3-4.キンバリーの贈り物【挿絵】
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(でも、よく考えてみれば、あちらからナタリアを隠す良い手段かもしれない)
フェリーチェの手料理、牡蠣と葱のニョッキを頬張っている間は、アミュウは余裕たっぷりに考えていた。しかし、ピッツィーニ夫妻の部屋を出て、ジークフリートやエミリと別れ、新居で聖輝と二人きりになってからは、流石に息が詰まった。部屋の狭さが余計に閉塞感を助長させている。
聖輝は帰るなり、アミュウの寝床となった据え置きのベッドの手前に自分の布団を延べて、さっさと昼寝してしまった。アミュウはひとりやきもきしていたが、聖輝の寝息を聞いているうちに、ふっと全てが馬鹿らしくなってきた。
アミュウは食卓の椅子に腰かけて一息つく。聖輝はもとより旅暮らし、アミュウも最低限の荷物しか運んでこなかったので、片付けはすぐに終わった。
不意に口さみしさを感じて、アミュウはお茶を淹れようと思い立ったが、備え付けの水瓶は空っぽだった。腕を突っ込み指で内底をぬぐってみると、指が埃で真っ黒になった。
(洗わなくちゃ……水場はどこなのかしら)
アミュウの小屋のものよりも一回り小さい水瓶を抱えて、アミュウは外へ出た。
昼下がりのキャンデレ・スクエアは、午睡時のスタインウッドのように眠たく静まり返っていた。晩秋の灰色の陽光が降り注ぎ、街並みの彩度をひと段階落としている。路地や建物の隙間の陰は柔らかく、うすぼんやりとしていて、街の印象をさらに腑抜けたものにしている。昼間の風景からは、夜の賑わいがまるで想像できない。どこかでヒヨドリがけたたましい鳴き声を上げた。
アミュウは空の水瓶を抱えて広場を目指し、その片隅に井戸があるのを見つけた。木の蓋を外し、井桁に手をかけて覗き込むと、闇の中にかすかに水の反映がきらめく。からからと滑車を鳴らして釣瓶を落とす。着水し、涼しげな音が聞こえた。
(井戸を使うのも、久しぶりだわ)
カーター邸に住んでいたころは井戸を使っていたが、森の小屋に移ってからはもっぱら泉で水汲みをしていた。アミュウは埃だらけの水瓶を洗い、中を清らかな水で満たすと、広場から東に向かう通りを戻って行った。「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」のオリーブの鉢植えの横の狭い階段を上がり、三〇一号室の戸を開けた。玄関で靴を脱ぐ。部屋の諸条件や共同生活のルールに無頓着な聖輝が唯一譲らなかった点が、靴を脱いで部屋に上がることだった。
聖輝はまだ眠っていた。
森の小屋から持ち込んだケトルに水を入れるところで、薪が無いことに気付いた。この部屋には台所が無く、煮炊きはすべて小さな暖炉で行わなければならない。暖炉は空っぽ、この部屋の前の住人は、水瓶は置いていってくれたが、薪を残しておいてはくれなかった。あるいは、ピッツィーニ夫妻が片付けたのかもしれない。
アミュウは聖輝の布団をちらりと見た。規則正しく上下し、起きる気配は無い。意を決して、こっそりと蓮飾りの杖を持ち出して、宙に円を描いた。
「繋がれ」
輝く円の先は、森の小屋につながっていた。アミュウは小屋に残してあった当面の薪と火打ち金、ついでに茶道具も取り出した。魔法円をかき消して聖輝の顔を見るが、やはりぐっすりと寝入っている。空間制御の術を使っているところを見られずにすんだようだ。
アミュウは暖炉に控えめに薪を組み、打ち金に石を打ちつけた。カンカンと硬質な音が鳴り響く。聖輝がむにゃむにゃ言いながら寝返った。何度目かでようやく火口の枯れ葉に着火すると、アミュウは慎重に小枝に火を移して暖炉に入れた。火がゆっくりと大きくなるのを確かめてから、アミュウはケトルを暖炉のフックにかけた。
「茶ですか」
聖輝がくぐもった低い声で言った。
「起こしちゃいましたか」
アミュウは立ち上がり、聖輝を見下ろす。聖輝は布団にくるまったまま言った。
「私にも淹れてください」
「お酒じゃなくていいんですか」
「私が酒しか飲まないと思っていませんか」
「違うんですか」
聖輝はうつ伏せになって枕に顔を埋めてしまった。アミュウは肩をすくめて訊ねる。
「夕飯は、どうしましょうか。今、この家には、食べ物が何にもありません」
聖輝は右を向いてみたり左を向いてみたり、布団の中でもぞもぞと動いているだけで、一向に起き上がろうとしない。ついにアミュウは聖輝の上掛けを剥がした。
「買い物に行かなくちゃいけないって言ってるんです。さっさと出ないと、夕方になっちゃう」
聖輝は呻きながら体を起こし、胡坐をかいて、くあ、とあくびをした。まだ眠そうに目をこすっている。
「スタインウッドの人みたい」
「世界中に午睡文化が広まればいいんだ」
聖輝は、アミュウの寝床となったベッドに片手を突いて窓の外を眺める。アミュウもつられて目を向ける。日は傾き始め、夕方まではいかばかりかという頃合いだった。聖輝は窓を開けて学校を見下ろす。
「日課が終わったようですよ。イアン君が見えます」
アミュウも窓に近付き教室を見下ろした。イアンは窓際の席で、帰り支度をしている。ジョシュアが寄ってきて、ふたりで連れ立って机を離れた。アミュウは窓を離れてケトルの様子を見た。そろそろ湯が沸きそうだ。
アミュウは、まだ窓の外をぼんやり眺めている聖輝に向かって言った。
「あの子の学生生活もあと一か月ですね」
「利口な子だと思いますよ。現実をよく見ている。父親が元気になったところで、あの畑を管理するには、人手がいるに違いないですからね」
アミュウは小さく頷いて、茶を淹れ始めた。
その時、薄い扉を叩く音が響いた。アミュウが玄関へ行こうとするのを、立ち上がった聖輝が手ぶりで制し、扉に向かって大きな声で訊ねた。
「どなたでしょうか」
「私、ナタリアよ」
聖輝は扉を開いてナタリアを迎え入れた。ナタリアはケープを外し部屋を見回して一言、
「――狭いわね」
「みんな同じことを言うのね……靴を脱いでね」
アミュウは口を尖らせて、もう一人分のお茶の準備にとりかかる。聖輝がナタリアに食卓の椅子を勧め、自分も反対側の椅子に腰かけた。椅子は二脚しか無い。アミュウは敷きっぱなしになっていた聖輝の布団をたたむと、自分はベッドに腰かけた。
ナタリアは頬杖をついて茶を一口飲むと、感慨深げに言った。
「それにしても、ホントに同棲しちゃうなんてね」
「同棲って言わないでよ」
アミュウが眉をひそめる。聖輝が苦笑した。
「心配には及びませんよ」
「当たり前でしょう。アミュウに手を出したら許さないから」
ナタリアがきっと睨みつけると、聖輝は「はい、はい」と肩をすくめた。
「様子を見に来てくれたの?」
アミュウが問うと、ナタリアは鞄から紙の包みを取り出して見せた。
「もちろんそれもあるんだけどね――役場にお届け物があって。あんた宛てよ」
アミュウはベッドから立ち上がり、ナタリアからその包みを受け取った。軽いが、やたら嵩がある。ひっくり返して裏を見てみると、隅の方に差出人欄があった。
「ロナルド・シンプトン」
「牧場のご主人ですか。今さら、何でしょうかねぇ」
聖輝も覗き込んでくる。包みを破り開いてみると、ふんわりとしたフェルトが広がった。空色のショールに、濃紺のマフラー。アミュウがそれらを広げてみると、はらりとカードが床に落ちた。聖輝が拾って読み上げる。
「――先日は麦藁を届けて下さりありがとうございました。村の騒動にすっかり巻き込んでしまいましたね。心ばかりの品ですが、母の手製です。気に入って頂けたなら、お使いください」
「キンバリーさんが?」
アミュウは腕の中のフェルトをしげしげと眺めた。アミュウを見るたびに娘の名を呼んでいた老婆が、背を丸めて手芸に勤しんでいた姿が目に浮かぶ。
「そっちの紺色のが、男性物だそうですよ」
「宛先が分からなくて、わざわざ役場へ送ったのかしら」
聖輝にマフラーを渡しながらアミュウが言うと、ナタリアが頷いた。
「アミュウ宛ての郵便が役場に届くなんておかしいって、パパが不思議がってたわ。勝手に中を開けようとしてたんだけど、止めて正解だった。男物が入ってるって知ったら、パパったらどんな顔をするだろう」
「別に、わたし宛てならどうってことないでしょう……軽くて、暖かい」
アミュウは空色のショールを羽織った。ウールの布地は滑らかで肌触りが良い。ナタリアが「似合ってるよ」と言って微笑んだ。
キンバリーはどんな思いでこれを作ったのだろうか。マイラを思い浮かべていたのだろうか。男性物のマフラーを拵えながら頭に浮かんだのは誰なのだろうか。ルドルフか、ロナルドか、はたまた孫か。まさか娘婿ではあるまいに。
出し抜けに、ナタリアが邪気の無い声で言った。
「ねえ、森へまた狩りに行かない?」
ナタリアの提案はあまりに唐突だった。アミュウより先に聖輝が非難めいた口調で答える。
「どうしてまた、こんなゴタゴタしたときに。森なんて、人目も無いし隠れる場所だらけだ。危険極まりない」
「こういう時だからこそ気晴らしが必要なんじゃないの」
ナタリアは褐色の瞳を松葉のように刺々しく閃かせた。
「聖輝さんって、大人の割に分かってないね。実家を出てから、アミュウはあの森で一年頑張ってきたんだよ。お別れの機会を作ってあげてもいいじゃない」
ナタリアの言葉は、アミュウの胸にこたえた。アミュウは努めて平静を装っていたが、森の小屋へはもう戻れないという事実が、胸に重くのしかかる。
実家の勝手口が手狭になり、アミュウはより静かな、儀式に打ち込める環境を求めて森での一人暮らしを始めた。その希望を後押しし、アミュウのために丸太小屋を建ててくれたのは、セドリックだ。拾われっ子のアミュウにとっては大きすぎる恩だった。同時に、ナタリアとはそもそも前提条件からして異なることを見せつけられる機会でもあった。嫡子であるナタリアは、家を出たいなどという言葉を口にすることすら許されない――ナタリアの言葉は、それらのうちの全てではないにしても、相当な部分までを理解した上の言葉であると思わせる、気遣いに満ちた声音だった。
アミュウはナタリアの言に返せる言葉を持ち合わせず、目を伏せるだけだった。
聖輝は、そんなアミュウの胸中を理解しているとは到底思えない反応速度でナタリアに問う。
「ナタリアさん。いつかのように、アミュウさんと二人きりで行くつもりですか」
「別に聖輝さんを仲間外れにする気は無いわよ。それに、ジークにも声をかけるわ」
「ジークですか」
聖輝はナタリアからもアミュウからも目を逸らして顎に手をやり、数秒、沈思黙考の姿勢を見せてからアミュウに問うた。
「アミュウさん。森へ行きたいのですか」
「はい、帰りたいです」
聖輝は横髪をくしゃくしゃと搔き乱し、姉妹から目線を逸らしたまま伏目がちに言った。
「まぁ、ジークも同行するならいいでしょう」
こうも簡単に聖輝が折れることに、幾分当てが外れた心地でアミュウは言った。
「いいんですか」
「ただし、私はご一緒できませんよ。アミュウさんを脅迫した輩は、アミュウさんではなく私を追っているでしょうからね」
アミュウは、ぱっと顔を輝かせた。聖輝は黒いまなこを一層暗くしてアミュウに向け、釘を刺した。
「今回だけですよ。家に立ち寄るのもいけません。なるべくあの小屋から離れる道を行ってください」




