1-6.結界のむこうへ【挿絵】
「ナターシャ!」
すぐそばにいたはずの姉の名を呼び、消えた結界に手を延ばす。途端に見えない壁に阻まれ、電流のような衝撃にはじき返された。
(結界はまだここに展開されている)
アミュウは花壇の周囲を注意深く調べた。花壇の周囲五メートルほどの範囲に、四角形を描いて、それと分からないほど細かく砕かれたパンくずが撒いてあった。四隅には赤黒い液体がこぼれた跡がある。血ではない。アミュウは近くに転がっているグラスを見て赤ワインと見当をつけた。
(勝手に人のうちの庭を汚して……!)
どうやら、空間を遮断して、中からは外の、外からは中の様子が窺えないようにようにする結界らしい。つまり、姿や声を認識できなくなっただけで、二人はまだこの中に実在している。
この結界を破るには、セーキの仕組んだ陣の力を削がなければならない。既に展開された魔術を中和するのは、単に拮抗する魔術を新たに展開するよりも難易度が高い。アミュウは早鐘のように打ち続ける心臓の音を他人事のように聞きながら、一方でどこか冴えた頭でどう対処すべきか考える。
(しなければならないことを、誤らずに成し遂げなければ)
魔法医として培ってきた度胸が自分の判断力を守ってくれるよう祈りながら、アミュウは店から持ち出した愛用の蓮飾りの杖で、空中に円を描いた。
「つながれ!」
空間制御の魔術によってつながった先は普段通りの森のアミュウの自宅だった。腕を差し入れて水晶のさざれ石の瓶を取り出した。
庭に連なったパンくずの上をなぞるように、水晶のさざれ石を撒いていく。花壇をぐるりと一周まわって、アミュウは蓮飾りの杖を石突でトンと地面を突いて声を張り上げた。
「冷たい奔流に押し流され、神の御業はたちまち消えうせた!」
アミュウは目に力を込めて結界の壁があるはずの場所を見たが、その重厚な気配はびくともしない。これだけでは足りない。
「つながれ!」
アミュウは再び空間制御の魔術を開き、今度は中から大きな水晶の結晶を四つ取り出して、結界の四隅、ワインをこぼした跡に上に置いてみた。六角形の柱状となった先端から強い浄化の力が放出され、結界を中和する力がぐんと強まる。アミュウは再び言霊を紡ぐ。
「清澄なる氷晶に閉じ込められ、神の御業はたちまち消えうせた!」
雑草のまばらに生えた地面に描かれた水晶の四角形から、微かな光が音もなく立ち上り、結界の壁が再び視認できるようになった。その向こうにおぼろげな二つの影が揺らいでいる。雑音だらけで言葉までは聞き取れないが、音声も聞こえる。
(効果が出てる! だけど、まだ足りない……)
「つながれ!」
空間制御の魔術を開き、月光水の桶を両手で抱えて取り出す。昨日徹夜で作り置きしておいたものだ。
「かき消せ、取り除け、浄化せよ……!」
言霊を発するたびに桶の水を結界の壁にかけて回るが、文字通り焼け石に水といった様相だった。アミュウの額を汗が流れた。息も上がってきている。言霊を紡ぐ魔力は枯れ、頭の回転も鈍ってきた。
それでも浄化水を投げかけるうちに、薄紙をはぐように、だんだんと二人の姿がはっきりと見えるようになってきた。声も、まだ何を話しているかまでは分からないものの、だんだんと明瞭になってくる。二人は言い争っていたが、突然セーキがアミュウを見た。
「ずいぶん頑張ってますね。しかし、片田舎の魔女の言霊など、わらべ歌のようなものだ」
ナタリアもこちらを見て何か言っているが、途切れ途切れにしか聞こえない。どうやらセーキが結界を制御して、自分の言葉だけを結界の外へ送っているらしい。
「ナターシャを連れ込むなら、場所を間違えてるんじゃなくて?」
アミュウは、セーキが知りもしないだろうナタリアの寝室のベランダを指して言った。
「彼女と二人きりで話がしたかっただけですよ。誰にも見られず、邪魔されず――無粋な真似はやめてください」
結界の壁が一瞬輝きを増し、光を落とすと、再び二人の姿が見えなくなっていく。
「洗い流せ!」
アミュウが腹に力を入れて言霊を放つと、結界は弱まり、少しずつ二人の姿が浮かび上がっていく。ナタリアが懸命の表情で何か訴えかけてきているが、依然言葉までは聞こえない。
「辺境の魔女にしては、なかなか粘るな」
「ナターシャを解放して」
アミュウは肩で息をする。
「いったい何をするつもりなの⁉」
「だから、大事な話がしたいだけです。心配しなくとも、彼女は私にとってとても大切な人だ。手荒な真似はしない」
セーキはもう一度結界の力を強める。今度はアミュウも抵抗できなかった。呼吸を整えながら結界の向こうの様子をうかがうが、染みのような影と雑音がにじむほかは、すっかり元通りのカーター邸の秋の花壇だった。ただ、セーキは結界を超えて術を展開できないと見え、アミュウに直接ちょっかいを出してこない。
(早くナターシャを助けなきゃ)
アミュウは次から次へと流れてくる汗を手の甲で拭って、手札を懸命に探す。結界を破るには、力を吸収し力場をゼロへと導く水晶と相場が決まっているが、まだまだ力不足だ。
セーキの言う通り、アミュウは所詮、街道の尽きる最果ての町の魔女に過ぎない。住人の相談にのって、その心身や暮らしを支えるために魔術を使うのが本分なのだ。王室専属の魔術師のように華々しい召喚魔術を扱えるわけでも、魔術傭兵のように荒々しい精霊魔術を扱えるわけでもない。その差は、王都の魔法学校に在籍していた間によく理解したつもりだった。しかし――。
(いま、ナターシャをあきらめるわけにはいかない)
アミュウは目に入って沁みる汗を、前屈みになってカクテルドレスのスカートで押さえた。
(早くしなければ。でも、決して焦ってはいけない。できることを、確実に)
アミュウは勝手口から店内に戻り、戸棚からハーブの瓶を取り出して陶器の皿に中身をあけた。お玉一杯ほどの葉の山は、すっきりとした、食欲を誘う芳香を放つ。強力な浄化の力を持つとされるホワイトセージだ。アミュウはランプの灯でセージの山に火をつけた。煙が立ち上ったところで、手で仰いで炎を消す。けぶる熱だけが陶器の皿に残った。スマッジと呼ばれる、いぶした煙で場を浄化する手法だ。煙の芳香を鼻腔に含むと、アミュウはスタミナ切れで挫けそうな気持がすっと落ち着いていくのを感じた。
アミュウは煙る陶器の皿を手に、結界のもとへと戻った。地面に皿を置き、蓮飾りの杖を携える。空間制御の魔術は、次が最後になるだろう。
「……つながれ!」
アミュウは森の自宅の戸棚を強くイメージした。空中に白く輝く円に、右腕を差し入れる。魔法円から取り出したのは、あの錆びた古い小柄だ。
(しょうもない男なら、さっさと縁を切らせるつもりだったけど、まさかこんなに危ない人だったなんて)
アミュウは蓮飾りの杖の石突で、地面に結界を囲む円を描いた。布袋から小柄を抜いて、呼吸を整える。アミュウの全身をめぐる魔力はもう残りわずかだったが、スマッジの香りを胸に吸い込んで目を閉じると、少なくなった魔力の流れが安定し、力強く増幅していくのが感じられた。
(大丈夫、かならずナターシャを取り戻す)
アミュウは小柄を握った右手で十字を切る。まずは額。自らの魂に向かって呼びかける。
「汝ら」
次はみずおち。
「王国」
右肩。
「そして力」
最後に左肩。
「そして栄光」
小柄を握ったまま両手を胸の前で組む。
「永遠にかくあれかし」
アミュウは増幅した魔力がさらに拡大し、上昇していく様を強く念じた。そして四方に向かって、小柄で空中に星の形を描く。その軌跡はどんどん輝きを増し、魔法陣の内側がアミュウの魔力で満たされていく。
「光よ、ここに来たれ」
アミュウは結界に向かって真っすぐに立ち、両腕を水平に挙げた。ちょうど体が十字の形に見える。
「わが四方に五芒星は燃えて、柱の上に六芒星は輝けり!」
魔法陣の円環に魔力が循環し、膨大な光の奔流がアミュウの足元から頭上に立ち上る。その輝きを小柄にうつし、アミュウは結界そのものを斬りつける。
「因縁を断ち切れ!」
結界の壁が透明なガラスのような物体として現出し、実体となり、そして千々に砕けた。魔力の光が無数の壁の破片に反射し散乱する。光の乱舞の中、驚いて振り向くセーキの顔が見え、それからアミュウの名を呼ぶナタリアの姿が見えて――。
アミュウの視界は真っ白になり、そこで閉ざされた。