3-1.引っ越し【挿絵】
アミュウはため息をついた。部屋は、備え付けのベッドに戸棚、箪笥、それに小さなテーブルのほかには、家具を置く余地もないほど狭い。ジークフリートは背負っていた行李を玄関に下ろしてアミュウに訊ねる。
「おい、アミュウ。これで全部か」
「ええ、おしまいよ――ありがとう」
アミュウは、行李を引きずって部屋の奥、窓際のベッドサイドへ移動させる。ジークフリートは背中をうんとそらして伸びをすると、部屋の中を見回した。
「ケチはつけたくねぇけどよ――流石に狭いんじゃないのか」
「そんな気もするけど、文句も言ってられないわ」
開け放した扉の外から、聖輝の声が響く。
「ジーク。場所をあけてもらえませんか――荷物が大きいもので」
「お。悪い」
ジークフリートが玄関の隅に身体を横向きにして張りつくと、聖輝が、アミュウの背丈よりも大きな折りたたみ式の衝立を抱えて入ってきた。聖輝はそこで靴を脱ぎ、靴下で部屋の奥に進むと、窓際のベッドの手前に衝立を広げて置いた。衝立は窓からの採光を遮った。
「これでは暗いですね」
聖輝は衝立を畳み、壁際に寄せた。衝立の手前には、床に直に置かれた、畳まれた布団。聖輝はそこにどっかりと腰を下ろして言った。
「――狭いな」
ジークフリートは、「そら、見たことか」とでも言いたげにアミュウを見た。
「……しょうがないじゃない。ゆっくり探す時間も無いのに、ここより確かなところなんて見つけられないでしょう」
アミュウもベッドに腰かけ、拗ねたように窓へと顔を背けて言う。
窓の外、立ち上がったら目線の位置というあたりに、学校の屋根が、すぐ手前に迫っていた。見下ろせば、二階の教室の中までよく見える。お昼まであとわずかというこの時刻、教師が机の間をゆっくりと歩き回っていた。授業中らしい。子どもたちの腹の虫の音が聞こえてきそうなほど近い。
「お邪魔するわね、片付いたかしら」
まだ開け放している扉から、ひょっこりと顔を出したのは、スナック「カトレヤ」のママ、エミリ・マルセルだった。アミュウはベッドから立ち上がった。
「おはようございます、お疲れのところすみません」
もうじき昼時だというのにアミュウは朝の挨拶を口にした。エミリの仕事は深夜に及ぶので、今ごろは起きたばかりのはずなのだ。
エミリは薄いブラウンの髪を夜会巻きに結い上げ、しっかりと化粧を決め込んでいて、とても還暦を過ぎているとは思えないような色香を放っていた。
「ひと段落着いたら、大家さんのところへ行きましょう」
聖輝も立ち上がった。聖輝の長身は、部屋の狭隘さの中で行き場を失っているようにも見える。「ザ・バーズ・ネストB&B」の部屋よりはまだこの部屋の方が広いに違いないのに、どうしてそう窮屈そうなのか――アミュウは聖輝を見ていて、この部屋の天井の低さに思い至った。アミュウ自身が小柄なため、気にも留めていなかった。
エミリを先頭に、アミュウ、聖輝、そして何故かジークフリートまでもが部屋を後にして、三階から二階へと外階段を降りていった。エミリの店「カトレヤ」を通り過ぎて、奥の扉の前に行き着く。エミリはその扉をノックした。
「はいはい」
ややあって扉を開いたのは、エミリより年嵩に見える――しかしアミュウは、エミリとその人が同年配であることを瞬時に見抜いた――初老の女性だった。短く刈り込んだ髪は白髪の方が多く、光を受けてきらきらと輝いている。落ちくぼんだ眼窩の中央に埋め込まれた小さな丸い目も、グレイッシュヘアと同じくらいよく輝いていた。
エミリが女性に話しかける。
「クリス、連れてきたわ。御神楽聖輝さんに、アミュウ・カーターさんよ」
「あらまぁ、随分と可愛らしい」
クリスと呼ばれた女性は、アミュウを見て朗らかな声を上げた。そして聖輝へと視線をうつしながら、歓迎の言葉を口にした。
「ようこそ。大家のクリスティアナ・ピッツィーニよ。よろしくね」
聖輝は深々と腰を折った。アミュウも慌てて頭を下げる。
「急なお願いを聞いてくださり、ありがとうございます。御神楽です」
「魔術師のアミュウ・カーターです。ご無理を言って申し訳ありません」
クリスティアナは扉を広く開けて、部屋の中に入るように促した。エミリ、聖輝、アミュウの後を、ジークフリートがちゃっかりと続く。クリスティアナが小首を傾げると、聖輝が付け足すように言った。
「彼は友人のジークフリート。手伝いに来てもらっています」
台所からだろうか、にんにくの香ばしいにおいが漂ってきた。ジークフリートの腹から盛大な音が鳴り響く。ジークフリートが照れて笑うと、クリスティアナも微笑み返した。
廊下にいくつか並ぶ扉のうちの、左手奥が開いていて、そこからクリスティアナの夫がぬっと顔を出した。
「やぁ。いらっしゃい。いま手が離せなくて、悪いねぇ。お昼、食べていくよね?」
「食べて行ってね」
聖輝とアミュウが遠慮する前に、クリスティアナが念を押す。有無を言わさぬ口調だった。エミリはニコニコしながら言い開いた。
「ご主人のフェリーチェさんは、ほんの何年か前まで『アラ・ターヴォラ・フェリーチェ』の厨房に立っていらしたのよ」
「今は息子に全部任せていますがね。ひいきにしてやってください」
フェリーチェがフライパンの中身をひっかき回しながら、愛想よく言った。クリスティアナは夫にむかって「六」と人数のサインを送ると、一行を居間兼食堂に通した。
「さてと、随分急なお引越しだけど、わけは訊かない方がいいのかしらねぇ」
クリスティアナは、食卓のベンチの上座に聖輝とアミュウとジークフリートを座らせ、下座にエミリを座らせると、自分はエミリの隣に腰を下ろし、誰にともなく呟いた。食卓の上には既に書類の準備が整っていて、クリスティアナは老眼鏡をかけて、その資料をパラパラと確かめる。
「見たでしょう。あの部屋の狭さを。もともとは、エミリのような一人暮らしの方向けの部屋なのよ。二人で暮らすのは無理なんじゃないかしら」
「何しろ急いでいるので。許容範囲内です」
聖輝は淀みなく答えた。クリスティアナは心持ち首を傾げたが、それ以上部屋については追及せず、論点を変えてきた。
「お二人は婚約なさっているの?」
アミュウは思わず聖輝の顔を見た。ジークフリートも心配そうに聖輝を見ている。エミリは口元を隠した。笑いを抑えられないらしく、目元をニヤニヤと細めている。聖輝は、用意してあった答えを読み上げるようにすらすらと答えた。
「いいえ。私と彼女はそのような関係ではありません。ただ、彼女が森での一人暮らしに不安を感じているようなので、一時避難的に同居しようかと考えた次第です。幸い私は、気楽な宿暮らしの身なので」
「アミュウさんはカーター町長のお嬢さんでしょう。ご実家には戻らないの? エミリの手前、あまり強くは言えないけど……未婚の男女が二人で暮らすっていうのはまずいんじゃないのかしら」
クリスティアナはよく光る眼をアミュウに向けたが、答えたのはやはり聖輝だった。胸からロザリオをちらりと取り出して見せながら、聖輝は言った。
「男女の関係については、姦淫せぬと神に誓ったこの身を信じていただくよりほかないのですが……実は、彼女は妙な男に付け狙われていましてね」
「え?」
「え」
「ああ?」
そこまで話すのか。クリスティアナだけでなく、アミュウも驚いた。ジークフリートも目を丸くして聖輝を見ている。二人に構わずに聖輝は話を続ける。
「そいつは、アミュウさんが町長の娘だと当然知っているでしょうから、実家に戻ったところで、彼女の身の安全が保障されるわけではないんです。それどころか、ご家族に迷惑がかかる恐れがあります」
「迷惑?」
クリスティアナは身を乗り出して聖輝に訊ねる。聖輝は頷いてみせた。
「町長さんは次の選挙に出るでしょうが、あの手の輩はしつこいです。アミュウさんを追いまわす合間に、町長の周囲を詮索して、あることないこと吹聴するかもしれません」
「選挙って言ったって、どうせ対抗馬なしの無投票当選でしょう」
「それはどうかしらね」
エミリが酒焼けした掠れ声で口を挟む。
「どうやら、今回はそうでもなさそうよ」
セドリックの父親が町長を務めていたころから選挙にカーター家の対立候補は現れず、カーター・タウンは事実上の同族経営が続いていたが、ここにきてお家騒動が起ころうとしていた。アミュウは小さくため息をついた。
「あら、そうなの。じゃあ、町長さんも今度ばかりはうかうかしていられないわね。
それにしても、なるほどねぇ……ストーカーってやつね」
クリスティアナは腕を組んで、ベンチの背もたれに身体を預けた。クリスティアナは「付け狙われている」という言葉を別の意味で解釈したようだった。
(ストーカーなら、目の前にいるわよ)
アミュウは胸中で独り言ちた。
「それなら、町長さんはこの件について了解済みってことかしら」
「もちろんです」
聖輝は即答した。もちろん、アミュウはこのことをセドリックには話していない。しかし聖輝のハッタリは、事実を織り混ぜているだけに真実味があった。
クリスティアナは困ったように隣のエミリを見た。
「どうかしら。私としては、ちょっとあぶなっかしく見えるんだけど」
エミリはあっけらかんと笑って言った。
「確かに二人とも若いけど、アミュウさんはとてもしっかりとした魔術師さんだし、聖輝さんはなんといっても牧師さんの卵です。間違ったことなんて起こらないでしょうよ。すぐ隣の部屋には私もいるんだし、二人暮らしというよりは、私の家に二人を迎えるようなものだと考えてもらって構わないわ」
クリスティアナはまだ腕を組んで唸っている。
「そうは言っても……男女が一つの部屋で寝るっていうのもねぇ。そうだ、エミリ。夜だけアミュウさんにあなたの部屋で過ごしてもらうわけにはいかないの?」
エミリはクリスティアナの提案をあきれ顔でいなした。
「私は明け方まで仕事なの。生活リズムが違うのよ。それは無理だわ」
「それもそうねぇ……まぁ、確かにエミリがついているんだものね。心配する必要もないのかもね」
アミュウはほっと胸をなでおろした。聖輝は眉一つ動かさない。
「カーターさんからは戸籍の写しを頂いたけれど、ミカグラさんからはまだ頂戴していなかったわね」
「ソンブルイユに籍があるのですが、急なことで間に合いませんでした。後日でよろしければ、郵便で取り寄せてご提出しますが」
聖輝は申し訳なさそうな顔で弁明した。アミュウは聖輝のその表情が演技によるものだと分かっていたので、そのまま彼の口弁に場を任せて、黙っていることにした。
エミリが助け舟を出した。
「聖輝さんは、私がソンブルイユにいたころにお世話になった方の息子さんなの。身元が確かなのは、私が請け合います」
「ふぅん……エミリがそう言うのなら。急がなくて構わないから、後で提出してちょうだいね」
聖輝は感謝の笑みを浮かべて頷いた。アミュウはその笑顔を胡乱げに横目で見やった。クリスティアナは二人の前に二通の書類を差し出した。
「契約書よ。ここにサインを」
クリスティアナが作成した契約書なのだろう。大きな文字で、部屋の所在地や家賃、こまごまとした約束事が書かれている。末尾のサイン欄には、既にフェリーチェ・ピッツィーニの名前が書き込まれていた。その下に聖輝がサインする。アミュウも聖輝からペンを受け取り、さらさらと紙の上を滑らせた。
「はい。どうぞ」
クリスティアナは老眼鏡を外し、二通の契約書のうち片方を聖輝に渡した。賃貸契約の成立だ。アミュウはほっとして思わずため息を漏らす。ジークフリートが、アミュウに向かって机の下で親指を立てて見せた。アミュウの口元から笑みがこぼれた。
キャンデレスクエア一丁目十四番地三〇一。「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」の石造りの建物の三階、エミリ・マルセルの隣の部屋で、アミュウと聖輝の共同生活が始まる。
第一章冒頭に、物語世界の地図を掲載しました。資料としてどうぞご覧ください。




