表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第二章 銀の匙で海をすくう

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/285

2-4.曙【挿絵】

「……ここは……?」


 男は呻きながら、重たそうに右腕を額に載せた。アミュウは動悸の収まらないまま、ナタリアの肩を揺すって起こす。ナタリアはぼーっと男を見ていたが、その目がだんだん丸くなっていく。


「目を覚ましたの?」


 男は左腕を持ち上げようとして「痛てっ」と唸った。アミュウは慌てて男のそばへにじり寄り、左腕の湿布を取り除いた。ツンとメントールのにおいが立ち上る。前腕の患部の内出血が青くなり始めている。ナタリアが息を飲む音が聞こえた。男は掠れた声で言った。


「折れてはいないんじゃないかな……ただの打ち身だよ」


 アミュウは新しいカップを用意し、すっかり冷めたケトルから湯冷ましを注いだ。


「飲めますか?」

「ああ、ありがとう」


 男は左肘を床について上半身を半分起こすと、右手でカップを受け取り、ごくごくと飲み干した。そのころには、アミュウの心臓は落ち着きを取り戻していた。

 アミュウは湿布にしていたガーゼ布を、冷たい薬湯の桶に浸して絞り、再び男の左腕に当てた。


「ここはカーター・タウン。あなたは海で遭難していたの。私はアミュウ・カーター。よろず屋の魔術師で、薬草学の心得があります。こっちは姉のナタリア」


 ナタリアは呆けた顔のまま、わずかに会釈してみせた。

 男はかすれ声のまま薄く口を開く。錆びを含んだ鉱物のように、割れて硬質な声だった。


「俺はジークフリート。クーデンから南回りで航行中に、突然天候が崩れて……同行者が二人いたんだけど、助けられたのは俺だけか?」


 アミュウはナタリアと顔を見合わせた。ほかに遭難者が見つかったという情報は無い。アミュウはジークフリートを見て、静かに頷いた。


「そうか……」


 男はアミュウにカップを手渡すと、再び横になって目を閉じた。アミュウとナタリアが見守っていると、やがて規則正しい寝息を立て始めた。


(ジークフリート……シグルド・ログンベルクと似ている、顔だけでなく名前の響きまで)


 アミュウはジークフリートの胸がゆっくりと上下するのを、じっと眺めていた。

 不意にナタリアと視線が合った。アミュウはかぶりを振った。


「どのみち、視界の悪いうちは何もできないわ。夜が明けたら、お父さんに相談してみましょう」


 アミュウはナタリアにソファを譲り、自分はジークフリートの近くに腰をおろした。ナタリアは、ソファの背もたれの方を向いて横たわった。


「何かあったら、起こしてね」


 そう言ってナタリアは、黙り込んだ。アミュウは店舗から本を持ち出して、暖炉の灯りを頼りに文字をたどりはじめた。ときどきジークフリートに目をやると、仰向けの胸がゆっくりと動いている。ナタリアの方を見ると、彼女の身体から寝息に伴う動きが感じられない。アミュウは、ナタリアが眠れているかどうか気になったが、ナタリアの顔はソファの背もたれとの間に埋もれていて見えない。暖炉の炎の輝きは、アミュウの影に遮られ、ナタリアのところまでは届かなかった。



 翌朝、黒雲が過ぎ去って空が白み始めると同時に、アミュウはセドリックを起こして、遭難者が目を覚ましたことを話した。まだ彼の仲間が海を漂っているかもしれないことも。セドリックは寝間着のままガウンを羽織り、居間へ下りて行った。

 アミュウは二階に上がり、客室のドアをごく小さな音でノックした。返事は無い。そっとドアを開くと、ヴィタリーはまだぐっすりと寝込んでいた。アミュウはほっと一安心し、静かにドアを閉じて居間へと降りて行った。

 セドリックがジークフリートのそばに膝をついていた。ナタリアはまだソファで眠っている。その背中は、今はゆったりと温かみのある律動を保っていた。

 アミュウはまだ水の残っているケトルを暖炉の火にかけた。


「クーデンから、南回りのルートで船に乗っていたそうよ。どこへ向かっていたかは、まだ聞けていないけど」

「クーデン……西部の、繊維産業の町だな。商船か?」

「分からない。あと二人、同行していたって」

「この時間なら、漁協連中も起きてるだろう。埠頭で船の様子を見ているかもしれない。捜索を手伝ってもらおう」

「今行くの?」

「ああ。ヴィタリーには、今日一日よく休むよう伝えておいてくれ」

「私も行くわ。空から探せる」

「駄目だ。お前の仕事はなんだ。けが人の手当てだろう」


 セドリックは着替えに自室に戻る。アミュウは釈然としないまま、セドリックのために茶を淹れ、台所にあったパンを適当に切り分けた。そのうちに、物音に眠りを妨げられたのか、ナタリアが目を覚ました。ナタリアは目を擦りながらアミュウに訊ねる。


「ジークフリートの具合はどう?」


 アミュウはナタリアがジークフリートを呼び捨てにしたことに軽い違和感を覚えたが、聞き流すことにした。


「ぐっすり眠っているわ。お父さんが、埠頭を見にいくって」

「ほかに漂流してる人がいないか探すの?」

「ええ」


 アミュウが食卓に茶とパンと杏のジャムを並べ終えたころ、動きやすそうな綿のシャツとチノパンに身を包み、着古したジャケットを羽織ったセドリックが居間に姿を現した。そして食卓を見て声を上げる。


「おお、気が利くな」


 セドリックは熱い茶を一気に飲み干すと、パンにジャムを塗って二枚重ね、即席のサンドウィッチにした。ナタリアが呆れて言う。


「歩きながら食べるつもり?」

「時間が惜しい。いいか、くれぐれもヴィタリーには、仕事を休むように言っておいてくれよ」

「あー……無理かも」


 ナタリアは頭の後ろで手を組んで、セドリックからわざとらしく目を逸らした。アミュウは苦笑する。


「ヴィタリーさんのことだから、自分も捜索に加わるって言いだすわね、きっと」

「また海に飛び込むかもよ」


 セドリックは上着に袖を通し、ソフト帽をかぶった。


「そうならないように、しっかり言っておいてくれ。どうしてもこっちへ来たがるようだったら、こう伝えるんだ。どこの馬の骨かも知れない若い男がうちの娘に手を出さないよう、家でしっかり見張っているのが今日のお前の仕事だと。そしてアミュウ、お前の仕事は、さっき言ったとおりだぞ」


 セドリックはアミュウに釘を刺すと、サンドウィッチを片手に玄関を飛び出していった。

 アミュウも、ジークフリートに飲ませる薬を取りに、いったん森の小屋へ戻ることにした。空間制御の術を使えば一瞬で済むが、聖輝の言葉が頭をよぎった。


(その力を恐ろしいと思ったことがないのですか。そして、そう考える者がいるかもしれないと考えたことがないのですか。便利で手軽な道具箱ぐらいにしか思っていないのではないですか)


 聖輝の苦言を思い出すと、息が詰まるようだった。それまでの自分は、軽はずみだったのだろうか。聖輝の言っていることは正論ではあると思うが、アミュウはなんとなく納得できずにいた。


(まあ、ついでに空から海沿いを見下ろすこともできるし、帰ったら帰ったでやることはたくさんあるわ)


 アミュウは沈んでいく気分を無理やり引っ張り上げて、カーター邸の玄関扉を開いた。

 有明の藤色の空を、音を立てて雲が行き過ぎていくようだった。だいぶ落ち着いたものの、未だに勢いのある風が、西へ西へと雲を追い立てている。東の空には、既に頭を出した太陽が、カーター・タウンの街並みを金と黒に塗り分けて照らし出していた。

 足元を見れば、階段の淵に濡れた枯れ葉や枝の類が吹きだまっている。庭のそこかしこに大きな水たまりが、ぽっかりと空を映していた。アミュウは朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。土のにおい、雨のにおい、木々のにおい……寝不足の頭をしゃっきりさせるには充分な爽快さだった。


 アミュウは蓮飾りの杖にまたがって地面を蹴ると、曙の空へ舞い上がった。太陽のほうを見てみると、昨夜は黒いうねりにしか見えなかった海が、今は白に鼠色に桜色にほのぼのと染め上げられている。埠頭も見えたが、人影はまばらだった。セドリックはまだあそこに到着していないらしい。

 速度を上げて海岸線に近付く。高度を下げてカーター・タウンの小さな港湾近辺を海沿いに飛んでみたが、遭難者らしい人影は見当たらない。そうこうしているうちに、中型船が桟橋を離れた。セドリックの要請に、船の所有者が応じたのかもしれない。アミュウはセドリックに見つかるのを恐れて、海沿いを離れた。


 農耕地帯を通り過ぎて南の森の上空に差し掛かると、木々の葉が雨のしずくを受けて輝いていた。落葉の始まった枝の合間には、赤く愛らしい実がちらほらと見える。木の実を求めて上下左右に行き交う小鳥たちが、思い思いにさえずっている。

 森の入り口にほど近い丸太小屋へ降り立つと、アミュウは小さな赤金色の鍵を取り出し、我が家の戸を開けた。薬草と薫香の混じった懐かしい香りがアミュウを迎える。


 アミュウはまず水瓶を覗いた。残りわずかだった。ケトルに水を入れ、かまどに薪を組んで火を入れる。湯をわかす間に、アミュウは大桶を持って、泉まで足を伸ばす。嵐のために泉の水は濁っていたが、岩地まで来ると、湧き出しほとばしる水は清浄だった。桶いっぱいに水を汲み、アミュウは小屋へと戻る。歩きながらアミュウは考えていた。


(ジークフリートという人。どうしてシグルド・ログンベルクと似ているんだろう……聖輝さんも)


 その疑問に答えが出ることは無いと分かっていた。だからアミュウは、夢で見たことを一刻も早く聖輝に話したかった。その一方で、「アラ・ターヴォラ・フェリーチェ」で味わった、伝えたい話をうまく伝えられないもどかしさや、汲み取ってもらえない失望を、再度舐めることになるのは嫌だった。

 森の道のぬかるみが、アミュウのモカシンシューズを濡らし、汚していく。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Copyright(C)2018-志茂塚ゆり
cont_access.php?citi_cont_id=11211686&si

小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ