8-25.矢の向く先
衝撃に備えて目を閉じる。
しかし痛みもなく、吹き飛ばされることもなく、アミュウの体は支えられた。革マントごと包まれる感覚に恐る恐る目を開けても、何も見えない。聖輝が覆いかぶさっているのだった。
(かばったつもりが、かばわれた⁉)
状況を把握しようと聖輝を引きはがそうとするが、聖輝の腕の力は強く、なかなか離れられない。やっとの思いで抜け出して聖輝の顔を見上げると、予想に反して、その表情に苦痛の色はなく、目を丸くして向こうを凝視していた。
聖輝の視線を追って、アミュウは目を疑った。
デウスの山の端が東雲色に縁取られている。急峻な山の稜線がなだらかに森へとつながっていく手前に、ほのぼのと明けていく空を背負って立つ人影があった。あちこちで乱闘の渦が発生する中、不思議とその人の周りはひっそりと静まり、まるでそこだけ時間が止まっているようだ。草原を風が吹き抜けて、その人の薄紅色のモスリンが舞い上がらなければ、アミュウは時を忘れて見入っていただろう。
離れた場所に立つその人は、アモローソ王女だった。弓を掲げ、二の矢をつがえた姿勢のまま微動だにしない。表情は兜に隠れて見えないが、こちらを向いているのは分かる。
はっとして振り返ると、フェルナンがうずくまっていた。二の腕に刺さった矢を忌々しげに引き抜いて、彼は吐き捨てる。
「お姫さま風情が小癪な真似を……!」
「退きなさい。次は心臓を射貫く」
アモローソは凜として通る声で言った。よく目をこらせば、狙いを定めてぴくりとも動かない彼女の周囲を、ジークフリートが飛び回っている。姫将軍を狙うソンブルイユ勢をことごとく切り捨てているのだ。彼はこちらを見もしない。視界に入ってすらいないだろう。
フェルナンは歯を食いしばり、アモローソと聖輝を順繰りににらみつけてから、じりじりと後退し、やがてダッと駆け出した。アモローソはフェルナンの後ろ姿が見えなくなるまで弓を構えていた。
「ナターシャ!」
「来るんじゃねぇ」
アミュウが声を振り絞ってアモローソの名を呼ぶと、ジークフリートが滑りこむようにアミュウたちとアモローソのちょうど中間に立ちはだかった。弓を下ろしたアモローソは、アミュウを一瞥してから聖輝へと顔を向ける。
「ここは戦場です。聖霊の申し子よ、立ち去りなさい」
「あなたこそここが戦場だと分かっているのですか⁉ アミュウさんはあなたを心配してここまで来たんだ。なぜ彼女の話を聞かない? なぜ無視をする?」
聖輝が問うと、間に入ったジークフリートは、抜身の剣を構え、心持ち腰を落とした。
(私たちに剣を向けている――ジークが)
アミュウの衝撃は震えとなって背中を這い上がる。アモローソの表情にさっと悲しみが影を差した。
「無視をしているつもりはありません。わたくしは今もアミュウが好きよ。もしも一緒に来てくれるなら嬉しく思います。ですが、聖霊の申し子のそばを離れようとしないのが答えでしょう。わたくしの舐めた辛酸をその身で味わったというのに」
胸を突かれた気がして、アミュウは足を踏ん張った。そうでもしないと眩暈で倒れそうだった。
アモローソの言うとおりだった。アミュウは、革命が王女にもたらした絶望を何度も繰り返し悪夢に見たのに、なお聖輝とともにいる。そのことがアモローソの目にどのように映るのか、考えなかったわけではない。しかし実際に本人から咎められると、胸を抉られるようだった。
(ジークが離れていったのは、そのことが分かっていたからなのね)
聖輝はなおも詰問を続ける。
「そうやって個人的な感情で戦争を煽るのか?」
「わたくしが介入せずともこの戦争は起こっていたでしょう」
「それは否定しない。でも、あなたがそそのかさなければこの場に足を運ばなかったひとは多いはずです」
そう言って聖輝は辺りを見渡す。混戦ぶりはいっそう極まり、ソンブルイユ兵に殴り掛かる者の雄たけびや、傷付き逃げ惑う者の悲鳴が夜明けの草原を震わせている。ブリランテ勢の半分以上は、着の身着のまま戦う市民たちだ。
「なぜあなたは戦争を煽るような真似をしているのですか」
「それをお前が訊くのか、聖輝⁉」
今まで黙っていたジークフリートが、堪えきれないという様子で一歩踏み出した。
「俺たちの王国を滅ぼしたのは誰だ⁉ 綺麗ごとを抜かすんじゃねぇ!」
「シグルド」
背後からジークフリートに歩み寄ったアモローソが、そっと彼の肩に手を置くと、彼は剣を構えたまま口をつぐんだ。
「かつてお前の手により滅ぼされたロウランドをこの地に蘇らせることが、その目にはただの扇動として映っているのですね。心外ですが……今は仇討ちに身を投じる暇はありません」
アモローソはジークフリートに寄り添い、静かに語る。辺りは相変わらず喧噪に満ちていたのに、彼女の周りだけを静けさが包み込んでいる。アミュウはその一言一句を聞き分けることができた。彼女の唇から漏れる、嘆息の音も。
「早々に立ち去りなさい。さもなくば、今ここでわたくちたちが相手となりましょう」
言うや否や、彼女は流れるような動作で弓を構え、矢をつがえた。ジークフリートは剣の柄を握りしめ、数歩前に出る。たまらずアミュウは叫んだ。
「ロウランドを落としたのは聖輝さんじゃないわ!」
「それ以上言うな、アミュウ」
ジークフリートが鋭くアミュウを睨みつける。彼が初めてアミュウに向ける冷たい目の中に、いつか見た灯火は燃えさしすら残っていない。
いつの間にかロサがすぐそばに来ていて、聖輝に告げた。
「ここらが潮時よ」
聖輝は小さく頷き、コルク栓を逆さにしてワイン瓶に押し込んだ。それきりロサは無言で街道を戻っていく。聖輝は鞄にワイン瓶をすっかりしまい込み、空となった両の手のひらをアモローソに見せた。
「……もしもブリランテの独立が成って、ロウランド王国が再興したとして、この世界そのものが失われては仕方がありません。一緒に国産みを果たせるよう、望んでいます」
それだけ言って、聖輝もアモローソに背を向けた。アミュウは呆然としてその場に立ち尽くしていたが、やがて聖輝に手を引かれ、戦場を後にした。とぼとぼと歩いていくあいだ、後ろから「二度の助けはないと思いなさい」という声が聞こえた気がした。
痺れるような頭のどこかで、ぽんと花火が弾けたようだった。アモローソがフェルナンを射たのは、アミュウを助けるためだったのだ。
できれば、今すぐアモローソのもとへ駆け寄りたい。馬鹿な真似はやめろ、戦争から手を引けと言いたい。しかし、アモローソが自身の生きざまに覚悟を持っているのだと知ったいま、アミュウにできることはなかった。
はぐれ牧師・フェルナンの神聖術を欠いたソンブルイユ軍の動きは鈍り、ブリランテ軍の快勝となったらしい。アミュウは。そよ風荘に戻って荷物の整理をしている最中に、カルミノとロサが話をしているのを聞いたのだった。
「今日は首尾よくいったようだが、次はこうはいかないだろうな。ソンブルイユ側も精霊魔術師の部隊を出すだろうよ」
カルミノの言葉に、ロサはいらだったようだった。
「あたしの相手じゃないわ」
「うぬぼれるなよ、連中の規模を知らないわけではないだろう。多勢に無勢だ」
カルミノの指摘は的確だと、アミュウにもわかる。ソンブルイユは魔法学校を抱えているから、精霊魔術の才を持つ者が自然と集まるのだ。その辺りの事情は、ロサも充分わかっているだろうが、彼女の態度は頑なだった。
「精霊魔術であたしの右に出る者はいないわ」
カルミノは諦めたように溜め息をひとつき、独り言のように呟いた。
「運命の女も、次こそ危ないかもな」
「あれを止めるのは無理よ。前のお嬢さんの姿のときも強情そうだったけどね、今はもう、次元が違う感じだわ」
ロサは腕を頭上に振り上げ、うんと伸びをした。降参のバンザイのようにも見える。
「姿が変わって、度量も何もかも変わったようだな。不思議な娘だ」
カルミノは、ナタリアと行動をともにしていた時期があったのだと、アミュウはぼんやりと思い出す。ロサはだらりと腕を垂らす。
「あの子をラ・ブリーズ・ドランジェへ連れていける気がしないわ」
「正攻法では無理だろうよ」
そしてカルミノはちらりとアミュウの方へ視線を寄越した。盗み聞きを咎めるような目だった。
(はいはい、私は邪魔なのね)
アミュウが重い腰をあげて居間を出ると、台所から香ばしいにおいが漂ってきた。そっと覗いてみると、竈のところに聖輝が背中を向けて立っているのが見えた。儀式用の薄焼きパンを作っているのだった。作業台には薄く伸ばした生地から丸型で抜いたあとが、そのまま残っている。
アミュウは黙って聖輝の背中を見ていた。神聖術と血の禁術で、圧倒的な強さを持っているように見えた彼が、今やお尋ね者同然の身となり、同じくお尋ね者であるフェルナンを真似て薄焼きパンを焼いている。見ようによっては惨めと思われるだろう。しかし。
(聖輝さんは、諦めていないんだわ……)
聖輝は、台所の入口に立つアミュウに気付いていない。アミュウは、聖輝の後ろ姿をじっと見守っていた。




