2-23.ロマンス【挿絵】
「おおぉーーーい、イアンくぅーん!」
その呼び声に、イアンは肩を強張らせたように見えた。車を押しながら近づいてくるのは、四十絡みの、イアンとよく似た、赤みの差した瞳が目立つ男性だった。その目を細めイアンを見て、男は言う。
「久しぶり、大きくなったなぁ」
そのままイアンの頭でも撫でそうな勢いだったが、イアンは農道には上がらず、男から距離をとっていた。
「伯父さん。何しに来たんですか」
イアンは険のある目で男を見据える。
「いや、今年のグラッパの搾りかすがようやくまとまったから、届けに来たんだよ……また肥料に使うだろう? ジョンストンのやつに連絡したんだが、一向に返事が来なくてなぁ。不躾かとも思ったが、直接来ちまったんだよ」
「帰ってください」
イアンは肩を震わせ、農道よりほんの少し低くなっている畑から男を見上げて声を振り絞る。山荒が外敵に向けて総毛だっているような声だった。
「帰ってください‼」
男は怯み、ジークフリートの顔と聖輝の顔を交互に見たが、もちろん、二人ともイアンの激昂をぽかんと見守るのみだった。
「わ、悪かったな、急に押しかけて……じゃ、カスだけ置いていくから、適当に役立ててくれよな」
そう言って男は手押し車を傾けると、畑の片隅に葡萄カスを積み上げて、早々に退散していった。男が言ってしまうと、イアンはその葡萄カスの山を思い切り蹴り上げた。
「くそったれ!」
アミュウがイアンの傍に駆け寄る。
「どうしたの、イアン君……今の人は」
「伯父だよ、本家の」
イアンはもう一度、葡萄カスを蹴散らした。アミュウの足元に、黒く変色した葡萄の皮がいくつか落ちてきた。
「この間のだって、きっとあいつらがやったんだ。このカスだって、何が仕込んであるか分からない。ゴミばっかり寄越しやがって!」
アミュウは思わず振り返って聖輝を見た。聖輝はアミュウに耳打ちする。
「ジョンストンさんから話を聞く必要がありますね」
アミュウの返事を待たずに聖輝は葡萄カスの山に近付き、しげしげと眺めて言う。
「特に変わったオーラは感じませんがねぇ」
イアンは仏頂面でそっぽを向き、聖輝の呟きに応じない。
暮れなずむ中、町の方から農道を下ってくる人影があった。ナタリアだった。
「お疲れ様ぁーッ! ……って、どうしたの?」
ナタリアは四人の顔と葡萄カスの山を順番に眺め、あっけらかんと訊ねた。
「……なんかあったの?」
イアンを家に送り届けた後、アミュウ、聖輝、ナタリア、ジークフリートの四人は、キャンデレ・スクエアまで戻り、一緒に夕食をとることになった。まだ早い時刻だったが、「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」は満席だった。一行は二階に上がり、エミリ・マルセルの店「酒処 カトレヤ」の扉を開いた。
「あら、いらっしゃい。お揃いで」
まだ誰も客の入らない店内で、エミリはあちこちの蝋燭を灯して回っていた。カウンターにはずらりと手料理が並んでいる。
聖輝がソファ席の奥を陣取る。次に、ジークフリートが聖輝の向かいのソファの奥に腰かけた。アミュウは迷いながら、聖輝の隣に座った。最後にナタリアがアミュウの正面、ジークフリートの隣に収まる。エミリが、自慢のカリグラフィで彩ったメニューをテーブルの中央に差し出す。
「今年のグラッパが入りましたよ」
「やあ、それは楽しみです。ロックで」
「ブランデーもありますよ」
「いや、グラッパでお願いします」
「あ、私もグラッパが飲みたい! コーヒー割りで」と、ナタリアが便乗する。
聖輝はろくにメニューも見ず、カウンターの上の料理を指さしながら注文する。
(エミリさんのお店に、よく来てるんだわ……宿暮らしだものね)
アミュウは慣れた様子で注文していく聖輝を観察した。小旅行の帰りで疲れているだろうに、聖輝はそんな様子を微塵も見せない。さすがに旅慣れているらしい。アミュウはといえばくたくたで、本当は、先に一人で小屋へ戻って休みたいくらいだった。
「グラッパって何?」
ジークフリートが聖輝に訊ねる。質問に答えたのはナタリアだった。
「ワインの搾りかすを蒸留したお酒よ。二番煎じね。ブランデーの廉価版というか」
「ご当地ってやつか。俺も呑んでみようかな」
「……私は」
アミュウが言いかけた先を、エミリが継ぐ。
「メイさんのお茶がありますよ」
エミリは飲み物をテーブルに置くと、作り置きの料理を小皿とともにどんどん持ってきた。
「はい。ブルスケッタに、ソンブルイユ風ラタトゥイユ。それに豚のワイン煮」
「わぁ! おいしそう‼ いただきまぁす」
歓声を上げ、大皿の料理を取り分けたのはナタリアだった。野菜のトマト煮込みを受け取って、ジークフリートが訊ねる。
「ところでさ、イアンのやつ、なんであんなにカリカリしてたんだ?」
「あの子のうちはねぇ、複雑なのよ。ママがいなくて、父親と二人暮らしなの」
ナタリアがサーバースプーンで大鉢の中身を捌きながら説明する。
「ジークがここに来るちょっと前にね、あの子のうちの庭から、呪われたナイフが見つかったの。そのせいで父親が長いあいだ寝込んじゃってさ、それであの子、ひとりで畑を耕さなくちゃならなくなったってわけ」
「なんだその呪いってのは」
アミュウがナタリアの後を引き継ぐ。
「あの子は、親戚の仕業じゃないかって思っているわ。それであの伯父さんとやらが来たとき、あんなに怒っていたのよ」
「親戚は親戚でも、母方かもしれませんよ」
聖輝がグラッパをあおって言う。
「ちょっと聖輝さん! そこまで話していいんですか」
「どうせナタリアさんには隠せないでしょう――なんでしたっけ。“秘密主義はよくない”とか、“必要なことは言わなくちゃ”とか」
ナタリアは聖輝に向かい、サーバースプーンを翻して親指を立てた。
「そう、その通り! よく覚えててくれたじゃない――で、母方ってどういうこと?」
「あの伯父とやらは、父方でしょう。私には、善意で肥料を提供していたように見えましたよ。あの葡萄カスからは、変わったオーラは感じなかった」
アミュウが頷く。
「確かに、毎年お決まりで融通してるっていうふうな口ぶりでしたね」
「母方って――あの子の口から母親のハの字も聞いたことがないわよ」
「お母さんが亡くなったのは、八年前――イアン君が三歳のとき。記憶に無くて当然よ」
「どうして母方の親戚なんかがしゃしゃり出てくるの?」
アミュウはどこまでナタリアに話していいか分からず、聖輝を見た。聖輝はグラスの氷を鳴らした。
「自殺だったんですよ。何か事情があったようで、その母親は夫と子どもを捨ててカーター・タウンからスタインウッドへ出戻った。その後でわざわざカーター・タウンへ戻って来て、あの家で首をくくった。母親の実家からしたら、娘を殺されたようなものですよ。恨みがあって当然です」
「げっ……そんなえぐいの?」
ナタリアは仰け反った。
(本当にそうかしら……)
アミュウは頭のどこかに引っかかりを覚えながら、その尾を掴めないまま、ラタトゥイユの匙を口に運んだ。ジークフリートはソファに凭れてブルスケッタを口に放り込む。
「確かに複雑だなぁ……あいつ、あの年で苦労してんのな」
「今の話を、イアン君本人がどこまで知っているか分かりません。余計な言葉は慎んでくださいよ」
聖輝はナタリアと――主にジークフリートに対して念を押す。
ナタリアは、少し間を空けて思い出したように言った。
「ジークだって相当苦労してるじゃない」
ジークフリートは両腕を頭の後ろで組んだ。
「いや、あれが起きたとき、俺はもうちょっと大人だったよ」
「? あれとは?」
聖輝が心持ち首を傾げる。ジークフリートは束の間虚空を見つめてから、淡々として口調で説明した。
「俺の故郷は、三年前、俺が十六のときに土石流で壊滅した」
ナタリアが口をあんぐりと開けてジークフリートを見た。
「……やだ、ジークってば、私と同い年?」
「お、そうなのか。よろしく」
ジークフリートはニカっと笑ってナタリアに握手を求めた。差し出された手を、ナタリアは手の甲で払いのけた。
「嫌よ、年上だと思ってた。同い年だなんて、なんだかショック」
「おう。伊達に苦労してねぇぜ。こういうの、いぶし銀の魅力っていうんだっけ?」
聖輝は顎をいじっていた手を離し、正面のジークフリートに問いかける。
「三年前の土石流。ヴェレヌタイラ?」
「よく知ってんな。あんなド田舎」
ジークフリートは意外そうな表情を浮かべた。聖輝はエミリに同じ酒を注文してから言った。
「私は、あなたと同じくらいの年ごろからあちこち旅していてね――ヴェレヌタイラにも行ったことがありますよ。ビールが旨かった」
「へぇ。いつ頃の話?」
「五年ほど前です」
「そうか」
ジークフリートはカラカラと笑った。
「あれだな――故郷を覚えてくれている人がいるってのは、なんだか嬉しいや。まぁ確かに、ナタリアの言う通り、人の心配してる場合じゃねェな。いつまでも町長さんの家に厄介になるわけにはいかねえ」
「でも、文字通り身一つじゃない。お金もないでしょ」
ナタリアが口を差し挟むと、ジークフリートは手を振った。
「いやいや、ちょっとなら銀行に預けてるさ。まずは仕事だな――」
ジークフリートは、空になったグラスをエミリに渡す。
「同じのでいいかしら?」
「ああ」
そしてグラスを傾けて、宙を見た。
「――俺さ、物書きになろうかな」
「はァ?」
ナタリアは眉根を思い切り寄せた。その頬は既に紅潮していた。
「似合わない」
「同感です」
聖輝も笑顔で同意する。ジークフリートはがっくりとうなだれた。
「おいおい。牧師の兄さんまで……」
「まだ見習いです。聖輝と呼んでください」
アミュウも笑いながら言った。
「物書きなら、寧ろ聖輝さんの方が似合いそうね」
「あっ、アミュウまで――ひでぇなあ、みんなして」
ジークフリートは組んだ脚に肘をついた。
「なんつーかさ。ずっと昔から温めてる物語があってよ。それを書いてみたら、売れるんじゃねーかなって」
「何それ、どんな話?」
多少はジークフリートを哀れに思ったのか、ナタリアが怪訝な表情をひっこめて訊ねた。
「革命物語のウラ話」
ジークフリートはにやりと笑い、喉を鳴らして酒を飲んだ。
「悲劇の王女に思いを寄せる騎士がいてさ、王女とは相思相愛の仲なんだけど、身分差でどうしても結ばれないんだよ。そのうち革命が起きて、ソンブルイユ軍が城に押し寄せてくると、騎士は王女の盾となって死ぬ。王女は悲しみのあまり、湖に身を投げる。どうだ。なかなかのロマンスだろ」




