2-32.柵【挿絵】
グレゴリーの小屋の玄関扉をノックする音があった。
「誰だ」
「私です。フェルナンです」
「入れ」
フェルナンは頭を傾けて小さな扉をくぐり、家の中に身体を滑りこませると、内側から鍵を閉めた。アミュウは意識を手放さないよう、重い頭を精一杯の力で持ち上げる。
(眠っては、いけない)
フェルナンは床に転がった蓮飾りの杖を足で蹴って部屋の隅に押しやると、倒れたアミュウを見下ろす。
「エヴァンズ先生。この娘が、ザッカリーニの言っていた?」
「うむ、あちらさんもそろそろ手を出す頃合いだろう。またとない機会だ。みすみす逃すものか」
「どうしましょうか」
「あとは枢機卿のご判断だよ」
「ラ・ブリーズ・ドランジェへ?」
「いや、王都においでだろう。荷運び屋の手配を」
「わかりました――午睡の時間が終わり次第、すぐに」
フェルナンは力を失ったアミュウの腕と足を縛り上げ、猿轡を噛ませると、つい先ほどまでアミュウが腰かけていた竹の行李にその身体を押し込んだ。
家を出て行こうとするフェルナンを追うように、グレゴリーは訊ねる。
「傭兵はどうした」
「執務室で眠っています。あの者にはなんと?」
「娘はラ・ブリーズ・ドランジェの医者へ運んだとでも言っておけ」
「は」
フェルナンは今度こそ部屋を出て行った。
(ラ・ブリーズ・ドランジェ……いえ、王都へ連れて行かれる?)
アミュウは今にも落ちそうな目蓋を持ち上げるのに必死だった。意識を失ったら、次に目覚めたときにどこにいるか分かったものではない。
グレゴリーは容赦なく行李の蓋を閉めた。視界が暗転する。アミュウは眠ってしまわないよう、目を見開く。すると闇に目が慣れ、竹組みの隙間から、ほんの少し外の灯りが漏れているのが分かった。外の様子を窺おうとするも、既にアミュウの目は焦点を結ばない。痺れで全身の感覚が失われていく。
(駄目だ……)
暗闇に意識が落ちていこうとしたその時、突如として、薄い木の壁の向こう、表から喊声が聞こえてきた。
「……っらアァ―――――――――――――‼」
次いでドサリと何かが倒れる音、苦しげな咳き込み。
「あの部屋には結界が張ってあったはず――どうやって出てきた⁉」
普段の柔らかい物腰からはかけ離れているが、これはフェルナンの声だろう。
「はッ……次からは、もっと頑丈な扉にするんだな‼」
相対する声は、間違いなくジークフリートのものだった。
「毒が効いていないのか」
「あんたの机に盛大にゲロをぶち撒けてやったぜ――そこをどけ」
グレゴリーの舌打ちが聞こえ、行李の傍らから老人の気配が離れていくのを感じた。炊事場のほうから、キュポンという間の抜けた音が聞こえてくる。聖輝とともに行動するようになってから、聞き慣れた音――ワインのコルクを抜く音だ。
グレゴリーの足音が遠ざかり、玄関扉が軋む音が聞こえた。彼も表に出たらしい。グレゴリーが諭すように言う。
「今は午睡の時間だ――大きな声を出すのは迷惑ですよ」
「アミュウは、どうした」
ジークフリートの息は荒く、やや呂律が回っていない。吐いたと言ったが、まだ毒が体内に残っているのだろう。
「そこをどけ!」
「素直に眠っていたならば、そのまま帰らせてやったものを――フェルナン、これを」
「は」
そして、閃光。窓から差し込む光線が、行李の隙間をすり抜けて、アミュウのもとまで届いた。再び、ドサリと何かが倒れる音――今度はジークフリートが、倒れたか――ののち、しばらくは声も音も途絶えた。やや続いた沈黙を破って、グレゴリーの声が聞こえてきた。
「午睡時とはいえ、往来では目立つ。教会へ運んでから殺せ、フェルナン。ついでに心臓を捧げれば、“柵”もいくらかもつだろう」
「わかりました」
重たいものを引きずる音が遠ざかっていく。その音が聞こえなくなってから、シャッシャッと箒で通りを掃き清める音が聞こえた。そして、玄関扉が軋みながら開かれた。グレゴリーが屋内に入ってくる、その時。
「精が出ますね、エヴァンズ先生」
聖輝の声だった。
「何を掃除していたんですか」
アミュウは猿轡の奥から、言葉にならない精一杯の声を上げる。
「アミュウ‼」
ナタリアの声が聞こえた。ナタリアの軽い足音が、扉とグレゴリーの間をすり抜け、行李のすぐ近くまでやってくる。恐る恐るといった調子で、行李の蓋が開けられた。途端に眩しさでアミュウの目は眩むが、そのまま目をつむっていたら、今にも意識が途切れそうになる。
ナタリアは眦を上げた。
「ひどい……ケガは?」
ナタリアは背負った矢筒から矢を一本抜きとると、その鏃でアミュウの手足を縛る綱を切った。ナタリアに助けられ、アミュウは上体を起こすが、支え無しには座っていられなかった。
「大丈夫――それより、ジークが」
ナタリアの顔がさっと曇る。アミュウは痺れの残る舌をもどかしく感じながら、ジークの危険をナタリアに知らせる。
「教会……早く行かなきゃ、殺される」
ナタリアはアミュウの背中から手を離すと、聖輝が止める間もなく、一目散に部屋を飛び出して行った。支えを失ったアミュウが、体重を行李の縁に預けた拍子に、アミュウは行李ごとひっくり返った。
「お嬢さんを取り戻しにいらしたか。ミカグラさん」
グレゴリーは、聖輝が部屋に上がり、アミュウを助け起こすのを、遮りもせずにただ見ていた。聖輝は静かに言った。
「私はね、これでも怒っているんですよ。アミュウさん、なぜ一人でここへ来たんですか」
「ジークもいたわ」
「私と来るべきだったと言っているんです」
聖輝はぴしゃりと言い放ち、グレゴリーに向き直って言った。
「違反供物のことは見逃そうと思っていましたがね。ここまでされたら、黙っていられませんよ。何を企んでいたのです」
「企むとは、人聞きの悪い」
「聖輝さん」
ぐらつく頭を聖輝の腕に預け、アミュウは言った。
「この人の息子さんと、マイラさんとのあいだに、関係があったって……キンバリーさんが」
「あなたは、この期に及んでまだそんなことを調べていたのですか」
聖輝は呆れた声を上げると、グレゴリーに詰問する。
「彼女に過去を掘り返されるのを恐れて、害をなしたのではないでしょうね」
グレゴリーは、先刻とまったく同じように鼻で笑った。
「まさか。今となっては証拠も残っておりますまい」
「……呪いを仕組んだのは、息子か⁉」
グレゴリーは聖輝の言を一笑に付した。
「いやいや。ジャレッドには、あれの旦那に具体的な恨みはございません。憎しみなき呪いには、何の効果も無い」
「……まさか。ジョンストンさんを恨んでいたのって」
アミュウがうめき声を上げると、グレゴリーは目を細めた。
「お嬢さんはやけに察しがよろしい。そう。マイラ自身がやったのでしょうよ。もっとも、私だって現場を見たわけではありませんがね」
「修道を始めたばかりで禁忌の呪いなど扱える筈がない。どうせ焚きつけたのは息子でしょう」
聖輝が険のある目つきでグレゴリーをにらむ。グレゴリーは首を横に振った。
「確かに、マイラは旦那を憎んでおりました。それは事実でございます。だが、そこから先は全て外野の推測に過ぎぬ。せがれはその憎しみを形にする方法を心得ていたかもしれませんが、それを含めて憶測なのです」
「あの家には、子どもがいたのよ」
アミュウが悲痛な声を上げるも、グレゴリーは冷酷な表情を崩さなかった。
「そんなことは、私もせがれもあずかり知るところではありません――これ以上は、故人のことを悪く言うだけですぞ」
そしてグレゴリーは顔から一切の表情を消し去り、言った。
「あれは、そうしなければ生きていけなかったのです」
「それを成し遂げても、結局自死を選んだではありませんか」
「――これ以上は、あれの名誉のためにも言えません」
アミュウは口を真一文字に引き締めた。これ以上、何を言っても老人には伝わらない。聖輝がいっそうの険を帯びた目でグレゴリーを貫く。
「確かに八年も前の出来事を蒸し返して証拠をつかむのは、難しいでしょう。しかし、違反供物の件はどう言い逃れするつもりです? 家畜の心臓を使って、何をしていたのですか」
グレゴリーは、開け放したままの玄関扉の向こう、屋外へ目線を逸らした。
「――“柵”ですよ」
聖輝の眉がぴくりと動く。
「柵?」
「左様。この村は、人手の割に家畜が多い。守らねばならん面積が広すぎるのです。柵の設営にかける人足も無い」
「……村全体を囲む結界を張っているのか」
グレゴリーは肯定も否定もせず、扉の外を眺めている。
「ミカグラさん。数日前、あなた方がこの村に来たときは、ちょうど供物が途絶え、“柵”が失われていたところでした。シンプトンの羊が何頭か食われたようですが、皮肉なことに、その犠牲によって“柵”は復活したのです。
あなたがお父上へ告発すれば、この村はたちどころにけものの餌食となりましょう。それはこの村の人間の望むところではございません。いずれにせよ」
グレゴリーは咳払いをひとつ、交えて言った。
「既にご友人は、贄となっているでしょうがね」




