2-7.狼狽【挿絵】
カーター・タウンの南部辺縁にあるタルコット家までは、アミュウの小屋から歩いて三十分もかからない。風はまだ強かったが、歩くのに支障はなかった。
森を抜け、農道を歩く間、イアンは右を左を指さしては、よその畑の状況をぽつりぽつりとアミュウに説明していった。
「あっちでゴロゴロしているのが、かぼちゃと冬瓜。あれはいくらでも保存が効くから、問題ない。あそこで根こそぎ倒れているのが、ルッコラ。あれは葉がぐちゃぐちゃになっているから、出荷できないと思う。あの辺、これから収穫する人参や蕪は、小ぶりになるだろうな……」
「イアン君のところの畑はどうなの?」
「ちょうどこれから麦撒きで、運よく畑は空っぽです」
「そう……不幸中の幸いね」
畑の向こうにタルコット家が見えてきた。近付いてみると、庭の柿の木の下に人影がある。この家の主人、ジョンストン・タルコットが木を見上げているのだった。
「こんにちは、ジョンストンさん」
アミュウが声をかけると、ジョンストンはゆっくりとこちらを見た。この柿の木の根元に埋められた呪物を処理したのは、ほんの十日程前のことだった。ジョンストンの顔色は随分と明るさを取り戻してきている。こうして起き上がっていられるところを見ても、順調に回復を遂げているとみていいだろう。
「カーターさん、その節はどうもありがとうございました」
「いいえ、とんでもないです」
ジョンストンは再び木を見上げる。呪いの影響をまともに受けた柿の実は、全て切り落としてあった。彩る実もなく、まばらに葉の残るだけの木は、何とも言えず寂しく見えた。
「この木は、切り倒さなくちゃいけませんかね」
ジョンストンは木を見上げたままアミュウに訊ねた。
「木そのものが悪さをしていたわけではありませんから、そのままにしていて大丈夫だと思いますよ」
「そうですか……よかった」
アミュウは首を傾げた。あんなことがあったのに、気味が悪いとは思わないのだろうか。イアンが父親の前に進み出た。
「父さん、畑は大丈夫だったよ。ちょっとゴミが飛んできていたくらい。よその方が大変そうだった」
「ああ、様子を見てきてくれて助かった」
イアンは家に入ろうと玄関口へ行きかけて、途中で振り向いた。
「カーターさん。……ありがとう」
そして、家の中へと入っていった。ジョンストンも柿の木から離れる。アミュウはジョンストンに、野菜のお裾分けの礼を言う。
「いえ、こちらこそ。イアンが世話になってます」
ジョンストンはそう言った後、もう一度柿の木を見上げた。アミュウもつられて木を見る。
(……視線?)
柿の木の下、ちょうど先ほどジョンストンが立っていた辺りから、じっと息を詰めたような気配を感じた。しかしそれは一瞬で消えた。木の後ろを見てみたが、もちろん人影があるわけでもない。
「どうかしましたか?」
ジョンストンが首を傾げる。アミュウはかぶりを振った。
「お大事になさってくださいね」
そしてアミュウは蓮飾りの杖にまたがって飛び上がると、セントラルプラザのカーター邸に向けて速度を上げた。
カーター邸に戻ると、ナタリアが台所で麦粥の鍋をかき混ぜていた。キッチンストーブの天板では、フライパンのミートソースが温められている。
「おかえりなさい、アミュウ! ねえ、ジークがお腹空いたって言ってるんだけど、食べさせても大丈夫かな?」
(ジ、ジーク?)
アミュウはナタリアの勢いにやや気圧されて答えた。
「えっと……いま、彼、起きてるの?」
「うん、さっき目が覚めたところ。わりと元気そうに見えるよ」
居間を覗くと、ジークフリートがソファに寝そべっていたが、アミュウの顔を見ると、身体を起こして立ち上がろうとした。アミュウは手ぶりでそれを制する。
「そのまま、そのまま。まだ立ち上がらない方がいいわ」
ジークフリートはそのままソファに座った姿勢でアミュウを見た。昨晩よりもずっと意識は清明であるように見えた。ジークフリートは口を開いた。声の調子も随分と元気を取り戻しているようだった。
「ええと……アミュウさん? ナタリアから聞いたよ、ずっと看病してくれてたとか」
(よ、呼び捨て? ナターシャを?)
アミュウはここでも気を呑まれたが、どうにか持ちこたえて答えた。
「アミュウでいいわ。気分は良さそうね」
アミュウはジークフリートのすぐ手前に膝をつくと、その額と首筋に手を当てた。ジークフリートは仰け反るように身じろぎした。
「動かないで。体温は充分戻ってきているわね……胸の音を聞かせてね」
アミュウはジークフリートの胸に、セドリックの寝間着の上から耳を当てた。ジークフリートの喉がごくりと鳴る。右肺、気管支、左肺……水を飲んでいるかと心配したが、呼吸音は澄んでいた。アミュウはジークフリートから頭を離すと、次に手を取った。マントルピースの上の掛け時計を見ながら、心拍を測る。やや速いが、正常の範囲だ。
「呼吸状態は良好、脈も問題なし」
アミュウはジークフリートの手を離す。
「食欲が戻ってきたそうね。食べていいわよ」
「……食うって、何をだか」
「え? お粥ですよ」
「いや……なんでもない」
アミュウは立ち上がって、ナタリアを呼びに台所へ戻ろうと、居間の扉を開けて廊下に出た。そこでふと、自分の言動を顧みた。馴れ馴れしかっただろうか。
(ナタリアの態度がうつっちゃったかしら)
「どうだった?」
ナタリアは、麦粥を四つの椀に取り分けているところだった。台所中に広がるミートソースの香りに、アミュウの小さな当惑は吹き飛んだ。
「確かに元気そうね。あの分なら、食べても大丈夫だと思う」
ナタリアは麦粥に、フライパンのミートソースを載せていく。湯気がナタリアの顔を隠す。
「良かった」
そしてナタリアは蜜柑色のハードチーズを削って麦粥の椀に振りかけ、仕上げに黒胡椒を振った。アミュウは椀を覗いていると、二階から軽い振動を伴って足音が響いてきた。やがて台所の扉が開き、ヴィタリーが顔を出す。
「やあ、良いにおいがしたと思えば。もう昼食ですか」
ナタリアは胸を反らして答えた。
「おいしそうでしょ。ヴィタリーは、大盛ね」
ナタリアは盆に四つの椀を載せると、ヴィタリーの脇をすり抜けて居間兼食堂へ食事を運んだ。アミュウが居間の扉を開けてやる。ナタリアは朗々とした声で時を知らせた。
「ジーク! 食事よ」
ソファでごろついていたジークフリートは飛び起きた。
「助かった! 腹と背中がくっつきそうだ」




