8-23.反転攻勢
夜明けよりもずっと早くにそよ風荘を出ると、湿った潮風が生温く顔を打つ。海の方を見れば、遠くに船灯が燦然と輝き、玉飾りのように連なっていた。海上の警戒にあたる軍用船だ。アミュウと聖輝、それにロサの三人は、聖堂広場を目指す。
不思議な夜だった。物音はしないが、人の気配に満ちている。その違和感は、広場に近付くにつれて大きくなっていった。もっと広場が近くなると、さざめきがはっきりと耳に届くようになる。東の空はまだ暗く、日の出は遠いというのに、聖堂広場には大勢の人々が集まっていた。
赤い襷をかけた義勇兵、白い衣装を身に纏った僧兵の姿も見えたが、半数以上は普段着のままの市民だ。女性の姿も多く見える。領主のもつ軍に属する、制服姿の正規兵はごくわずかで、集まった群衆の誘導・整理をしていた。
ロサの言ったとおり、顔を隠して参加している者もいた。誰も彼らのことなど気にしていないようだ。聖輝は頭巾と覆面、そして全身を覆うマントを身に着けていたが、それほど目立たずに済んでいる。ロサは革のコンバットスーツに身を包み、アミュウは申し訳程度に革のマントを被っている。蓮飾りの杖は、マントの中に隠し持つようにしていた。
昨晩のうちにロサが複数の義勇兵から聞いたところによると、反転攻勢に打って出るため、今朝は領主や姫将軍が演説を行うらしい。三人は路地の入口付近で広場の様子を見守っていた。
時間が経つほどに群衆の人数は膨らんでいく。ブリランテの街に、これほどのひとがいたのかと驚くほどだ。隣に立つ聖輝を顔をちらりと見上げて、アミュウはふとカーター・タウンの収穫祭を思い出した。あのときのキャンデレ・スクエアも大勢の人でひしめいていたが、今この聖堂広場を埋め尽くすのは、単なるお祭り騒ぎに浮かれた人々ではない。それぞれが胸に闘志を秘めているのだ。
東の空がわずかに藍色ににじみ始めるころ、教会奥の領主館から正規軍が列をなして広場へやってきた。わっと歓声があがったので、その中にアモローソ王女と領主がいるらしいと分かったが、その姿は遠く視認できない。ただ、沸き立った群衆が静かになったので、領主がなにか話そうとしているのだと分かった。
「ブリランテの民よ、聞いてくれ!」
張りあげられた声は、意外にも女性のものだった。周囲の人々の視線を追えば、中央の噴水のあたりに領主らしき人物が立っているのが見えた。わずかな松明の灯りを反射して、赤銅色の鎧が輝いていた。年のころは、ちょうどクーデン教会のハインミュラー卿と同じくらいだろうか。ステージが設置されているようで、一段高くなっている。
「かつてロウランド王より賜ったこの地、豊かで、文化の薫り高く、平和を尊ぶブリランテは、独立を貫いてきたが、それゆえに閏統のソンブルイユ王から自治権の侵犯をたびたび受けた。そして昨日、とうとう奴らは文字通りの侵略行為に至った。勇気あるブリランテの民の抗戦によりソンブルイユ軍は撤退したが、それもいっときのもの。我らは今度こそソンブルイユ軍を蹴散らさなければならない! 自由のために!」
歓声とも雄叫びとも聞き分けられない声の波が引いたあと、別の人物が舞台に上がってきた。護衛のジークフリートを伴った、アモローソ王女だ。勇ましい兜に胸当てを身に付け、矢筒を背負った姫将軍の姿は、まるで未だ上らない朝日が彼女だけを照らしているかのようで、遠くからでもすぐに分かった。
「ロウランドの都がソンブルイユ将軍の手に落ちようとしたとき、ブリランテは既にソンブルイユの牽制下にあり、かの将軍に王座を明け渡すこととなりました。その正統性はどこにあるのでしょうか。力でしょうか、権威でしょうか。ならば、わたくしたちブリランテの力を見せましょう。自由の王国の復権のため、今、戦うときが来たのです。さあ、立ち上がりましょう。赤く熱い炎を胸に燃やしましょう」
再び喊声が広場を覆った。アミュウが食い入るようにその姿を見つめているうちに、壇上に見覚えのある姿が上がってきた。領主の息子・ドメニコに、ブリランテ教会司教・ラファエロ。領主の振りかざすブリランテの旗にそろって拳を振り上げると、広場を埋め尽くす群衆の鬨の声が空に響いた。
「お祭り騒ぎね」
腕を組んだロサが冷めた声で呟く。
やがて正規軍が街門に向かって移動を始めた。広場に集まった群衆も、熱に浮かされたように彼らに従う。アミュウたちも、周りの人たちに押されるようにしてのろのろと歩き始めた。
街門までは混雑でなかなか前へ進めなかったが、門を抜けて街道へ出た途端に人の流れがスムースになった。街から離れるにつれて徐々に前後左右の人との間隔があいていき、小走りになる。前方からは遠く怒号のようなものが聞こえてきた。既に会敵しているらしい。群れをなして街道を一直線に走っていた人々は、やがて道を出て左右の草原に広がっていった。叫喚が一歩ごとに近付く。
「なるべく戦いは避けて、姫将軍を見つけ出すのを優先しましょう」
周囲の騒ぎに負けじと、聖輝が声を張り上げた。今となってはもう、空を飛んで様子を見ようとするのがいかに馬鹿げているか、アミュウにもよく分かった。この混乱の中で杖にまたがり浮き上がったら、ソンブルイユ軍はもちろん、ブリランテの人々からも何をされるか知れない。ひときわ大きな叫び声や剣戟が聞こえてくるのは、ペリアーノ川対岸の検問所のほうだった。三人ははぐれないよう慎重に進んでいった。
「あそこよ!」
ロサが指さす先には、赤いブリランテの旗がたなびく。大将の一団がそこにいるのだろう。大将というのが姫将軍なのか、あるいは領主なのか分からないまま旗を目指すうち、いつの間にか周囲は混戦状態になっていった。
突如、横ざまから槍斧の穂先が伸びてきたのを、アミュウは既のところでかわした。叫ぶ間もなかった。左右に気を配っていなければ、串刺しになっていただろう。キルティング鎧を身に着けたソンブルイユ兵は、刺突した穂先を返す勢いで傍らの聖輝を狙った。聖輝は飛び退ったが、槍斧の間合いは広く、彼の腕を薙ぐ。アミュウが悲鳴を上げるよりも早く、ロサがソンブルイユ兵の後ろに回り込み、足を払った。
「下がってください!」
ロサに告げるや否や、聖輝は二の腕の傷口を反対の手でぬぐい、よろめいたソンブルイユ兵に向けた。聖輝の指先の血がチカチカと瞬き、アミュウは反射的に目を瞑った。
しかし、いつまで経っても、その後の目を焼くような光はやってこない。恐る恐る目を開けると、聖輝の指先がプスプスとけぶっている。それだけで、爆発したわけでも、炎が燃え盛るわけでも、なんでもない。何事も起きなかった。
「花火遊びのつもり!?」
聖輝の忠告どおりソンブルイユ兵から距離をとっていたロサが、こめかみを押さえて叫ぶ。
「エロヒム・ツァバオトの御名によりて我に害なすものを祓わん、来たれウンディーネ!」
ロサの魔力に吸い寄せられた川の水の精霊たちが、渦を巻いてソンブルイユ兵に突進する。アミュウには精霊の姿が見えなかったが、ロサの魔力の凄まじさは肌にびりびりと感じられた。水元素の勢いは鉄砲水となってソンブルイユ兵を押し流し、さらに数人のソンブルイユ兵を巻き込んで前線まで走り抜けていった。
「混みすぎだわ。うまく流せない」
小さな舌打ちとともにロサがぼやく。敵味方の別なく、周囲の目が長身の精霊魔術師に注がれた。アミュウは聖輝の腕の傷の様子を見ながら、はらはらしていた。目立ち過ぎだ。




