2-9.師メイ・キテラ【挿絵】
翌朝、アミュウはイアンからもらった野菜のお裾分けを抱えて、カーター・タウン東部の古い住宅街へ降り立った。海へと続く通りから、うねうねと曲がる細道に入り、数軒の家を通り抜けた先に目的地があった。
山査子の葉が茂る中に、ぽつりぽつりと、赤い実が残っている。アミュウは、その実が意図的に収穫されなかったものであることを知っている。この地に住む精霊に感謝の意を示すために、全ての実を採り尽くしてしまわずに、すこし残してあるのだ。
左右に茂る低木を眺めながら、アミュウはその奥の古びた家へ一歩ずつ進む。
山査子、今は果実の季節を終えようとしているその木の花は、またの名をメイフラワーという。その家に住むまじない師は、自らをメイ・キテラと名乗っており、カーター・タウンの年配の住人にとってその名が本当の名前でないことは暗黙の了解となっていたが、元の名はすっかり忘れ去られてしまっていた。
黒ずみ、傷だらけとなっている玄関扉を叩くと、奥からカラスのような声が聞こえてきた。
「あいてるよ」
アミュウはその扉を押し開けた。ぎいぃぃ……と、ひどく軋む扉の向こうに、山査子、クヌギ、椎、ナナカマド、楢、桜、ハシバミ……様々な木の実を乾燥させ、糸で連ねた暖簾が垂れていた。サラサラと小気味の良い音を立てて暖簾をくぐると、ツンと鼻を刺す樟脳と、墨汁のようなパチュリーの香りがアミュウを包む。そのとたん、懐かしさがアミュウのみずおちを締め上げた。
煮炊き、食事、睡眠を全ておなじひとつの空間で済ませる、師の家。その中央の炉端に、メイ・キテラは座り、冬への備えか、毛糸で何かを編んでいた。一瞬手を止めてこちらを見やり、また手元の編み物に集中する。アミュウは師に近寄り、野菜の包みを差し出しながら頭を下げた。
「先生、ご無沙汰しております」
「まったくだよ、もう。年寄りのひとり暮らしを放っておいて。前に来たのはいつだい」
「先生が貝の刺身で食中毒を起こしたときなので、三か月ほど前かと」
「はっ。細かいことはよく覚えているね」
メイ・キテラは編み物を膝に置いて、アミュウを下から睨みつけ、包みを引ったくった。
「今日はなんの泣き言かい。いくら泣いたって、お前に精霊魔術は使えないよ」
「それもあるんですけど、ちょっと見て頂きたいものがあって」
アミュウは炉端の円座に腰かけ、財布の中からくたびれた紙雛を取り出した。
「これなんですが」
「寄越しな」
メイ・キテラは紙雛を受け取ると、アミュウが聖輝からそれをもらったときと同じように、指先でつまんでみたり、表から見たりひっくり返して見たり、さんざん眺めた。
「こりゃあ、珍しいね。どうしたんだい」
「知り合いからもらったものです。身代わり人形のようで、危難を受け止めたあと、こんなふうにぼろぼろになりました」
「ふうん」
メイ・キテラは折りたたまれた紙を開いた。内側には、黒っぽく色の変わった血がこびりついている。
「これは……神聖術の禁じ手じゃないか」
「禁じ手?」
メイ・キテラは目を細めてその血痕を仔細に眺める。アミュウも身を乗り出して色紙をのぞきこんだ。
「アミュウ、おまえ神聖術についてどのくらい知ってる?」
「供物によって聖霊の力を借りて奇跡を起こすんですよね」
「ああ、仕組みとしては、お前の大っ嫌いな精霊魔術とまったく同じさ。精霊魔術では、自分の魔力を餌に、四大元素の精霊の力を借りて、自然現象を意のままに操る。神聖術では、魔力ではなく供物を餌にするんだよ。さて、供物が何かは知っているかい?」
アミュウの脳裏を、イノシシを吹っ飛ばした聖輝の姿がよぎった。
「パンに……ワインですか」
「そう、それが定番」
アミュウはタルコット家の柿の木の下で見たものを思い出して、はっとした。
「動物の亡骸をつかった呪詛を見たことがあります」
メイ・キテラは舌打ちをした。
「そりゃ完全にアウトなやつだね。神聖術なんて名前だが、中身は相当にえげつないよ。犠牲を前提とした、他力本願なものなのさ」
窓の外でシジュウカラがジュクジュクと鳴いている。山査子の実を啄みに来たのだろうか。
「どうして、パンとワインなのか、わかるかい?」
「……聖霊の、体と血の象徴だから?」
「正解」
メイ・キテラは口角の片側だけを上げてニィっと笑った。
「どうしてここに血がついているか、わかるかい?」
アミュウは黙り込んだ。聖輝の紙雛には、聖霊の血の象徴たるワインではなく、本物の血が使われているのだ。アミュウの沈黙に追い打ちをかけるように、メイ・キテラは質問を重ねる。
「もうひとつ。本物の血や肉を使った神聖術が大っぴらになったら、どうなると思う?」
「……ぞっとしませんね」
「分かるだろう。だから禁じ手なんだよ。誰がこんなものを作ったのか知らないが、忌まわしいね、まったく。そんな知り合いとは関わらないのが一番だよ」
そう言ってメイ・キテラは色紙を元通りに畳みなおし、アミュウに返した。アミュウは混乱する頭で、聖輝が林檎と紙雛を差し出してきたときの、骨ばった手を思い出した。
(紙雛といって、お姫さまを模した人形のお守りです。財布にでも入れておいてください)
金運が上がるなどといって、財布に入れて常に持ち歩かせるように仕向けていたのだ。そうして、本人たちの知らないうちにアミュウとナタリアのことを守っていたのだ――その行為と、メイ・キテラの言う「忌まわしい禁じ手」という言葉が結び付かない。
考え込むアミュウを後目に、メイ・キテラは話を続けた。
「だいたい、禁じ手って言ったって、大した効力があるわけじゃないんだよ。この身代わり人形なんて、せいぜい厄除けのまじないみたいなものさ。あんたがよく使う言霊と同じで、この禁じ手だって、その効果を多少底上げするものに過ぎない。そんなもののために、人の生き血を使うなんて、どうかしてるよ。言霊なんて大昔からある化石のような迷信だと馬鹿にする連中も多いが、供物だなんだと物騒な神聖術に比べれば、ずっとずっと平和で建設的な魔術さ」
アミュウはその言葉に引っかかりを覚えた。
「厄除けのまじない?」
「そうさ。病気を防ぐとか、呪いを避けるとか、まあ、そんなところだろうね」
「その紙雛は、森で大きなけものに襲われたときに、その牙を光で弾いて、私と姉を守ってくれました」
メイ・キテラの目がぎょろりと光る。
「お前、それは結界だか障壁魔法だかの類じゃないか。こんな人形に、それだけの力は無いよ。所詮媒体は人の血だ。神聖術でわざわざワインを使うのはどうしてだと思う。それが聖霊の血の象徴だからだよ。ほかの生きものの血でできることには限りがあるんだ。犠牲の割りに、大した効能は無い。だから本物の血肉を使った神聖術は禁じ手となったんだ」
メイ・キテラはそれきり黙り込んだ。アミュウは、これ以上のことを師が語ることはないと判断し、立ち上がった。
「エミリさんをご紹介いただきありがとうございました」
「ああ。お肌がどうのこうの言ってたが、あの子の商売柄、あたしは喉の方が心配だよ。気を付けておやり」
アミュウは、エミリの酒で焼けた声を思い出した。盲点だった。
「わかりました。先生も、どうかご自愛を」
「社交辞令を吐くんなら、もっとこっちに顔を出しな」
「努力します」
アミュウは苦笑いを浮かべて、師の家を辞した。




