1-29.麦打ち【挿絵】
「インゲンの収穫はシビアなんだ。タイミングを逃すと、すぐにサヤが硬くなるんです」
イアンが慣れた手つきで鋏を動かしながら、アミュウに言った。アミュウもイアンに倣い、翡翠色のサヤを切り落としては籠に集めていく。
その週末は晴れて風の気持ち良い日だった。早めにタルコット家の畑に到着したアミュウが、イアンとともに野菜の収穫を進めていると、遠くからナタリアの声が聞こえてきた。
「おぉーーーい」
エプロン姿のナタリアが、執事のヴィタリーを伴って、意気揚々と歩いてくる。
「ナターシャ!」
収穫済みのインゲンの籠の山を跨いでアミュウが駆け寄ると、ナタリアも荒地野菊の垣根を踏み越えてやってきた。例によって、服が綿毛だらけになっている。
「ヴィタリーさんも来てくれたのね。お父さんは?」
「来られないって。ヴィタリーが代打よ」
恰幅の良いヴィタリーが歯を見せてニカニカと笑う。エプロンをかけた姿は、執事というよりも庭師のようだった。
「町長も残念がっておいででしたよ。是非来たかったと」
そしてアミュウに耳打ちした。
「農家という農家がみな忙しいこの時期、町長という立場で特定の住民に肩入れすることはできないとのご判断で。代わりに私が参りました」
「そう……」
アミュウは露骨に残念がることもできず、曖昧な表情を浮かべた。もしも、ナタリアからの「お願い」だったなら、セドリックは応じてくれただろうか。
「まあ、そう気を落とさないで。お昼にはイルダがお弁当を持ってきてくれるって」
ナタリアはそう言うと、大股で積み藁へと近づき、藁山を見上げて感嘆の声を漏らした。
「すっごーい……大豊作じゃない」
イアンが荷車から大きな筵を担いできて、畑の、平らになっているところに広げながら、ため息まじりに呟く。
「これでも少ないほうなんだけど」
「おはよーう!」
農道の向こうから、ジョシュアが手を振ってやってくる。その後ろにはオリバーが背を丸めて歩いていた。ハーン親子も、雑草の茂みをかき分けて畑へと降りてきた。イアンが腕を振って応える。
「おう! 親父さんも一緒か」
「えへへ」
ジョシュアは満面の笑みでピースサインを作って見せた。オリバーはイアンを見ると慇懃に頭を下げた。
「やあ、イアン君ですか。ジョシュアが『パン屋なのに麦畑のピンチを放っておけないよ!』なんて言うもんで。邪魔かと思いましたが、ついてきました。いつも息子がお世話になってます」
「いえ……今日はすいません」
イアンはオリバーから視線を外してもごもごと答えた。ぶっきらぼうとも取れる態度に、アミュウは、イアンは初対面の相手に対してはいつもこうなのかもしれないと考えた。学校でもこの調子なのだろう。
「おはようございます、アミュウさん」
物思いは、意外な人物の声で中断された。農道から畝間へ、エプロンドレスを身に着け、化粧を完璧に施したエミリ・マルセルが下りてきた。
「まあ、随分にぎやかだこと」
「マルセルさん! 来てくださったんですね」
アミュウはインゲンの籠をその場に置いて、エミリと握手した。
「この間は牡丹肉をありがとう。お店で出したらなかなかの好評でしたよ」
「いえ、私じゃ食べきれませんから……それより、お忙しい中ありがとうございます」
「あら、あんなに頂いちゃったら、お手伝いしないわけにいかないじゃない。それに、これも営業なんですよ」
エミリは目じりに皺を寄せてウインクすると、手をたたいて、アルコールでやや焼けた声を張り上げた。
「はじめまして、キャンデレ・スクエアで飲み屋をやっております、エミリと申します。今日のお仕事が終わったら、皆さん是非、私の店にいらしてくださいね。打ち上げをしましょう」
ナタリアが歓声を上げる。オリバーがイアンからエミリへと視線を移し、数秒、エミリの顔をまともに見つめた。その口はぽかんと開いている。ジョシュアが背伸びをして、父親の顔の前でひらひらと手を振ってみせた。オリバーは微動だにしない。ジョシュアがオリバーの脇腹を突っつくと、呻くように一言、
「美しい……」
聞こえるか聞こえないか、小声の独り言ではあったが、アミュウの耳にはしっかりと届いた。アミュウのすぐそばに立つエミリにも聞こえていたはずだが、彼女は顔色一つ変えずに積み藁へずんずんと近づいて言った。
「さあさあ、時は金なり。さっそく作業を始めましょう」
エミリは手近にあった鍬で、上のほうから藁束を引き摺り下ろした。なかなか手際が良い。
「マルセルさん、慣れていらっしゃいますね」
アミュウが声をかけると、エミリは悪戯っぽく笑ってみせた。
「エミリでいいのよ。これでもね、実家は農家だったんですよ」
エミリはそのまま藁束を筵の上に広げた。イアンが麦打ち棒を抱えてくる。長い棒の一方に、金属環の連結部を介して短い棒が取り付けられた、連接棍型の農具だ。
「組合からも借りたんですが、足りないかも……」
エミリはイアンから麦打ち棒を一本受け取り、筵の上の麦の山に向けて振りかざし、打ち下ろす。
スパアァァーーーン……
乾いた小気味よい音が鳴り響いた。ナタリアとヴィタリーも彼女に倣い、麦打ち棒を振り下ろす。藁くずが舞い上がり、日差しを受けて輝く。
「僕も!」
「おいおい、大丈夫か……って、いってぇ!」
「わっ、ごめんなさい」
ジョシュアも張り切って麦打ち棒を振り回すが、勢い余って先端がオリバーの身体を掠めた。イアンがあきれ顔で手を振って見せ、荷車からテーブルのようなものを引きずりおろす。大人が両手を広げたくらいの幅のそれは、天板部分がすのこ状となっていて、隙間を空けて横板が並んでいた。アミュウが手を貸し、別に広げた筵の上に置くと、イアンは麦束を掴んで言った。
「こうやるんだ」
イアンは麦束を振りかぶって、台に打ちつけた。すると藁から麦粒が外れ、横板の隙間を通って筵へと落ちていく。
「麦打ち台の方が安全だ。お前はこっちでやってくれ」
ジョシュアも麦束を掴んで、思い切り台に打ちつけた。ぱらぱらと麦粒が外れていくが、全部は落ちなかった。
「穂に残った麦は、箸を使って落とすんだ。むやみに素手で触るなよ。芒が刺さるぞ」
「わかった」
ジョシュアが長い箸で穂先をしごくと、今度こそ麦が外れていった。
アミュウも麦打ち台に向けて麦束を打ち下ろしてみる。二、三度打ち付けて、ようやくあらかたの麦が外れた。
「けっこう力仕事ね……ジョシュア君、私が叩くから、箸のほうをお願いしていい?」
「わかりました」
棒叩きのチームから、エミリの声が聞こえる。
「そろそろ頃合いなんだけど、どこに集めればいいかしら?」
「あ、籠にお願いします。藁束も売りに出すんで、形の残っているやつはこっちへ」
イアンが籠を抱えて走っていく。
そのとき、農道から低い声が聞こえてきた。
「皆さん、精が出ますね」
聖輝が、例の人当たりの好い笑顔を浮かべて立っていた。日の光に、色あせた黒い単衣が、白っぽく光っている。
「聖輝さん!」
アミュウが呼ぶと、聖輝は軽く頭を掻いた。
「この前は、どうも世話になりました」
「もう大丈夫なんですか?」
「病み上がりなので、手加減してください」
聖輝はそう言って辺りを見回し、積み藁から藁束を引きずりおろそうとしているエミリから鍬を受け取ると、長身を活かして山の上の方へと刃を突き立てた。
秋晴れの空に麦打ちの音が響き渡る。遠く森から聞こえてくる百舌鳥の高鳴きと交じり合い、溶けあって、いつまでも止むことはなかった。
太陽が一番高くなるころ、イルダが籠いっぱいにサンドイッチを詰め込んで畑へやってきた。筵はもう余っていなかったから、みんな直接地面に尻をつけてサンドイッチを頬張った。サンドイッチには、パプリカのピクルスと、イノシシのローストに杏のソースを絡めたものが挟んであった。
イアンもジョシュアも、夢中でサンドイッチを口に押し込んでは、水で飲み下していた。アミュウは、その仕草を目に焼き付けていた。
(イアン君の子どもらしさを、少しは守ることができたのかしら)
聖輝は、このときもワインを飲んでいた。イルダが気を利かせて持ってきたらしい。オリバーにも酒を勧めている。
「オリバーさん、どうですか。ご一緒に」
「いや、あたしはまだ店の仕事が残ってるんで」
「いつ戻られるんですか」
「夕方の焼成には……」
「なら大丈夫、醒めますよ」
聖輝は返事を待たずにオリバーの木椀にワインを注ぐ。オリバーは、困りますと言いながら、まんざらでもない様子だった。ジョシュアがあきれ顔で言う。
「父ちゃん、またばあちゃんに叱られるよ」
「はは……ジョシュア、黙っててくれ」
「ちょっと失礼、私も頂けますかな」
ヴィタリーが聖輝とオリバーの間に割って入ってきた。聖輝は差し出された木椀にワインとなみなみと注ぐ。
「勝手に酌をしてくれているから、ラクで結構ねぇ」
エミリがアミュウに耳打ちする。アミュウは思わず声を上げて笑ってしまった。
昼食後、みんな一気に打ち解け、和やかな雰囲気で作業を再開したが、オリバーはふらふらに酔っぱらって、もはや麦打ち棒を振るえないほどだった。見かねた聖輝がオリバーから麦打ち棒を引ったくった。道具を失って手持無沙汰となったオリバーはジョシュアとともに箸で穂をしごいていたが、そのうちに船を漕ぎ始めた。聖輝は苦笑いを浮かべて、藁くずだらけの筵の端にオリバーのからだを転がした。
エミリが節をつけて麦打ち唄を歌い始めた。すぐにナタリアも調子を覚えて一緒に歌い出す。
カラスがつつく 鏡の泉
ちょいと一杯 水でもいかが
喉うるおせば カァカァ鳴いて
もひとつどうぞと 黒い羽根
ストローにして 差し出した
サァ ヨイヨイ 良い日さ
うっちゃれ うっちゃれ
お天道様が 空からみてる……




