8-22.戦のあと 2
薄暮に沈む刻限、聖堂広場から伸びる路地を海へと下っている最中、アミュウは背後にかすかな気配を感じた。振り返ってみても、家路を急ぐ人がぽつりぽつりとアミュウを追い越していくばかりで、特に変わった様子はない。しかし、人並みが途絶えたところで、声をかけられた。
「アミュウさん」
張りがあるが柔らかい声に振り返ってみると、声の主は質素なエプロン姿の婦人だった。かなり短く髪を刈り込んでいる。暗くて顔はよく見えないが、見覚えのない人物だ。
「今朝の防衛戦では通用門を守ってくださって、ありがとうございました」
深々と腰を折る女性は、なにか長いものを抱えている。布でぐるぐる巻きにされていてよく分からないが、傘よりは長く、槍よりは短い。
「はぁ……?」
なぜ名前を知っているのだろうと訝ったアミュウは、頭を上げた女性と目が合って驚いた。「アニータさん!?」
「はい」
ブリランテ教会の尖塔に閉じ込められた際、世話を焼いてくれた尼僧がそこにいた。見慣れた僧兵の白い服ではなく、鳩羽色のワンピースに使い古したエプロンを着込んでいたため、すぐには彼女と分からなかったのだった。
「連れ戻しにきたんですか」
身構えるアミュウに、アニータはかぶりを振った。
「お詫びに来たんです。私は、あなたがたの歩みを止めてしまいましたね」
じっとアニータを見返していると、アニータは決まり悪そうに言った。
「司教さまの差し金ではございません。私の意志で、謝りたいと思ったんです」
「どういうことですか?」
「見てたんです。実家が、あの近くにありまして……司教さまにお許しをいただいて、通用門守備の支援任務についておりました」
彼女は手にしていたものをアミュウに差し出した。
「あなたやミカグラさまが戦う姿をこの目で見て、あの仕打ちは間違っていたのではないかと思ったのです。少なくとも、これはあなたの手になければならないと」
受け取ったものの布の包みをそっと押し開いたアミュウは、あっと声をあげた。慣れ親しんだ木の棒。彫刻部を確認するまでもなく分かった。蓮飾りの杖だ。
「ジュリアーニ先生に知られたらまずいですよね?」
咄嗟にアニータに訊ねたが、その言葉とは裏腹に、アミュウはしっかりと杖を握りこんでいる。アニータはゆっくりと頭を振った。
「私ごときに、司教さまのお考えは分かりません。ただ……これは私の勝手な想像ですが、司教さまもきっと同じ気持ちでいらっしゃるのだと思います。お立場上、あのようにするしかなかったのではないかと。ミカグラさまの御身が危険であることは確かです」
アミュウはさらに強く杖を握りしめて言った。
「だから私が聖輝さんを守ります。この杖で」
アニータは目を伏せ、再び頭を垂れた。
「あなた方を閉じ込めてしまったこと――そして、司教さまを否定することのできない私の弱さをお許しください」
「許すだなんて。アニータさんのおかげで、私、もっと戦えるようになりました」
アミュウが下からアニータの顔を覗き込むと、彼女は笑みを漏らした。姿勢を正し、十字を切る。
「心優しい魔女さんに、神のご加護のあらんことを」
そして聖堂広場へと帰っていくアニータの後ろ姿を、アミュウは長い間見送っていた。
そよ風荘に戻ると、アミュウはさっそく聖輝に事の顛末を話した。途中からは、外出から戻ってきたロサとカルミノが加わった。姫将軍が戦いに加わるなら自分たちも戦場へ行くべきだとアミュウが主張すると、カルミノが一笑に付した。
「正気か小娘。おまえが行ったところで何ができる? 戦闘中にあの女と話し合いでもしようというのか? おまえの脳内はラ・ブリーズ・ドランジェの花畑か」
「だって、そうでもしないとナターシャに会えないじゃない」
反論するアミュウの脇で、聖輝が顎に手を添え何やら考えこんでいる。
「ドメニコさんは早期に決着をつけたいと言っていたんですよね。彼に策がないとは思えない」
「ええ。自信なさそうにしていたけど、きっと何か考えがあるんじゃないかしら」
「それが心配なんですよ。彼がアモローソ王女を良く思っていないのは明白だ。近くで確認したほうがいいでしょう」
聖輝が神妙な顔で頷くのを見て、カルミノは吹きだした。
「その髪と肌でか? いま一番危なっかしいのは若造、おまえだぞ。そのなりでのこのこ行ってみろ、スパイだなんだと因縁をつけられてその場で殺されるだろうよ」
顔を曇らせた聖輝の代わりに、アミュウがカルミノに言い返す。
「でも、昨日の通用門では聖輝さんを捕まえようとする人なんていなかったわ。こっちがブリランテのために戦っているのは一目瞭然よ」
アミュウは部屋の片隅に立てかけてある蓮飾りの杖に目を向けた。
「だからこそ、あの杖を返してもらえたんですもの」
「それで? ブリランテに肩入れして、ソンブルイユの連中に刃を向けるのか? ミカグラの御曹司が?」
皮肉な笑みを引っ込めたカルミノが、アミュウをギロリとにらみつける。アミュウははっとした。聖輝は大儀そうに首を横に振った。
「あのくらいなら、法王猊下のご意向から外れやしませんよ」
「街への侵攻を阻止する程度ならな。しかし、明日は攻めに回るのだろう? 国王派の連中を完全に敵に回すことになるぞ」
「猊下はご承知の上で、私に親書を託されました。しかし、あなたの言うとおり、好き勝手に振舞っていいかといえば、そうではない」
聖輝の発言に、カルミノは満足そうに頷いた。
「じきに法王猊下のほうで動かれるだろう。それまで大人しくしているのが得策だな」
聖輝が黙ったので、アミュウもそれ以上は何も言えなくなってしまった。すると、どこ吹く風で爪を磨いていたロサが、ふっと思い出したように頭陀袋をあさりはじめた。
「ねぇ、街でこんなの見つけたんだけど」
そう言って彼女は袋からなにか取り出し、聖輝に手渡した。手の中におさまるほどのそれを広げてみると、覆面だった。赤い頭巾と、口元を覆うマスクらしい。
「つけてみて」
ためらいながらも、ロサの言うとおりに覆面を身に着けた聖輝を見て、カルミノがどっと笑った。
「余計怪しまれるだろうが」
アミュウも同感だった。口も鼻も首元もマスクに覆われ、黒髪はすっぽり頭巾の中におさまっている。目元だけが見えていて、これではまるで泥棒だ。しかしロサは大真面目だった。
「こういう場で自分が何者かを隠そうとする連中は、案外多いものよ」
「そうですかねぇ……アミュウさん、鏡を貸してください」
乞われたアミュウは返答に詰まりながらも、鞄の中の手鏡を聖輝に差し出した。
「ごめんなさい。これ、くもっているんです」
燃やされた小屋の中で焼け残った手鏡は、黒ずんで何も映さない。聖輝は首を傾げた。
「あの時は、確かにアミュウさんの姿が映っていたように見えたのですが」
「魔力を通していたからかしら」
長椅子で頬杖をついて二人を眺めていたロサが、怪訝な顔をする。
「……そのおんぼろで魔術を使ったわけ?」
「ええ。あなたたちの起こした火事の焼け跡から見つけたおんぼろよ」
アミュウはさらりと嫌味を言ったが、ロサは取り合わず、聖輝に忠告する。
「魔術道具をほかの目的で使うのはおよしなさい。魔術は儀式、使うものは全て儀式用具なの。教会だって、聖水で洗濯なんかしないでしょ。それと同じよ」
「すみません、軽率でした」
聖輝がアミュウに向き直って謝罪すると、ロサは満足そうにケラケラと笑った。
「素直なのは良いことだわ。ねぇ、あたしも明日行ってみようかしら。今、この子たちの面倒をちょっとくらい見てあげてもいいかなって気分だわ」
「おいおい、正気か」
大きな声をあげたのは、カルミノだった。ロサは晴れ晴れとした顔でその場に立ち上がる。
「そうときたら準備をしないとね。偵察にでも行ってこようかしら」
アミュウと聖輝は顔を見合わせた。ロサが来てくれるなら心強いが、どういう気まぐれなのだろうか。聖輝がアミュウにそっと耳打ちする。
(彼女はブリランテの出身でしたね)
アミュウは目を丸くした。すっかり失念していたが、この街はロサのふるさとなのだ。ヴェレヌタイラでの激昂ぶりをみれば何やら事情がありそうだが、久しぶりに故郷の地を踏んで、ふるさとのために一肌脱ぎたいという思いが膨らんできたのかもしれない。聖輝は再び地雷を踏むのを避けたのか、ロサに対しては軽く礼を述べるにとどめていた。
「まずは戦場の様子を確かめないと。私なら夜に乗じて、空を飛んでいけるわ」
アミュウの提案に、聖輝は首を横に振る。
「危険です。双方厳戒態勢のはず。逃げ場のない空から突っ込むなんて無茶だ」
「同感ね。王都の連中が検問所の近くに兵営を組んでるんなら、行くまでもないわ。それより情報は味方から手に入れるべきね。解放軍は烏合の衆で、どうせ決まった装備なんてないんだから、彼らに混じって様子を窺えばいいのよ」
滑らかに回るロサの舌に、アミュウは感心した。カルミノは「付き合いきれん」と言って部屋を出ていったが、三人は食卓を囲んで長いあいだ作戦を練っていた。




