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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第八章 軍靴、蒼天に響けば

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8-24.平パンは剃刀のように

 幸い、聖輝の怪我はかすり傷だった。消毒を済ませガーゼを当てると、聖輝は肩を回して詫びの言葉を口にした。


「面目ない……」

「聖霊の申し子としての力を失ったって、こういうことなんですね」


 アミュウの言葉に、聖輝は神妙に頷く。話を聞きながら周囲を警戒していたロサが「あっ」と声をあげた。


「あれ、放蕩息子じゃない?」


 彼女の指さす方を見れば、派手な鎧姿のドメニコが、お供の兵を引き連れてこちらに向かってくるところだった。赤い羽根飾りのついた兜にドメニコの顔はほとんど隠れていて、すぐ脇にカルロがいなければ彼と分からなかっただろう。立派な鎧を着こんだドメニコとは対照的に、カルロは軽装だった。


「やあ! こんなところまで来てくれたんだね。感激だよ。すごいじゃないか、精霊魔術だよね?」


 鎧をガチャガチャと鳴らしてドメニコが片手を挙げた。相変わらずの軽い調子だ。眉庇まゆびさしを上げた隙間から見える目はきらきらと輝いている。いっぽう、聖輝の顔はいっそう曇った。


「ドメニコさん、ご無事で何よりです」


 黙りこくった聖輝の代わりにアミュウが挨拶を返すと、ドメニコは興味津々といった様子でロサの顔を覗きこんだ。


「こんなに麗しいシニョリーナが精霊魔術師だなんて、まさに戦場に咲いた一輪の薔薇じゃないか……あれ、きみ、どこかで見たような」


 ドメニコが首を傾げると、ロサはさっと顔を背けて退いた。


「人違いよ」


 ロサが嫌がっている気配を感じたアミュウは、ずいっと二人の間に割って入って訊ねる。


「ねぇドメニコさん、王女がどこにいるか知りませんか」

「はじめはぼくらと一緒に進んでいたんだけど、今は分からない」

「最前線の指揮はどなたがとっているのでしょうか」


 重ねて聖輝が訊ねると、ドメニコは両手を挙げた。


「ジュリアーニ卿だよ。ぼくにとってはここも最前線なんだけどね」

「前へ出ましょう」


 勢い込んでアミュウは言ったが、聖輝は渋い顔だ。


「姫将軍が最前線にいるとは考えにくい」

「ナターシャのことだもの、きっと突っ込むわ」

「ソンブルイユ側は戦斧を先頭に、後方に弓兵を置いてる。ここより前に出ると矢の射程に入ってしまうよ」


 慌てるドメニコにアミュウは反駁する。


「その先頭のソンブルイユ兵がさっきまでここにいたんです。ドメニコさんの言うとおり、ここだって最前線なんだわ。前へ出なきゃ、ナターシャの無事を確かめることすらできません」

「今はまだソンブルイユの精霊魔術師やクーデンの聖堂騎士団は姿を見せていないようだけど、いつやつらが出てくるか分からないよ」

「なら、なおさら姉の身が心配です。一刻も早く駆け付けなくちゃ」


 ドメニコは上げた眉庇に篭手を当てて、傍らのカルロにぼやいた。


「だめだ。このお嬢さん、聞く耳を持たないよ」

「他人の心配をしている場合か。そろそろ領主様のところに戻ったほうがいいぞ」


 カルロがドメニコの腕を引っ張ったその時、アミュウの目の端で何かが光った気がした。結界を張る間もなく、アミュウは叫んでいた。


「みんな、伏せて!」


 姿勢を低くした瞬間、ほんの数秒前までドメニコが立っていた場所で何かが光り、弾けた。その閃光には見覚えがあった。爆風とともに広がる小麦の香りも、アミュウはよく知っている。カルロもろともドメニコが吹っ飛ばされていくのを横目に、上体を起こして周囲に目を走らせれば、聖輝も同じく驚いた様子で起き上がろうとしているのが見えた。今のは明らかにパンの神聖術による攻撃だった。もちろん、聖輝が放ったのではない。

 周囲で乱闘中のブリランテ側の人々も、爆発に気を呑まれたようだった。ソンブルイユ兵の姿もあちこちにあるが、みな交戦中で、神聖術を扱うほどの余裕はあるまい。ドメニコは数メートル後方で尻もちをついていた。カルロはさらに後ろに転がっている。ドメニコから離れていたロサは爆発の影響から免れたようで、腰を落とした構えで警戒している。


(どこ? 誰の仕業なの……?)


 ソンブルイユ兵は揃いの装備を身に着けているが、ブリランテ側は正規軍や僧兵のほかは、てんでばらばらの格好をしている。ブリランテ勢のなかにソンブルイユ側の者が紛れていたとしたら、見分けることは困難だ。アミュウがなおも辺りを見回していると、馬車一台分ほど離れた場所に立っていた覆面の男が腹を抱えて笑い出した。


「ブリランテのせがれがフラフラしていると思って来てみれば……まさかミカグラさんに会えるとはね」


 聖輝がはっと息を呑むが、アミュウにはその男に心当たりがなかった。短く刈り込んだ頭には赤いバンダナ、口元は覆面。聖輝と似たような出で立ちだ。男が口周りの布を下に押し下げても、露わになった髭面にはさっぱり見覚えがない。


「フェルナン牧師か……!? スタインウッドの」

「えぇっ⁉」


 聖輝の口から漏れた名前に、アミュウは驚愕した。スタインウッズのグレゴリー・エヴァンズ司祭に仕えていたフェルナン・マニュエル助祭。村に時を知らせる鐘を鳴らし、子どもたちには勉強を教えていた、人当たりの良い表情が思い出される。グレゴリーの後継として忠実に働いていた牧師の顔と、目の前のごろつきのような髭面が結びつかない。

 フェルナンはグレゴリーの手駒として神聖術をジークフリートとナタリアに振るったあと、行方をくらませていた。


「教会が捜索していたはずですが」


 聖輝が追及すると、フェルナンはニッと目を細めた。笑うと以前の面影が目元によみがえる。


「ええ。お陰で随分と窮屈な思いをさせられましたよ」

「まるでこちらの所為だとでも言いたそうですね」

「あのとき、村にミカグラさんさえ来なければ、万事うまくいったでしょうからねぇ」


 ゆるゆると相槌を打ったあと、フェルナンは地面に唾を吐きかけた。


「お陰で、苦労して得た助祭の座は奪われ、教会に顔向けすることもできず、散々でしたよ。クーデンに流れ着くまではね」


 聖輝がギリリと歯ぎしりをする音が、アミュウにも聞こえてくる気がした。


「ハインミュラー卿の勢力下に入ったのか……」

「国王派だの法王派だの、そういう思想信条に興味はありません。私の腕を買ってくれるならそれで充分。その上、こうして宿敵に再会できる機会が得られたのですから僥倖ですよ」


 フェルナンは、髭に埋もれそうな口をゆがめて笑い、腰に提げた袋から煎餅のように平たく小さなたねなしパンを取り出した。


「さあ、半年前の雪辱を晴らさせてもらいますよ!」


 高らかに宣言すると、まるでフリスビーでも投げるかのように手首を返し、指の間に挟んだ平焼きパンを投げつける。聖輝はワイン瓶でパンを払い落としたが、二枚目、三枚目と攻撃が続くと、反応が鈍った。


「危ない!」


 アミュウの足元に転がったままの包帯のひと巻きをカルロがむんずと掴み、フェルナンに投げつける。空中で巻きが緩んだ包帯はフェルナンに届かなかったが、視界を遮る効果はあったようだ。四枚目のパンが当てを外して飛んでいった先で、破裂音と悲鳴が上がる。後方のブリランテ義勇兵に当たって炸裂したのだ。

 聖輝の表情が険しくなった。乱闘状態の戦場で、パンをよけたら後方のブリランテ勢に被害が出る。距離を置いて戦況を見守っているロサも、これだけ人の密集した場所では精霊魔術を使えないらしい。

 フェルナンが取り出したパンは、アミュウも目にしたことがあった。聖体拝領せいたいはいりょうのときに、信徒に分け与えられるパンだ。特定の用途のために準備を整えたものが強い力を帯びるのは、儀式魔術を扱うアミュウもよく心得ている。フェルナンのパンは、小さいが威力は抜群だ。


 ならば結界を張ろうとアミュウが聖輝に駆け寄るのと、フェルナンが次のパンを腰袋から取り出すのは、ほぼ同時だった。


「馬鹿ッ! 突っ込んだら……」


 鋭く叫ぶロサの声が聞こえたが、水の中のようにくぐもり、アミュウはその言葉を認識できなかった。まるで泳いでいるかのように、空気が重く、聖輝までの距離が遠い。時間の流れが間延びして、一秒が何倍にも感じられる。その一秒のあいだに、フェルナンはパンを投げかけただろう。薄く平べったいパンは、剃刀のように水面を切り裂き、聖輝に届くだろう。結界を張るための言霊を紡がなければならないのに、息苦しいほどの焦燥感に締め付けられ、言葉が浮かばない。スローモーションの中、アミュウは自らの身体を投げ出すしかできなかった。

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