1-27.けもの【挿絵】
横へ飛びのいたナタリアは、息もつかずに矢をつがえ、放った。しかし、壁のようにそびえるイノシシの脇腹辺りに刺さったそれは、指先を突く針ほどの脅威でしかありえなかった。
矢を放ったナタリアは、さらに後方へ飛びのき、木々の間を走り抜ける。イノシシは二、三度身震いすると、逃げるナタリアに標的を定め、その巨体を駆った。熊よりも大きいその体躯は灌木を次々になぎ倒していく。
次に轟音が鳴り響いたのは、イノシシがニシキギにぶつかった時だった。枝で羽を休めていたヤマガラが警音のような悲鳴を上げて飛び立つ。ナタリアはその先で二の矢を引き絞り、放つ。矢はイノシシの、それとは分かりにくい寸胴の首辺りを射抜く。イノシシはフゴッと鼻息荒く頭を振ると、樫の木の幹に首をこすりつけてのたうち回った。たちまち矢は折れ、ぶらぶらと垂れ下がる。
その後ろ脚へナタリアがさらに矢を射ち込む。イノシシは鼻息とも叫びとも分からないような轟音を吐き散らして、怒りに燃え炎でも噴き出しそうな鼻先をナタリアに向ける。ナタリアは踵を返して走った。
「ナターシャ! こっちへ‼」
アミュウは結界の魔法陣を整えながら腕を振ってナタリアを招く。ナタリアが全速力で向かってくるが、イノシシが矢の刺さった後ろ脚を蹴り出して突進を始めた。脚を痛めたとはいえ、その速度は先刻とそう変わらない。ナタリアは舌打ちして、手招くアミュウから顔をそらし、障害物となる木立の多いほうへ方向転換する。ナタリアの姿はあっという間にアミュウの視界の外へと消えていく。
「ああ、もう!」
アミュウは結界の生成を諦め、背負っていた籠を捨て置くと、蓮飾りの杖にまたがって木々の上まで浮上し、ナタリアを追いかける。
ナタリアは木立の合間を縫うように走り抜ける。迫りくるイノシシの勢いは、木立が殺してくれている。アミュウは上空から彼女らを追う。しかし……。
「駄目! そっちは……!」
アミュウが声を張り上げる。
突如降り注いだ日差しに、ナタリアは目を伏せた。木々は唐突に途切れ、空き地に出てしまったのだ。広場の中央では、ナタリアの肩ほども高さのある倒木が行く手を阻んでいる。ナタリアは倒木の節に足をかけ、よじ登ろうとする。その後ろでは木立の迷路を抜け出たイノシシが前足を踏み出す。アミュウが手を貸そうと急降下するも、間に合わない。
「避けて! ナターシャ‼」
やっと倒木によじ登ったナタリアが振り向くと、そこには、牙を剥いたけものの鼻面が――
その瞬間、白い閃光がアミュウたちの目を焼いた。
金属の棒を打ちつけたような音が響くと、イノシシは不可思議な力に弾き飛ばされ、もんどりを打って倒れ込んだ。ナタリアも、倒木の向こう側へと転落した。
光はすぐに収まった。
何が何だか分からないまま、アミュウはナタリアの倒れた場所に転がり落ちるように着地し、杖で地面に魔法円を描いた。
「木々は峻厳の柱、慈悲の柱、均衡の柱となりて王国をうち建てよ!」
アミュウとナタリアを囲んで、円柱状の燐光が立ち上った。結界が結ばれたのだった。ナタリアが体勢を立て直すのと同時に、倒木の向こうでイノシシがふらつきながら立ち上がった。
「矢が効かない」
ナタリアはそう言いながらも背中の矢筒に手を伸ばす。
「結界の内側から攻撃することはできないわ。ここは壁の中なのよ」
アミュウが忠告する。ナタリアは弓を下ろして地団駄を踏んだ。
「じゃあどうすればいいのよ!」
「このままあれが諦めてくれるのを待ちましょう。根競べよ」
「さっきの白い光はなに?」
「わからない、私の魔術じゃない」
「こう、火の玉を飛ばすような魔法は無いの?」
「無いわ」
イノシシが再び突進を始め、倒木に激突する。倒木は吹っ飛び、アミュウが張る結界の壁にぶつかる。アミュウは杖を握りしめ、歯を食いしばってその衝撃に耐えた。大根のような牙が、朽ちた木の幹を抉っていた。イノシシは反動で崩れた体勢を立て直し、再び後ろ脚で下草を蹴散らした。
「また来るよ!」
ナタリアが後ろからアミュウの肩を抱きかかえるように支えて、叫ぶ。アミュウは目を見開き、腰を落として、次の衝撃に備えた。
今度は倒木というクッションなしに、巨体の激突をまともに受けた。結界の壁が根元から揺らぐ。タワシのような剛毛が結界の表面を削っていった。
アミュウの額に脂汗が浮かぶ。考えていたよりもずっと重たい。根競べと言ったのはアミュウ自身だが、このままではジリ貧だ。
イノシシのフゴフゴと詰まったような鼻先から湯気が出てきそうだった。イノシシは二、三度身震いし、鼻先を尻の方へ向け、その場でぐるぐると回転し始めた。後ろ脚に刺さった矢が気になるらしい。
「この隙に逃げよう、ナターシャ」
アミュウはイノシシから目を離さずに、背後のナタリアに向かって言った。ナタリアは非難めいた声を上げた。
「でも、きっとこいつが畑を荒らしてたんだよ! ここで仕留めないとまたやられる」
「私たちじゃ無理よ、応援を呼ばないと」
そうこう話しているうちに、イノシシはまたもやアミュウ達を睨みつけ、短い脚を駆って突進を始めた。アミュウは再び息を詰め、腰を低く落とし、杖を握る手に力を込める。
激震、ガラスの砕け散るような音が響いた。
結界の壁が淡い光の粒子となって消える。アミュウは膝をついた。持ちこたえられなかった。すぐ傍らにイノシシの剛毛が逆立つのを感じる。背後でナタリアが矢をつがえるのが気配で分かった。しかし、彼女が矢を放つよりも、イノシシがその鼻先をうずめ、顎をしゃくり上げ、その牙でアミュウを捉える方が早い――アミュウは目を固く瞑った。
そのとき、肩から斜め掛けにしている帆布の鞄の中で、何かが弾けた。すると、白い閃光がアミュウを包み、金属の棒で打ちつけるような硬質な音が鳴り響いた。それは、ついさっきナタリアを包んだ不思議な光と同じ輝きだった。閃きは一瞬のうちに収束し、アミュウは恐る恐る目を開いた。
背後から、勇ましい弦音が耳を貫く。ドスッという鈍い音とともに、けものの咆哮が響き、鳴動を伴って巨体が倒れた。ナタリアの矢が、イノシシの濡れたような鼻先に命中したのだった。ナタリアの凛とした声がアミュウを叱咤する。
「今だ、逃げて!」
ナタリアはさらに飛び下がりながら次の矢を引き絞る。アミュウも慌てて立ち上がり、倒けつ転びつ、けものから離れた。イノシシは、どうにか矢を抜こうと、鼻先を地面にこすりつけるが、押し付けるほどに鏃は鼻のやわらかな肉を深く穿った。
アミュウ、ナタリア、イノシシは、それぞれ距離をとりつつ、三者睨みをきかせる。しかし、アミュウとナタリアには決め手が無い。イノシシはナタリアとアミュウを交互に見比べている。アミュウのこめかみを汗が伝った。再び結界を張ろうと、杖の石突で地面を突くと、イノシシは警戒するようにアミュウの方を向き、ブルルと唸った。アミュウは思わず竦んだ。
時が止まったかのようだった。イノシシの鼻息のほかは、鳥の声も葉擦れの音も聞こえない。アミュウには、胸の動悸で時を数えるしかなかった。
どれくらいそうしていたか。忽然と、三者の間の虚空に光の円が現れた。森の中にぽっかりと風穴があいたかのようだった。
アミュウは目を丸くした。この魔法円は、アミュウにとってあまりにも見慣れたものだった。
空間制御の術だ。
その円がひときわ強い光で煌めくや否や、人間の腕がぬっと突き出した。次いで脚、頭、肩――。
虚空から現れたその人物は、濡れ羽色の髪に覆われた頭を振って面を上げた。
アミュウはその光景を知っていた。夢で見た御神楽卿の姿とそっくり同じだった。
聖輝だった。




