドに横たわると、涙をこらえることができなかった。一週間も経つと、寧ろ積極的に泣きを入れるようになった。そうすることで、昼間に理性を保つ気丈さを補えるような気がしたのだった。そしてそれは多分、正解だった。そのほんの二か月後に休学届を提出するまで、アミュウはただの一度も、外で涙を流す醜態は晒さなかった。
(夜のうちに泣き溜めていたからだわ、きっと)
実技課程で要求されたハードルを、どれ一つとして超えられなかった頃よりも、休学してから第二の師に出会うまでの期間のほうがこたえた。何者にもなれず、先の展望もなく、無為に過ごす時間の流れの遅さ。一日の過ぎるのがどんなに遅いかと焦れたかと思えば、一方でそんな日々はあっという間に過ぎていき、正反対の意味でアミュウは焦るのだった。
自分はまだ学びの途上にあるのだと奮い立たせて、課業で人通りの少ない午前中を狙って通った学校の図書館。たまに学生とすれ違っては、目を合わさぬよう、目立たぬよう、じっと足先のタイルを見つめてたどった舗装路。帰りがけに寄るブラスリーで、何も考えずに注文するハムとチーズとレタスのバケットサンド……そのうち店員に顔を覚えられ、何も言わずとも同じサンドウィッチを差し出してくれるようになった。
学生時代のあれこれを、とりとめもなく思い出すうちに、自然と涙が盛り上がってきた。しかしそれが自動思考の一種であり、泣くことすらただの反射運動であると、十八歳のアミュウは十分に理解していた。そして、時々はそうして感情のガス抜きをすることで、心の芯をしっかりと、太く力強く保っていられるのだと。
目を閉じると、盛り上がった涙が幾筋かに分かれて落ち、髪を濡らした。一度だけ寝間着の袖で拭うと、随分と気持ちが和いだ。
ふと、ナタリアのことが気にかかった。旅行や所用を別とすれば、ナタリアはカーター邸を出たことが無い。よく思い返せば、ほんの二週間前にスタインウッドに泊まったことすら、彼女にとっては稀有な外泊であったはずだった。
(このままカーター・タウンでお婿さんをもらってしまえば、いよいよナタリアはあの屋敷から出ることはなくなるのね)
新興の町カーター・タウンの跡取り娘たる義姉の身上に思いを馳せながら、アミュウはゆっくりと眠りの沼へ沈んでいった。
それからの数日は、意外にもトラブル無く過ぎていった。アミュウの側にも聖輝の側にも、緊張の上に相手への遠慮があり、些細な言い争いをすることはあっても、派手な喧嘩へ発展することはなかった。
朝は聖輝よりも早く起き、夜は聖輝の眠った後に眠る。そうしてアミュウは共同生活の中での最低限のプライバシーを確保した。アミュウはもともと宵っ張りだったし、幸いなことに聖輝には寝坊癖があったので、アミュウも朝はたっぷりと眠っていられた。
水場は、わざわざ広場まで足を運ばずとも、建物の裏手に小さな井戸があると、エミリが教えてくれた。「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」の主人ポンペオ・ピッツィーニが煮炊きや炊事に使っている井戸だ。アミュウはそこで洗面と洗濯を済ませた。三階の外廊下の奥に、寸詰まりのルーフバルコニーがあり、エミリはここに洗濯物を干していた。アミュウも同じ場所を使わせてもらった。聖輝は相変わらず洗濯屋に任せているようだった。
私設井戸の近くには薪棚もあった。クリスティアナに訊ねてみれば、補充さえ怠らなければ、この燃料も使ってよいとのことだった。
よろず屋の仕事に関しては、新規の依頼を断り、開店休業状態とせざるを得なかった。
アミュウは聖輝を伴ってメイ・キテラの家へ赴き、事情を説明して頭を下げた。アミュウが満足に仕事をこなせないとあっては、メイ・キテラに注文が殺到するに決まっているのだ。
メイ・キテラはアミュウに向かって吐き捨てるように言った。
「おまえの代わりができなくなるほどヨボヨボに見えるかい。ほんの数年前まで、あたし一人でこの町を背負ってたんだ。今またあんたの客の面倒を見るくらい、わけないよ」
そして、付き添いの聖輝を頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見てから呟いた。
「背負うといえば、小僧。途方もない因果を背負っているようだけど、なにやら空回りしているね」
聖輝は肩をすくめて苦笑した。
「さすがアミュウさんの先生。お分かりになりますか」
「そうだわ、先生。縁切りのまじないで、それまで見えていたアカシアの記録を読めなくなってしまうなんてこと、あります?」
アミュウが思いついて訊ねると、メイ・キテラはもともとぎょろりと大きな目をさらに丸くした。
「はぁ? おまえ、何を言ってるんだい。話がさっぱり見えないね」
アミュウは、聖輝が張った結界を、縁切りのまじないで破った経緯について説明した。話せば話すだけ複雑になりそうだったのでかなり端折ったが、メイ・キテラには合点がいったようだった。
メイ・キテラはしばらく身じろぎひとつせず目を伏せていたが、目蓋を開くと、こぼれ落ちそうな眼球を聖輝に向けた。
「小僧。アカシアの記録が読めるってぇのは、どの程度かい」
聖輝は首を横に振った。
「かなり鮮明だったはずです。今は触れることもできないし、前に読んだ内容すら思い出せません」
メイ・キテラは老いてなお輝くどんぐり眼をしばたたかせ、アミュウをじろじろと見る。
「さて、おまえに、アカシアの記録について教えたことがあったっけねぇ……」
「魔法学校で概要を教わりました。この世界の始まりから終わりまでが全て記された、高次元の書物であると」
「実に教科書的な内容だね。そうだよ。神が記した、この世界の設計図、偉大なる手帖。認識不能の言語によって書かれた、読まれざる書物。統一言語では至ることのできない聖域。わかるかい? そんなものに触れては、人は人でいられなくなるんだ」
アミュウは師の言わんとしていることがうまく呑み込めずに、首を傾げた。
「魔術の力と同じことさ。あれやこれやと媒体を集め、精緻な魔法陣を組み、長たらしい言霊を紡いで、やっとやっとほんの少し世界の秘密に触れる力――それが魔術だ。嫌というほど教えたろう。
アカシアの記録も同じ。おまえも時々は占いをやるだろうが、水晶玉の向こうに、カードの絵柄の奥に、数字の裏に、あるいはティーカップに浮かぶ茶葉の形に、色々なものに仮託して、ほんの少し姿を現すかどうかといった影。それがアカシアの記録だ。
過去に何があったか。未来に何が待ち受けているのか。そんなものをはっきりと知ってしまったら、人は希望を持って『今』を生きることができないんだよ。神が何を以ってそんな書物を書き上げたのか知らないが、それが読まれざる書物であるのは、人に生きる希望を与えるためだと、あたしは考えるね」
アミュウは神妙に頷いた。聖輝は沈黙を守っていたが、やがて口を開いた。
「アカシアの記録を読むのは私自身のためにならないから、縁切りのまじないによってその回路が断ち切られたと……?」
「ま、そんなところだろう。縁切りのまじないといっても、何も男女の縁を切るばかりではない。悪しき因縁を断ち切るための術なのさ。現に小僧、おまえさんは、アカシアの記録との繋がりを絶たれた今でさえ、随分と因果に囚われているようじゃないか。こんがらがった因縁に、少しは整理をつけろという天啓なんじゃないのかね」
聖輝は口を一文字に結んでいた。アミュウは師と聖輝の顔を見比べた。メイ・キテラは、弟子には容赦なく投げつける威圧感を、今はかなり抑えているようだったが、それにしても聖輝の方が押されているように見えた。聖輝の舌が回らないとは、珍しいこともあるものだと見分していると、聖輝がおもむろに口を開いた。
「それでも、どうしたって私は思い出さなくてはならないのです。まじないの効果を打ち消すことはできないのですか」
メイ・キテラはこれ見よがしにため息をついた。アミュウを見て一言、
「おまえ、厄介なのに関わっちまったもんだねぇ。禁じ手使いってのはこいつだろう」
驚いて声を上げたのは聖輝だった。
「なぜそれを」
「なんたって、あたしゃこいつの師匠だからね――ちょいと。火が消えちまうよ」
アミュウは慌てて立ち上がり、玄関脇に積まれた薪をいくつか持ってきて、囲炉裏にくべた。勢いを失っていた炎が安定する。メイ・キテラはその炎をじっと見据えて言った。
「小柄だと言ったね」
「え……あ、はい」
わけが分からないまま頷いたアミュウには一瞥もくれずに、メイ・キテラは炉の火を見ていた。大きな丸い瞳の中で光が揺れている。師には何か考えがあり、それを口にしようかするまいか迷っているのだ。ほかの誰でもないメイ・キテラが迷うとは。アミュウは珍しいものを続けざまに見て、半ば開いた口を閉じるのを忘れていた。
「おおもとの刀に元通り小柄を納めてしまえば、あるいはまじないの力を鎮めてしまうことができるかもしれないね」
聖輝は露骨に肩を落とした。小柄は蚤の市で見つけたものであり、あの夜に姿を消したままだった。ましてや揃いの刀など見つかろうはずもない。問題は振出しに戻ったのだった。
それでも聖輝は慇懃に礼を言い、アミュウも、世話をかけた詫びに何度も頭を下げながら、メイ・キテラの家を辞した。




