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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第八章 軍靴、蒼天に響けば

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8-21.戦のあと 1

 しかし、海岸へ続く脇道で出くわしたのはロサだった。


「何、それ。義勇兵気取り?」


 彼女は聖輝を一瞥すると顔をしかめ、つば広の帽子を投げてよこした。アミュウにも薄布を渡し、「顔はなるべく隠しなさい」と言う。


 海への道を、ロサは無言で先導した。途中、伝令の兵やら何やら、何人かとすれ違ったが、聖輝を見とがめる者はいなかった。

 坂を下り、海岸通りのほんの手前まで来ると、ロサは民家の敷地にさっと身を隠す。ずいぶんと年季の入った小さな家だ。赤い三角屋根の家と、今にも朽ちて崩れ落ちそうなボロ屋に挟まれて、見事なまでに存在感がない。鎧戸が窓を隠し、中の様子は分からない。寸詰まりの前庭は、草が伸び放題だ。どこからどう見ても空き家だった。


「……入っていいの?」

「入りたくなきゃ入らなくていいのよ」


 アミュウが尻込みしているのを冷たくあしらって、ロサは玄関戸を開いた。鍵はかかっていなかった。たいそう古びた扉だったが、意外にも開閉音は鳴らない。不思議に思ったアミュウが蝶番を観察すると、油の垂れた跡があった。

 中は埃だらけだった。小さな家ながら、玄関にはささやかな土間があり、古びた網やら銛≪もり≫やらが壁に引っかけてある。奥の居室が丸見えにならない構造だ。ロサは土間を進み、左右の扉のうち大きい方を、ココンコンと癖のあるリズムで叩いた。すぐに中から「構わんぞ」と声が聞こえてきた。カルミノの声だ。扉を開いたロサは、開口一番に言った。


「だいぶ片付いたわね」


 居間らしいその空間は、言われてみれば多少はこぎれいに見えた。食卓の上に椅子が逆さに載せられていて、床には掃いた跡がわずかに残っている。カルミノは部屋の真ん中に陣取って座り、荷物の整理をしていた。その脇にはアミュウたちが『自由の家レジデンツァ・リベルタ』に残してきた荷物もある。


「細かいところまでは手が回っとらん」

「充分じゃないの」


 食卓に近付き椅子をひとつ下ろしたロサに、聖輝が訊ねる。


「ここは一体?」

「いざというときのためにいくつか隠れ家を見繕っておいた。そのうちのひとつ、『そよ風荘(カーサ・アリエッタ)』だ」

「ディムーザン卿が用意なさったのでしょうか」


 ハッとカルミノは冷笑した。


「まさか。ここはラ・ブリーズ・ドランジェでもソンブルイユでもないのだぞ」

「いくら主公様が素晴らしいお方でも、デウスの山を挟んでこっちにはそのご威光は届かないわ」


 ロサも反論に加わる。どうやら二人が独自に用立てた場所らしい。リシャール=アンリ・ドゥ・ディムーザンが威光ある人物かは分からないが、権力のある人物である点にはアミュウも頷ける。聖輝は降参とでも言うかのように両手を上げた。


「ひとまず、ありがとうございました。落ち着く場所があるのは助かります」


 アミュウも聖輝とまったく同じ気持ちだった。早朝から極限の緊張が続き、休める場所についたと感じた途端に全身が疲労と眠気に襲われていた。だが、その前にやることがある。


「聖輝さん、その布、洗濯しましょう」

「おいおい、水の無駄遣いは……」


 カルミノが文句を言いかけたのを、聖輝が制止した。


「私が汲んできましょう。井戸の場所を教えてください」

「坊やが外に出ちゃ意味がないでしょ。アミュウ、ついてきなさい。用水路が近いわ」


 ロサに続いて空き家を出て一本奥の路地に入ると、幅の狭い井路に清水が流れていた。土手は草が伸び放題だったが、杭が打ってある場所は地面が踏み固められ、そこだけ土が剥き出しになっている。アミュウが足を滑らせないように土手を下り、バケツに水を汲むあいだ、ロサは杭に尻をのせて空を見ていた。右手にも左手にもずっしりとしたバケツを提げたアミュウは、その横顔を盗み見る。目を細めて虚空を見つめるロサのまつげを、日差しがチロチロとなめる。頬に浮かぶシミとそばかすは身をやつすための化粧だ。

 カーター・タウンの森の小屋を燃やされたときに、業火の中に浮かび上がった魔女の姿と目の前の彼女の顔が、アミュウにはどうしても結びつけられない。視線に気づいたロサは、アミュウに無言で右手を差し出した。アミュウも無言で彼女に片方のバケツを渡した。


 そよ風荘(カーサ・アリエッタ)に戻ると、アミュウは長椅子にもたれたまま泥のように眠った。目が覚めると夕刻で、室内に干した赤いのれんがすっかり乾いていた。アミュウが洗ったのではない。聖輝か、ロサか、あるいはカルミノか、誰かが洗濯したらしい。食卓に突っ伏すようにして、聖輝も眠っている。ロサとカルミノはいない。

 アミュウはさっき汲んだ水の残りで顔を拭き、ついでに服の中に手を突っ込んで身体を拭いた。猛烈に腹が減っていた。


 アミュウはのれんを丁寧にたたむと、髪を結ってからさっき借りた薄布で隠して、そよ風荘(カーサ・アリエッタ)を抜け出した。聖堂広場ピアッツァ・デル・ドゥオーモまでの道順は覚えていた。一見したところ人通りは戻っていたが、もちろん、すっかり元通りというわけではない。子どもの姿が見当たらない。代わりに、大荷物を抱えた大人たちが足早に行き来している。この後も続くであろう侵攻に備えているのだ。


 広場の片隅のテントウムシ(コッティネッラ)のバールは、意外にも店を開けていた。夕刻のひととき、カフェ目当ての客が群がり、興奮気味に今朝の戦闘について語り合っていた。カウンターの中の主人カポは忙しそうにくるくると回っていた。声をかけるのは気が引けて、店外で棒立ちになっていると、突然後ろから肩をたたかれる。驚いたアミュウが振り返ると、ドメニコが満面の笑みで立っていた。


「やあ、大活躍だったじゃないか」


 なぜ彼がそんなことを言うのかが不思議だった。どこかから見ていたのだろうか。疑問はさておき、アミュウは当たり障りなく挨拶を返す。


「ドメニコさん。ご無事で何よりです」

「君たちもね。通用門の話、あちこちで聞いたよ。奇妙な血の術を使う男と、結界を張る魔女がいたってね」


 アミュウが顔を曇らせると、ドメニコは慣れた様子で客の間を割って入り、主人カポに話しかけた。


「ねえ、カフェをふたつおくれよ。それから、大事なお届け物があるようだよ」


 ドメニコに背中を押されて、アミュウはカウンターに進み出た。


「あの、暖簾を貸してくださりありがとうございました!」

「おう、早いな。急がなくてもよかったのに」


 アミュウがきれいに畳んだ暖簾を差し出すと、主人カポは嬉しそうに赤い布地を受け取った。


「とても助かりました」

「役に立てて嬉しいよ。あんたらが無事に戻ってこられたのが、何よりだ」


 しみじみと言う主人カポにドメニコも同調した。


「うんうん。ブリランテに力を貸してもらえて、心の底から感謝、感謝」


 二人に持ち上げられたアミュウはまんざらでもなかった。カフェのカップを受け取り、代金を差し出すと、ドメニコとともに混雑したバールを出る。広場に出てしまえば、喧噪がすこしだけ遠のいた。夕暮れ時の風がひゅるりと冷たく、聖堂から吹き下ろす。手の中のカップのぬくもりがありがたかった。

 ドメニコはバールの横の街路樹によりかかってカフェをすする。その目は聖堂を見つめていた。


「今朝は、ドメニコさんも戦場へ出たんですか?」


 彼は聖堂からアミュウへと視線を移し、決まり悪そうに笑った。


「大した力にはなれないけどね。領主の息子が怯えて隠れるわけにはいかないよ」


 怯えるという言葉に、アミュウはかすかな引っかかりを感じた。表情に出したつもりはなかったが、ドメニコには伝わったらしい。


「そりゃ、怖いよ。ソンブルイユ軍警を相手にするだけでも大変なのに、クーデンの奴らまでノリノリで参戦してくるんだから。ブリランテ市民は勇敢だけど、戦いのプロではない。この戦争は、長引けば必ず押し負ける」


 そこでドメニコは声を落として情けなさそうに眉を寄せた。


「ぼくが取り組んできたのは、机上の学問だ。剣を振ったことのほとんどない人間が指揮をとるなんてね。きみたちのほうがよっぽど強いと思うよ」

「そんなことは……」


 アミュウは否定するのを途中でやめた。ドメニコは、謙遜としてしか受け取らないだろう。


「怖いと感じるのは、私も同じです。……姉は、怖くないんだろうかと不思議に思うときがあります」


 アモローソを話に取り上げると、ドメニコは眉を上げて興味を示した。


「姉は――姫将軍は、戦いに関してとても悲しい経験をしています。なのに、自分から戦いに出向いていくなんて。怖くないはずがないのに」


 ドメニコは遠い目をしてカフェをもう一口すすった。その視線は広場のほうを向いていたが、目にはなにも映っていないようだった。既に斜陽で街は赤く染まっている。ドメニコは遠い視線のまま、ゆっくりと口を開いた。


「心に深い傷を負ったひとは、その原因となった状況を自ら再現するって、何かで読んだことがある」


 アミュウは目を丸くしてドメニコを見た。


「……姉が、望んで戦いに向かっているってこと?」

「無意識かもしれないし、やむにやまれずそっちへ向かわざるを得ないのかもしれない。本人に非があるわけではなくて、そうしないと過去の経験を消化できないんだって、その本には書いてあったね」


 アミュウは黙って考え込んだ。


「飲みなよ。冷めちゃうよ」


 ドメニコに促されてカフェを口に含むと、舌にほろ苦さが広がる。甘く香ばしいかおりが鼻に抜けていった。ドメニコはアミュウから広場のほうへと、苦々しい顔を向けた。


「その個人的な事情を、この街の戦いに混ぜ込まれてもね……いや、彼女が市民の戦意を発揚しているのは確かだけれど」


 今度こそアミュウは何も言えなかった。アモローソに大きな影響力があるのは確かだ。なにせ、運命の女なのだから。大きな力を持つ者は、周りを巻き込んで渦を作る。渦に飲み込まれた者のうちの一人が、アミュウであり、聖輝であり、ジークフリートだった。今、彼女はその渦に街ひとつを巻き込んでいる。ドメニコが彼女を苦々しく思うのは当然だ。


 沈黙の重さが苦痛となる直前、アミュウは呟いた。


「私は、姉に戦ってもらいたくありません。どうしたら分かってもらえるかしら……」


 残ったカフェを、ドメニコは一気に飲み干した。


「ぼくも彼女も、明日、戦線に出ると思う」

「明日?」


 アミュウのオウム返しに、ドメニコは頷く。


「早期に戦局を変えないと、状況はどんどん苦しくなっていく。今日はソンブルイユの連中だけだったようだけど、このままだとすぐにクーデンの奴らもやってくるようになる。その前に、できるだけ押し戻す必要があるんだ。心配なら、様子を見に来るといいよ」


 ドメニコは街路樹の幹に預けていた背中をぐいっと立て直し、空のカップを片手にバールのほうへ戻っていった。途中で振り返り、アミュウに向かって手をひらひらとさせた。


「チャオチャオ!」

「8-13.夜を駆け抜ける」に挿絵を追加いたしました。

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