1-3.出会い【挿絵】
ベイカーストリートはカーター・タウンの北門近くにある街路で、文字通りパン屋が軒を連ねている。カーター・タウン北部の住人の食卓の根幹をなす、賑わいのある場所だ。通りの南端から五つ目の四つ角から東に入る路地に見当をつけてアミュウは降下した。
ところが着陸寸前のところで、片手に抱えた紙袋から薬瓶がひとつ飛び出した。アミュウが見遣る間もなく、大通りから人影が飛び出して、長い腕を伸ばして薬瓶を受け止めた。
「あっ……」
アミュウは転がるように着地し、そのまま尻餅をついた。
その男は、夕日を背にしてゆっくりとアミュウに歩み寄る。
「大丈夫ですか」
低くぬくもりのある声だった。
白いマントで長身を包み、濡れたような黒髪と同じ漆黒の目がアミュウをまっすぐに見ている。右手を差し出してアミュウが立ち上がるのを助けるが、アミュウは全身を雷で打たれたように動けなかった。動けないのも困るが、もっと困ったことに、どうして自分がこれだけ動揺しているのかさっぱり分からないのだった。真っ白になった頭の奥から、何か得体のしれない記憶が立ち上ってきそうだったが、思い出せそうで思い出せない。
「立てますか」
「はい……ありがとうございます」
アミュウはかろうじて礼を口にし、男の手をとって立ち上がる。男は助け起こしたアミュウの手に薬瓶を握らせた。
「お気をつけて」
それだけ言うと、男はベイカーストリートの雑踏に紛れて行った。
アミュウはその後ろ姿が見えなくなってもなお、しばらく動けずにいた。どうしてこんなに衝撃を受けているのか、ただただ不思議で、遅れてやってきた動悸に、ロマンスとはかけ離れた恐怖を感じていた。
オリバー・ハーンのパン屋はすぐに見つかった。大通りから路地に入った立地なのに、店内はにぎわっていた。しかし店頭に並ぶパンは、種類も量も少ない。間もなく売り切れるといった具合だ。カウンターには少年が立ち、会計をしている。その奥のキッチンでは老夫婦が生地をこねたり、オーブンの様子を確かめたりしているのが見えた。
アミュウは客の途切れるのを待って、カウンターの少年に声をかけた。
「すみません、魔術師のカーターです。オリバーさんからのご依頼で薬をお届けに伺ったのですが」
少年は屈託のない笑顔を見せた。イアンより幼い印象だ。
「ああよかった、僕が手紙を届けに行ったんです。父ちゃんがあんまりつらそうで」
「差し支えなければお父さんのご容態を見せていただけますか」
「わかりました。ちょっと待ってください――ばあちゃーん! お医者さんが来たから、父ちゃんの部屋に案内するね」
「あらあら、まぁまぁ」
キッチンからエプロン姿の老婆が粉だらけの手を拭きながら出てきた。
「息子がお世話になります。ほら、お客さんはまかせて行っておいで」
「うん」
少年が勝手口の戸を開けてアミュウに入るよう促す。後ろから、老婆が夫に話す声が聞こえた。
「偉い先生かと思ったら、ずいぶんと若いこと――大丈夫かねぇ」
ひそひそ話しているつもりのようだが、耳が遠いのか、大声だった。
(人を勝手に医者扱いして、勝手にこきおろして)
アミュウには薬草の知識があるし、乞われれば薬の調合もする。しかし医師ではないので、その治療には限界がある。自己治癒力を高めたり、心身のバランスを整えることはできるが、それ以上のことはできない。だからこそ、患者の容態を直接目で見て確認し、自分の手に負えるかどうかを判断する必要がある。患者自身の治そうとする力だけでは足りない場合は、医師に引き継がなければならない。
案内された二階の部屋は散らかっていて、狭い室内に、洗濯済みなのか脱ぎ捨てたままなのかよく分からない衣類や、数日分の新聞、汚れたコップに皿などが、雑然とあふれていた。その奥のベッドにパン屋の主人が横たわっていた。
「父ちゃん、お医者さんが来てくれたよ」
「ああ……」
オリバーは半身を起こそうとした。途端に激しく咳き込む。
「どうかそのまま、安静に」
「かたじけない……よく来てくれました。紹介もなしに」
「お辛そうですね。失礼します」
アミュウは散らかったものを踏まないよう、そろりそろりとオリバーに近づき、額や首に手を当て、それから目の粘膜と喉の状態を確認した。
「失礼ですが、胸を見せていただけますか」
オリバーは黙って横たわったままシャツの裾をまくり上げた。アミュウはその裸の胸と腹の、呼吸に伴う動きを観察し、耳を当てて呼吸音を聴診した。
「もう結構です」
オリバーは衣服を直す。アミュウは紙袋の中から次々と瓶を取り出した。
「この油を一日に三度、首から胸にかけて摺りこんでください。こちらの粉末は薬湯です。コップ一杯の熱湯に入れて、五分以上おいてから飲んでください。朝晩二回、お腹が空いているときがいいです」
それからアミュウは、オリバーのシャツの上から、彼の鎖骨の下のツボに親指をねじ込んだ。
「咳で眠れないときは、身体を起こしてここを押してください。咳が静まります。水はこまめに、でも一回の量は少なめに飲んでくださいね。ご飯は食べられていますか」
「あまり。喉が痛いし、食べたい気持ちになりません」
「食べたくないうちは、食べない方がいいです。でも、水分だけはしっかりとってくださいね。食べられないうちは、お水に塩少々とレモン汁を加えてください」
そばで見ていた少年は、アミュウの後ろ姿をじっと見ていた。
「すげえ……母ちゃんみたい」
そんなに歳はとってないと抗弁すべく、振り返って少年を見遣るアミュウに、オリバーが言った。
「妻は、この子が七つのときに死にまして。母親っていうものに夢があるんですよ」
アミュウは喉元まで出かかっていた言葉を飲み込み、代わりに言った。
「お母さんの分まであなたが頑張っているのね」
少年は照れ臭そうに視線を外し、何も言わなかった。
「明日あさって休めば、だいぶラクになるはずです。とにかく眠るのが大事です。眠るためのお茶を差し上げましょうか」
「お願いします」
アミュウは鞄の中を探ったが、安眠のハーブティーは持ってきていなかった。
アミュウは立ち上がり、木の杖の蓮部分で空中に円を描いた。
「繋がれ」
アミュウが一言発すると、その部分だけ空間が切り取られたように白く輝く。アミュウは光の円の中に腕を差し入れた。彼女が得意とする空間制御の魔術だ。あらかじめ準備しておいた魔法陣内の任意の空間と離れた空間とをつなぐことができる。光で描かれた円は、今は自宅の戸棚とつながっていた。アミュウは光の円の中から大人の頭ほどの大きさの瓶を取り出した。
「すげえ……手品かよ」
少年が感嘆の声を上げる。
「魔術師と医者の違いはここよ」
アミュウは少年に笑ってみせて、瓶から調合済みのハーブティーをひとつかみ取り出して、小さな紙袋に入れた。
「小さじに一杯、沸騰したお湯で五分煮出したお茶を、寝る三十分くらい前にゆっくり飲んでください。眠りが深くなります」
「ありがとうございます」
オリバーは頭を小さく動かして、感謝の気持ちを示した。
「ゆっくり休んでくださいね」
それからアミュウと少年は部屋を退出し、狭い階段を下りる。先に立つ少年が、アミュウの方を振り向かずにぽつりと言う。
「父ちゃんが仕事できないと、じいちゃんとばあちゃんがパンを作らなくちゃいけなくなるんだ。でも、じいちゃんは腰が痛いって言うし、ばあちゃんは文句ばかり言うし、だんだんケンアクになってきて……早く父ちゃんには元気になってもらいたいんだ」
「私を呼んでくれてありがとう」
アミュウは、声に同情をにじませないよう注意して言った。
「我慢すればするほど治りにくくなるの。今はお父さんにお休みの時間をあげてね」
「わかってるよ。僕もお店を手伝ってる」
「えらいわね」
勝手口から店舗に出る。接客中のおばあさんがアミュウに視線だけで挨拶を送ってきた。その目は感謝というよりも猜疑心に満ちていたが、アミュウは頭を下げて挨拶を返した。おじいさんはバケットの形に成型した生地に包丁を入れる作業に没入していて、アミュウに気が付かない。店の外まで出てアミュウを見送ったのは少年だけだった。