8-19.コッティネッラのカポ
全員のカップが空になっていくらも経たず、にわかに壁の向こう側が騒がしくなった。カルロが立ち上がり、壁に耳をくっつける。不安になったアミュウが口を開きかけると、すかさずドメニコが口に人差し指を当てた。喋るなとの合図だ。
騒ぎは長く続かず、壁から離れたカルロがふぅとため息をついて言った。
「ソンブルイユ連合軍に動きがあったらしい。川を渡ってきたって話だ」
「ヴォマーノ川か?」
「だろうな。まさかペリアーノ川までは来ないだろう」
クーデンとブリランテの間に流れる二本の川のうち、クーデン側がヴォマーノ川で、ブリランテのすぐ手前にあるのがペリアーノ川だ。カルロは椅子に座ったが、ドメニコは逆に立ち上がった。
「様子を見てくる。外に誰かいるか?」
「今日は店を閉めると、主人が」
カルロの言ったとおり、間もなく主人が壁の向こう側から扉が開いた。聞き取れるかどうか微妙な短い挨拶だけを残して、ドメニコは店外へと走り去った。主人はドメニコを見送ってから、ポキポキと肩を鳴らしてカルロに訊ねた。
「メシでも食うか?」
「ああ、頼む。あんたらも食うだろ」
主人はアミュウたちの返事を待つことなく厨房へと戻っていく。開け放したままの隠し扉の戸口から、パンの焼ける香りが漂ってきた。
「一緒に行かなくてよかったのですか」
聖輝が訊ねると、カルロは苦笑いを浮かべて首を振った。
「今さらジタバタするまでもないさ」
その横顔がなんとなく寂しそうに見えたのは、目の周りや顎ひげの下に影ができていたからだろうか。アミュウがじっと見ていると、視線に気付いたカルロが茶目っ気たっぷりに笑って言った。
「驚いただろ。この隠し部屋」
アミュウは素直にうなずいた。
「これも戦争に備えた仕掛けなんですか?」
「はは、今回の戦争のために作ったにしては、おんぼろだろ。もともとここは独房だったんだよ」
アミュウの質問に答えたのは、壁の向こうの主人だった。驚いたアミュウの顔を、主人が隠し部屋の戸口から覗き込んで、説明を続ける。
「今じゃキレイになってるけど、ここらは拘置所の一角でね。この部屋は、刑の執行を待つ間に入る独房だったんだよ。だからさ、窓もないだろ。」
「独房? こんな街中で?」
「もう百年以上前の話だ。罪人への懲罰は見世物だったんだろうなぁ。そのあとは税金逃れのための財産の隠し部屋ってわけさ。もっとも、親父の代で食いつぶしちまったが」
主人が豪快に笑う。何を言ったらいいか分からずアミュウが困っていると、彼はふっと遠い目をした。
「坊っちゃんは、ガキの頃からここがお気に入りだった」
「へぇ?」
興味を持ったらしいカルロが、空のカップを持って席を立つ。身体の向きを変えて主人が道を作ると、カルロは壁の向こう側へ出ていった。
「領主邸が窮屈だったんだろうな。ここを都合の良い隠れ家にしていて、いつまで秘密基地ごっこが続くのかと思ったら、大人になってもそのまんまってわけだ」
「生意気なガキだったんだろうな」
「いや、気味悪いほどよくできた坊っちゃんだったよ。今の放蕩ぶりは、遅れてきた反抗期なんだろうな」
それまでじっと話を聞いていた聖輝がゆっくりと立ち上がり、隠し扉から店舗側へ出ていった。アミュウも後に続く。カウンターから押し出される形で、聖輝は暖簾をくぐりながら言った。
「領主様のご子息とあれば、色んな気苦労があったのでしょうね」
「次期領主様だ。そりゃもう、いろいろな。我慢して我慢して過ごした末に、ある日突然現れたお姫様の末裔とやらに、未来の領主の座を奪われかけてるんだ。あんな風にヘラヘラしてるけど、腹の中は煮えくり返ってるだろうな」
「おい!」
カルロが声を荒らげると、主人は肩をすくめた。
「喋りすぎたか……さ、ゆっくり食いな」
店のカウンターに並んだパンにはジャムもバターも添えられていなかったが、街への輸送が制限された環境では、心尽くしの品なのだろう。それぞれカップにカフェのおかわりを注いでもらい、三人は焼き立てのパンを頬張った。主人はにこにこと見守っている。
(悪いひとじゃないんだろうけど)
アミュウは主人とカルロをちらりと見た。ふたりとも情に厚く親切だ。しかし、アモローソを良く思っていないのは明らかで、アミュウはなんとなく不安になる。
出し抜けに、店の入口の扉を叩く音が響いた。さっと緊張が走る。聖輝はショールをしっかり巻き直し、入口に背を向けた。主人が慎重に戸を開けて、ぺこりと頭を下げる。
「すいませんねぇ。さっき兵隊さんが来て、戦争が始まりそうだから、今日はもう戸締まりして建物から出るなってお達しが……」
「始まりそうなんじゃない、もう始まってる」
聞き覚えのある声に、アミュウははっとして立ち上がった。聖輝も、振り返りこそしなかったが、じっと様子を窺っている。
「おい、探したぞ」
主人を片手でぐいと押しのけて闖入してきた客の姿を見て、アミュウの声は思いがけず甲高くなってしまった。
「カルミノ!?」
店内を見回した彼の視線は、アミュウを通りすぎて、くるりと振り返った聖輝のところで止まった。
「こんなところで何をしている。ソンブルイユのやつらがすぐそこまで来ているんだ。逃げるぞ」
「どうしてここが分かったの?」
アミュウが問うが、カルミノの返事はすげなかった。
「伊達に貴様らの尾行を続けていたわけではない」
「ちょっと待て。すぐそこまで来てるって?」
上ずった声で割りこんでくるカルロに、カルミノは鋭い視線を投げつけた。
「ペリアーノ川を突破された。連中は既に街門に迫っている。街に入るのは時間の問題だろう」
「くそっ」
引き留める間もなく、カルロは舌打ちして店の外へと駆け出した。主人が難しい顔で腕を組んで、何か考え込んでいる。聖輝がカルミノに訊ねた。
「どこへ逃げるつもりですか」
「別の部屋を用意した。すぐに向かうぞ」
カルミノが足早に去ろうとすると、主人が言った。
「逃げ場所なんかない。ブリランテは三角州の街だ。森に隠れるっていったって、裏手の川はとても素人じゃ渡れないだろうよ。海に出たところで、クーデンの港湾警備隊と鉢合わせるのがオチだ」
「説明されなくても分かっている」
カルミノは苛立たしげに吐き捨てた。張りつめた空気は、まるでそれ自体が鋭利な刃物のように冷たかった。アミュウは無言で自由の家から持ち出した荷物鞄を探る。指先が硬くひんやりとした感触に触れ、しっかりと握りこんだ。手鏡はきちんと手元にある。聖輝も同じように鞄に手を突っ込んで、財布を取り出した。
「混乱の中、役に立つか分かりませんが、受け取ってください」
主人に両手からこぼれ落ちるほどのコインを握らせて、聖輝は言った。
「食料に限りがあるのを承知でお願いします。パンとワインを分けていただけませんか」
主人はじっと聖輝の目を見据えた。そこに何を見たかは分からないが、彼は納得したようにひとつ頷いた。
「ああ、いいぜ」
カルミノが目を丸くしている前で、あれよあれよという間に聖輝は身支度を整えていく。主人は最後に厨房の赤い暖簾を外してホコリを払い、聖輝の頭に巻き付けた。
「ふわっふわのマフラーよりは、こっちの方がずれないだろ」
「恩に着ます――一緒に行きますよね、アミュウさん」
「もちろん!」
アミュウが威勢よく答えると、カルミノはあきれて手のひらを額に当てた。
「解放軍のアジトに連れ込まれて、ここまでかぶれるとはな」
「アジト? 冗談じゃない。ここはただのバールだ。こんなところにまで仕事を持ち込まれちゃ、坊っちゃんの貴重なプライベートがなくなっちまう」
「世話になりました。この布は、後日お返しします」
聖輝が下げた真っ赤な頭に、主人はポンと手を載せた。
「いつでもいい、待ってるよ」
「行きましょう、聖輝さん!」
アミュウはバールを飛び出した。後から聖輝が追ってくる。テントウムシのバールには、眉間にしわを寄せたカルミノと、晴れやかな笑顔を浮かべる主人が残された。




