2-20.背中【挿絵】
目が覚めると、見知らぬ天井が視界を覆っていた。明るいほうを見やると、これまた見知らぬカーテンが窓を覆っている。朝だ。フェルトの毛布が重くアミュウの身体を押さえつけている。むくりと上半身を起こすと、やたら広いベッドの真ん中に、アミュウは座っていた。シンプトン夫妻の寝室だった。
ベッドの傍らには、モカシンシューズがきちんと揃えて置いてあった。足を入れながらアミュウは昨晩のことを思い出すが、途中から記憶があやふやになっていた。あのまま土間で寝入ってしまったのだろうか。とすれば、アミュウはこの寝室まで誰かの手によって運ばれたことになる。誰かとは、聖輝以外にいない。
(靴を、脱がされた)
カーテンを開く。硝子窓の向こうには広い牧場が広がり、地面すれすれをハクセキレイが上下に揺れながら飛び過ぎていく。
チチン、チチン、チチン……。
その囀りに誘われたかのように、鐘の音が鳴り響いた。「一の鐘」とやらだろう。アミュウは昨晩の会話を反芻した。暗がりの中、聖輝と話したことがまるで夢のようだった。
アミュウは帆布の鞄から小ぶりのタオルを取り出すと、夫妻の寝室を出た。廊下はひっそりと静まり返っているが、よく耳を澄ますと、衣擦れの音や足を引きずる音が聞こえる。
廊下から台所に入り、桶と水瓶の水を借りて、顔を洗う。十月も半ば、だんだんと水が冷たく感じられるようになってきていた。持参したタオルで顔を拭き、手櫛で髪を整える。
かまどの鍋には既に野菜のスープが拵えてあり、大きなケトルで湯を沸かしている最中だった。フィオナはずっと前から起きて働いていたらしい。
アミュウは土間へと続く扉を数秒見つめてから、意を決してノックした。聖輝の返事を待って、アミュウは扉を開けた。
「やあ。よく眠っていたようですね」
聖輝は藁束のベッドに敷いていた毛布から、藁くずを取り除いているところだった。アミュウは土間に入り、後ろ手にドアを閉めると、聖輝から見て対辺に当たる部分の毛布を拾い上げて、藁くずを取っていった。
作業しながら、アミュウはぽつりとつぶやいた。
「……ありがとうございました」
聖輝は顔を上げて意外そうな表情を見せたが、すぐににやりと笑った。
「やっぱりあなたは酒を飲まないほうがいい」
アミュウはたっぷり間をあけて、こくりと頷いた。
それから間もなく二人は台所に呼ばれ、シンプトン一家とともに朝食をとった。マトンレバーのリエットをたっぷりと塗った堅焼きパンに、野菜のスープ。キンバリー――ケヴィンたちの祖母のパンは、スープに浸して柔らかくしてあった。
「食事までご馳走になって。大変お世話になりました」
聖輝がロナルドとフィオナに頭を下げる。ロナルドは「いやいや」と首を横に振る。
「助けていただいたのはこちらです。あなた方は、今日この村を発たれるので?」
「野暮用が済んだら、ここを離れるつもりです」
「へぇ。どちらへ」
ケヴィンが口をはさむ。
「カーター・タウンですよね、セーキさん」
その途端、ロナルドとルドルフの顔がほんの僅か、苦々し気に歪み、親子は互いにちらと目線を合わせた。その反応にアミュウは違和感を抱いたが、ロナルドはすぐに顔のこわばりをほどいて、もとの気の良さそうな笑顔を浮かべた。
「もし今晩も宿が必要だったら、遠慮なくこの家に来てくださいよ」
「助かります。宿屋では繁農期で部屋が空かないと言われたので」
フィオナは首を傾げた。
「繁農期? 確かにここスタインウッドには畑をやっている人も多いけど、てんてこ舞いっていうほどでは……」
聖輝は苦笑した。
「こりゃ、宿屋のおかみさんに一杯喰わされたかな」
「あの宿は、村人の紹介客ばかり泊めるんですよ。いわゆる、一見さんお断りってやつですな」
ロナルドも苦笑する。聖輝は膝を打った。
「そうか、前に宿泊したことがあると言えば良かったのか」
アミュウは食後の茶を啜りながら呆れた。
(なんて閉鎖的な村なのかしら……)
それから二人は、ニコラス――ケヴィンの弟とともに、土間の藁束を片付けた。アミュウがほうきで掃いた藁くずを、ニコラスがちりとりで受け止める。
「ニコラス君は確か十一だったわね」
「うん、そうだよ」
(イアン君と同い年か……)
アミュウは、イアンが退学するかしまいか悩んでいたことを思い出し、ニコラスに訊いてみた。
「学校は、楽しい?」
「学校? そんなの無いよ」
ニコラスはあっけらかんと言った。
「でもぼく、字は読めるよ。雨の日とか、冬とか、牧場の仕事が少ないときには、教会で講座が開かれるんだ。そこでフェルナン先生に教えてもらった」
アミュウは愕然とした。カーター・タウンでも、王都でも、子どもは当たり前のように学校へ通っていたが、そもそもここスタインウッドのような小規模な村では、学校の運営などできるはずがないと思いいたる。アミュウは己の狭い常識を疑わなかった自分を恥じた。
「ケヴィン兄ちゃんは十六だから、もうひとりで羊の世話ができるんだ。ぼくも早く兄ちゃんみたいに、勝手に放牧に行ってみたいよ」
ニコラスは屑入れにごみを集めて、無邪気に言った。
「ニコラス君。藁束はどこへ持っていけばいいかな?」
聖輝は藁束を積んだ手押し車のそばで、シャツについた藁くずを払いながらニコラスに訊く。
「外の倉庫! 一緒にいこう、セーキさん」
アミュウはほうきを手にしたまま、土間に取り残された。イアンのことを思い出すと、芋づる式にカーター・タウンのあれこれが思い出された。ナタリアはジークフリートの面倒を見ているのだろうか。店のポストに、手紙は溜まっていないだろうか。
シンプトン夫妻の見送りを受けて外に出てみると、空は高く雲一つなく、秋らしい青空だった。道端には野菊が揺れ、シジミ蝶が羽ばたくたびにチロチロと、翅の表の青紫と裏の灰白が点滅していた。シンプトン牧場の向かい、道を挟んだ反対側も牧場になっていた。こちらは牛を飼っているらしく、牧舎から暢気な鳴き声が聞こえてくる。牧舎の間を男女が忙しなく行き来している。
アミュウと聖輝は、二つの牧場の間の道を広場に向かって上っていった。
「待ってください!」
後ろから呼び止める声に振り向くと、ケヴィンが蓋つきバケツをガラガラと鳴らしながら追いかけてくるところだった。アミュウは思わずそのバケツの中身を想像してしまった。
「広場へ行くんですか?」
ケヴィンは駆け足で二人に追い付き、訊ねる。聖輝は頷く。
「ええ、そうですが」
「一緒に行きましょう。僕、教会へ用があって」
アミュウと聖輝が並んで歩く後ろを、ケヴィンがついてくる。
「セーキさん。気になってたんですけど、ひとつ聞いてもいいですか」
「はい、なんでしょう」
「アミュウさんとは、どんなご関係なんですか」
アミュウがずっこけた。聖輝がくつくつと笑う。
「勘繰られるような関係ではないと、君のお母さんに何度も説明したのですが」
「だって、昨日オオカミをやっつけたときは阿吽の呼吸って感じでしたよ。それに、その……アミュウさんはこんなに、綺麗なのに」
アミュウは情けない顔で聖輝を見た。聖輝は腹からこみ上げる笑いを抑えるのに必死という様子で、震える声で説明した。
「いや、確かにアミュウさんは可愛らしいですがね。彼女は、私の求婚相手の妹なんです。そういう縁で、こうして今一緒にいるんですよ」
アミュウは砂袋で殴られたかのような衝撃を受けた。昨晩、自ら再確認した事項をいま、今度は姉との関係性において、聖輝の言によって喉元に突きつけられている。アミュウは唾を飲み込もうとして、うまくできなかった。とっくに分かっていた筈のことだが、聖輝の口から聞くのは、鋭利な刃を突きつけられるも同然だった。
「そうなんですか」
「たまたま彼女と一緒に仕事をすることがあって、この村に来たんです」
「アミュウさんのお姉さんなら、美人なんだろうなぁ」
「ええ、美人です。ふられちゃいましたがね」
「セーキさんでもふられるんですか⁉」
「そういうこともありますよ。まぁ、こちらは諦めていませんが」
聖輝とケヴィンの会話が、アミュウの左の耳から右の耳へ飛び過ぎて行くさなかで、ぼんやりと考えた。
(だから、聖輝さんのことが苦手だったんだ)
聖輝と一緒にいれば、いずれこうして傷つくことになると、アミュウは無意識のうちに恐れていたのだった。
いつの間にか、ケヴィンは聖輝と並んでいて、アミュウは後ろから追いかける格好となっていた。アミュウには、すぐ目の前を行く背中が、とても遠く感じられた。




