2-12.ケヴィン・シンプトン【挿絵】
二頭の犬は、羊飼いの叱声に忠実に、片方は羊の群れを先導するように、片方は群れを追い立てるように走っている。
羊の群れを追い立てる側の牧羊犬とオオカミとの距離は少しずつ、だが確実に縮んでいった。
(犬がやられたら、お終いだ)
滑り込むように両者の間に着地すると、その勢いのままアミュウは杖の石突で、地面に横一文字に線を描いていった。後方で、羊飼いの喚き散らす声が聞こえるが、今はアミュウの耳に届かない。極限の集中状態で、アミュウは言霊をつむぐ。
「基礎から栄光を経て勝利へ至れ、神の家よ、太陽と星に届け!」
草地を彫り進んだ線に沿って、目には見えない結界の壁が現出する。アミュウは結界に魔力を注ぎながら後退し、蓮飾りの杖にまたがって宙に浮く。一瞬後ろを見下ろすと、パニックに陥った羊の群れを、羊飼いが大声で導いているところだった。群れの一頭の羊がたまたま右へ向けば群れ全体がそっちへ駆け出し、左へ向けばそっちへまたぞろ雪崩れていく。そのたびに犬が追い立て、吠えて、軌道修正していく。
左手、街道のほうを見ると、聖輝が革の鞄を引っ提げて、よたよたとこちらへ駆けてくるのが見えた。
(あんなにたくさん荷物を詰め込むから、まともに走れていないじゃない……!)
オオカミはすぐそこに迫っていた。アミュウは重力に沿って、真下に広がる結界に魔力を注ぐ。
火花でも飛び散るような衝撃音。
オオカミは結界の後方へと弾き飛ばされた。大イノシシのときよりもオオカミの身体は小さく、体当たりの衝撃も軽い。
(これなら保つ!)
アミュウは自信を深めたが、突進しか能の無かった先日のイノシシと異なり、オオカミには知能があった。体勢を立て直したオオカミは結界の壁沿いに鼻先をあてがい、その在り処、壁の端を探している。
結界は、空間を明確に区切る環状の形でなければ、効力を充分に発揮できない。しかし、羊たちは未だ統率が取れず、群れは混乱を極めている。あの様子では、群れを囲って結界を張ることもできない。
アミュウは第二の壁を作るべく後退し、今度は先ほどよりも長い線を、杖で地面に引いていく。その間にもオオカミは、第一の壁の端を探りあて、身をくねらせてその内側へと侵入する。今やそのけものの狙いは、羊からアミュウへと完全に移行していた。
「聖輝さん、目を閉じて!」
アミュウは、まだ草原をえっちらおっちら走っている聖輝に向かって警告を飛ばす。
オオカミがアミュウに飛び掛かろうとするその瞬間、アミュウは目を固く瞑って言霊を紡いだ。
「十九番目の太陽はあまねく壁のうち、こどもたちを照らし出せ!」
地面に描いた線から強い光があふれだし、奔流となって辺り一帯を飲み込んだ。同時に目には見えない結界の壁が現出し、オオカミをはじき返す。強烈な発光により視界を奪われたオオカミは、股の間に尾を挟み込んで、その場で二、三回ぐるぐると回った。
その隙を、聖輝は見逃さなかった。膨れ上がった革の鞄から半ば潰れたバターロールを取り出して、オオカミに投げつける。聖輝が人差し指と中指を交差させると、バターロールは轟音を立てて破裂した。オオカミの身体が吹っ飛び、数メートル後方の地面に叩きつけられる。聖輝は二手のバターロールを掴んで、慎重に、背面からオオカミに近付く。オオカミは何度か脚で宙を蹴りながら、起き上がろうともがく。聖輝は舌打ちして、用意していたバターロールをオオカミの膝元に転がし、再度爆破した。土埃と千切れた草が舞い上がる。聖輝のジャケットの裾が翻り、スラックスの擦り切れかけたポケットが見えた。アミュウは聖輝に駆け寄る。草いきれのにおいがした。
土煙が途切れると、目を開いたまま横倒しになったオオカミの身体が見えてきた。事切れているようだ。
聖輝は羊飼いに向かって手を挙げて、もう安全だと合図する。御者も、馬車を降りてこちらへ走ってきた。
「いや兄ちゃん、あんた強いなぁ!」
御者が聖輝の背中をポンと叩く。次にアミュウを見て言った。
「魔女のお嬢ちゃん。あんたも小っこい体でよくやるよ」
アミュウは達成感と気恥ずかしさの入り混じった、みずおちの奥がぎゅうっと締め付けられるような感覚を味わった。しかしアミュウはその高揚を無理やり押さえつけた。
(私の力ではない……結局聖輝さんがいなければ、私は何もできなかった)
羊飼いが駆け寄ってくる。近くで羊飼いを見てみると、アミュウとそう年齢の変わらないような少年だった。少年に続いて、牧羊犬に導かれるようにしてやってきた羊の群れがアミュウたちを取り巻く。未だ興奮と怯えの抜けきらない羊たちにどつかれながら、少年はアミュウと聖輝の顔を交互に見て言った。
「助かりました。あのままだったら、きっともっと被害が拡大してた。僕はケヴィン。スタインウッドのシンプトン牧場の、ケヴィン・シンプトンです」
「危ないところでしたね。私はカーター・タウンのアミュウ。よろず屋魔術師です。こちらは――」
アミュウが聖輝を紹介しようと手を挙げると、聖輝はその手を掴んで下ろさせた。
「――私はセーキ。流れ者です」
聖輝はそれ以上語らない。アミュウは不思議に思って口を開きかけたが、聖輝の刺すような視線を受けて、黙った。
(余計なことを言ってはいけない)
そう言われている気がした。
ケヴィンは、倒れている羊の状態を一頭一頭調べていった。既に死んでいるのが二頭、傷の深いのが一頭、浅いのが一頭。ケヴィンは御者と何やら話し込んでいる。傷の深い羊を牧場まで運んでもらいたいと頼み込んでいるのだった。
「なぁ小僧、気の毒だとは思うがね。うちは駅馬車なんだ。ここでずいぶん時間を喰っちまった、牧場まで行ってる時間はねえさ」
「でも、こいつは早く手当てしてやらないと」
「そいつの体重は何キロある。荷が増えればそのぶん馬は遅くなるんだ。この馬車は昼にはスタインウッドを発って、夕方にはラ・ブリーズ・ドランジェに着く予定だ。馬だって替えなきゃなんねえ」
アミュウは見かねて御者に訊ねた。
「ここからスタインウッドまで、歩いてどれくらいですか?」
「一時間くらいだなァ」
アミュウは聖輝に近寄り、その顔をじっと見上げた。聖輝は困ったように眉根をひそめ、ケヴィンと御者を見回し、最後にため息をついて言った。
「私たちはここで馬車を降ります。羊を乗せて飛ばしてください。そうしたら、牧場へ寄る時間くらいはとれますね」
御者はあごを掻いた。
「兄ちゃん、まぁ、構わないが……返金はできねえぜ? いいのか?」
「構いませんよ。私の気が変わらないうちに、早く行ってください」
御者とケヴィンは、傷ついた羊を抱えて馬車まで運び、荷台にその身体を乗せた。
「縄でくくっておかなくて大丈夫か」
「こいつは大人しいやつです。怪我もあるし、柵を乗り越えられやしません」
ケヴィンはポケットから硬貨を取り出して、御者に握らせた。
「村の南のシンプトン牧場です。死骸を運ばなきゃならないので、誰か来るように家の者に伝えてください」
「おう、任せときな。小僧」
馬車は、羊一頭を乗せて街道を行ってしまった。アミュウは、軽傷の羊の傷口に軟膏を塗ってやった。ケヴィンは申し訳なさそうに頭を垂れる。
「助けて頂いたのに、足まで横取りしてしまってすみません……今は何もできませんが、村に戻って落ち着いたら是非お礼をさせてください」
「そんな、いいのよ。どうせ、急いでいるわけではなかったし。ね、聖輝さん」
アミュウが笑顔を浮かべて振り返ると、聖輝はずっしりと重い革のカバンを地べたに置いて、肩を回しているところだった。
「荷物だけでも馬車に預けておきたいところでしたよ、まったく」




