8-18.隠し部屋にて
どちらが先導したわけでもないが、二人の足は自然と聖堂広場へ向かっていた。噴水亭の壁は今日も白く輝き、プリムラの花が開いている。その光景は、教会に監禁される前とまったく同じに見えるが、その光景を維持すること自体が奇跡のようなものなのだろうと、今のアミュウには想像できた。
ぐるりと広場を見まわしてみると、聖堂のすぐ近くの小さなバールが開店準備を始めていて、店主らしき人物がせわしなく出入りしていた。なんとなくそちらに目を凝らしてみると、テラス席の設営を手伝うでもなく、店先で立ったままカフェを啜っている男がいる。彼の佇まいには見覚えがあった。自由の家で鉢合わせしたドメニコ・ディ・ブリランテの連れ、死の武器商人カルロ・リッチであると気付いたときには、当の本人がこちらに顔を向けていた。目が合ったアミュウは思わず目を背けたが、露骨だったのか、彼はじっとこちらを見つめてから、眉を上げ、ニカッと笑って見せてから手招きをした。
カルロと面識のない聖輝は終始うつむいていた。聖輝の顔を、肌を、間近でカルロに見せるのは危険だ。かと言って、カルロの意図が分からないままこの場を立ち去るのも気味が悪い。アミュウは少し迷ってから、聖輝をその場に残しひとりでカルロに走り寄った。
「早いね。彼氏と散歩かい?」
「なにか用ですか」
『彼氏』という言葉を無視したままアミュウがとげとげしく訊ねると、カルロは目を細めて聖輝のほうをちらりと見た。
「訳ありだろう。ここで一休みしていったらいい」
アミュウはぎくりとしたが、動揺を顔に出さないよう努めた。思い返せば、この男も教会にいたと言っていたような気がする。聖輝の人相を覚えていても不思議ではない。アミュウよりもむしろ、華麗に投げ飛ばされた聖輝の方こそ印象深く記憶しているだろう。
カルロは泰然とカフェを啜り、舌鼓を打ってから付け加えた。
「どこかへ行く途中だったなら、引き留めて悪かった。でも、もしも行くあてがないならここでやり過ごしな」
アミュウは警戒を解かずに、さっと広場を見回した。明るさはどんどん増し、掃除をしたり、窓を開けたりする人の姿が見え始めている。街ぜんたいが起床時刻を迎えようとしているのだ。
「じき人通りが増える。さあ、はやく」
どうせ街門は通れない。湾岸荘への道を下っていけば海に出られるが、港から船が出るはずもないだろう。どのみち、解放軍が見回る街中をうろつくのは得策ではない。ロサやカルミノが手を回してくれるのを待つべきだろうが、このブリランテでは、そもそも安全に落ち合う場所がないのだ。
(なら、ここで待たせてもらうしかない――駄目だったらその時よ)
アミュウは破れかぶれで聖輝に合図を出し、バールに足を踏み入れた。聖輝がそそくさとやってくるのを待って、カルロも室内に入り、勝手に「準備中」のサインを掲げて扉を閉めた。
狭い店内では、カルロの言っていた主人がバリスタ用の器具の手入れをしていた。フィルターや導管を洗浄する水音が響く。
「特別客だよ」
水音に負けない大きな声でカルロが話しかけると、主人は眼鏡の奥の小さな目を丸くしてアミュウたちを見た。
「見慣れない顔だな」
「奥に通そうと思うんだが、いいだろう?」
既に決まったことのような口ぶりでカルロが念を押すと、主人は渋面を見せた。
「そりゃ、俺の一存じゃ決められねえ。坊ちゃんはなんて?」
「これから訊くさ」
主人が難しい顔のまま頷くと、カルロはカウンターの裏側へと続く赤い暖簾を押した。暖簾の上部の梁には「テントウムシ」と彫られたプレートが打ちこまれている。このバールの店名だろうか。
後方で怪訝な顔をしている聖輝に、アミュウは耳打ちした。
「カルロ・リッチよ。このあいだ話した」
聖輝が小さく頷くと同時に、カルロが振り返って口の端をニッと持ち上げた。
「よく分かったな。俺も有名人になったってことか……坊には、実際に会ってもらうほうが早い。奥、借りるぜ」
カルロが手招くので、アミュウは恐る恐るカウンターへと入った。聖輝が後に続こうとすると、頭に巻いたショールに暖簾が触れて、黒髪が現れた。アミュウがあっと声を上げる間もなく、素早く聖輝はショールを巻き直した。主人も見ていたはずだが、アミュウたちの入店について、もう何か言う気はないようだった。
カルロは壁のタイルに手をかけ、ぐっと押し込んだ。するとタイルがわずかにへこみ、横にスライドする。そのまま壁を押すと、隠し扉が開いた。
「さあ、『奥』へようこそ」
カルロは文字通り壁の『奥』を指差す。入口は大人が通るには窮屈だが、覗きこめば案外ゆとりがある。外から見た印象以上の広さがあるようだ。窓のない小部屋に質素なテーブルがしつらえてあり、オークの椅子には若い男が腰かけていた。
「こんなところで会うなんて。これはきっと運命だね、セニョリータ」
彼は立ち上がり両腕を広げてアミュウを迎え入れた。間違えようもない、領主の息子ドメニコだ。軽薄な口説き文句に、聖輝はあきれかえっているだろう。後ろを振り返らなくても分かる。
「今日も彼氏と一緒なのかい?」
ドメニコも、カルロと同じようなことを言う。アミュウが口を開く前に、愛想笑いを浮かべたまま彼は挨拶を続けた。
「ずいぶんとエキゾチックなイケメンだね」
アミュウは今度こそ振り返って聖輝の反応を確かめた。聖輝はショールをかき下ろし、頭部を晒し礼を取った。
「初めまして。ソンブルイユ区大司教枢機卿の息子、セーキ・ミカグラです。ブリランテ領主様のご子息とお見受けする」
「そう。ぼくがドメニコ・ディ・ブリランテ。君たちが司教どのにつかまったところを見ていたよ」
「あの場には教会の人しかいなかったわ」
アミュウが割って入ると、人数分の飲み物を運んできたカルロが弁明する。
「俺たちは野次馬だ。あのあとジュリアーニ卿と面会する予定で、すぐ近くの控室で待ってたんだよ」
「あの騒ぎじゃ、覗きたくなるでしょ」
愛嬌たっぷりに片目を瞑ってから、ドメニコはアミュウたちに座るよう促した。カルロは隠し扉を内側から閉じて飲み物を配り、自身も席に着いた。甘く香ばしい香りが狭い部屋を満たす。
アミュウはカルロとドメニコの顔を交互に見た。
「どうして私たちをここへ連れてきたんですか」
「ごもっともな質問だね。こんなに可愛らしいお嬢さんを連れたミカグラ氏がスパイだなんて、ちょっと信じられないな」
「スパイだなんてとんでもない流言です。私はただの使いっぱしりですよ。アミュウさんには付き合ってもらっているだけなので、巻き込まないでいただきたい」
聖輝がドメニコを睨みつけるが、ドメニコはますます楽しそうに見える。
「スパイではないの?」
「無論。近いうちに、法王猊下は陛下にブリランテ独立を進言します。そのことを司教さまにお伝えするためブリランテへ来ました」
聖輝が主張すると、ドメニコは「ふぅん」と頷いてから、腕組みの指でトントンと自分の二の腕をたたいた。
「飲み物を召し上がれ。心配なら、そちらでカップを選んでもらっていいよ」
混ぜ物が入っていないことのアピールだろうか。アミュウはぎょっとして、カフェを運んできたカルロの顔を見た。彼は気分を害した様子もなく、軽く顔を横に振って否定の意を示している。聖輝は自分とドメニコの前に置かれたカップをソーサーごと入れ替え、次にアミュウとカルロのカップも入れ替えた。ドメニコは相変わらず笑顔を浮かべたままカフェに口をつけた。聖輝も用心深くカップを手に取る。
「……すると、ジュリアーニ卿につかまったと。おかしな話だ」
カルロがつぶやくと、ドメニコはすっと笑みを引っ込めた。
「歓迎されるとでも思っていたかな。逆だ。目の上のたんこぶなんだよ。法王はどうせブリランテに恩を売るつもりなんだろうけど、それじゃあ今とぜんぜん変わらない。ソンブルイユから来たなら、街の外の検問を見たでしょ? 自治領っていったって、あのザマだ。自治権なんて、ネズミのクソほどもない――おっと、失礼」
「商売したって、利益は根こそぎソンブルイユへ吸い取られるしな」
カルロが口をはさむと、ドメニコはうんうんと頷いた。
「ま、司教どのも難しい立場だよね。じっさい、彼はよく舵取りしてたと思うよ。あれだけはっきり独立を謳いながらも、ソンブルイユ教会とうまくやってた。だから法王が手を貸す気になったんだろうね……ただ、来たのがミカグラ氏だったってのは誤算だった」
「誤算?」
不思議そうに首をひねるカルロに説明したのは聖輝だった。
「アモローソ王女が、私のことをスパイ呼ばわりしているのでしょう。そこに本人がのこのこと現れたのが、ジュリアーニ司教にとって誤算だったということですよ。私たちが甘かったというのは、ごもっともだ。こちらの状況がまったく分からなかった」
「それで身柄を拘束されたのか。しかし、まさか法王のお使いを姫将軍に差し出すわけにはいかないだろうからなぁ」
得心がいった様子のカルロがしみじみと頷く。ドメニコは口元に手を当てて笑いを漏らした。
「かと言って、野放しにするわけにもいかない。でも、投げ飛ばして閉じ込めるだなんて、ジュリアーニ卿もなかなか大胆なことをするね」
「それで教会から逃げ出して来たんです。でも、スパイの噂が広がっちゃって、身動きが取れなくなって……」
アミュウの嘆きを、ドメニコは「なるほどね」と受け取った。
改めてドメニコを観察してみると、うつむいた細面の頬に影が落ち、軽薄な印象が薄らいでいた。口がよく回るからだろうか、理知的にすら見える。じっと見ていたら、不意に顔を上げたドメニコとまともに目が合った。彼はすかさずニコリと微笑んだ。
「どうしたの? セニョリータ」
「そのセニョリータっていうの、やめてください」
アミュウが抗議すると、ドメニコは細い眉を八の字に寄せた。
「だって、ぼくはまだ君の名を聞いていないんだ。教えてくれるかい?」
ドメニコの思わぬ反撃に、カルロが軽く吹き出す。聖輝は渋面をいっそうしかめた。アミュウは真っ赤な顔で答えた。
「アミュウ・カーターです……すみません」
その途端、ドメニコの甘い微笑みが硬直した。しばしアミュウを凝視したあと、彼はカップをゆっくりとソーサーに置く。
「そうか……なるほどね」
「どうしたんだ?」
合点のいかない様子でカルロが訊ねると、興奮したのか、ドメニコは早口で説明する。
「このお嬢さんは、姫将軍の妹なんだ。ミカグラ卿のご子息のことばかり気になって、すっかり頭から抜けていたけど、姫将軍が話してた。カーター・タウンに妹がいるって」
四つの目を注がれて、いたたまれなくなったアミュウはすがるように聖輝を見た。すると聖輝はおもむろに口を開いた。
「そういうわけで、私たちはアモローソ王女と話がしたいのです。法王猊下は、必要とあらば武闘派を派遣することも視野に入れられているようです。王女を取り巻く危険が減るのなら、微力ながら私たちも助太刀しましょう。分かっていただけましたか」
ドメニコはアミュウから聖輝へ視線をうつし、前のめりになってまじまじと見た。アミュウは落ち着かない気分でふたりを見守る。ドメニコは、聖輝がどんな人物なのか量っているのだ。アモローソの言うとおりのスパイなのか否か、あるいは、このブリランテにとって有益なのか害となるのか。
「……助太刀するというのは、ロウランド王国の再興とやらのためなのかな」
それは違うと言いかけて、アミュウは口をつぐんだ。ドメニコが知りたいのは、聖輝の真意なのだ。アミュウの答えを望んでいるわけではない。
聖輝は数秒の黙考のうえで答えた。
「それはアモローソ王女の望みであって、私たちの願いではありませんね。彼女にとってロウランド王国は願ってやまない故郷のようなものなのでしょうが、その理想をブリランテの独立後の姿と重ねていいものかどうか、私は疑問視しています」
「願い、ね」
ドメニコは前傾していた身体を背もたれに預け、頭の後ろで手を組んだ。聖輝はふっと息を吐いてカフェに口をつける。急に喉の渇きを感じて、アミュウも一口飲んだ。甘い香りとほろ苦さが口の中に広がる。ブリランテ特産のタンポポやチコリーを煎ったコーヒーだ。
狭い部屋がしんと静まる。壁の向こうで主人がガチャガチャとテーブルを整える音が聞こえてきた。そろそろ開店時刻なのだろうか。
聖輝たちが一息ついたところで、ドメニコが言った。
「ぼくの願いは、ブリランテの民が安心して暮らせる場所を確立したい。それだけだ。そこに懐古趣味を持ち込むのはナンセンスだと思っていてね、ロウランド王国復興だのなんだの声高に叫んでブリランテの民を煽るのは勘弁してほしかった。君たちがそういう輩でないのというのなら、大歓迎だ」
珍しく真面目に語るドメニコの様子に、カルロが愉快そうに笑った。
「俺の勘は当たったか?」
「うんうん。いつもながら、鋭いよね」
ドメニコはどことなく嬉しそうだ。目をしばたたかせるアミュウに、カルロがささやく。
「どうしてここに連れてきたか訊ねていたね。なんとなく、坊に会わせた方がいいと思っただけだよ。答え合わせはほら、このとおりだ」
カルロが目くばせすると、ドメニコが笑う。しかしその笑い方は、つい先刻までの軟派な微笑みではなかった。
「母は自分がロウランド王家の血筋を引いていることをたいそう誇りに思っていてね。姫将軍がやってきたことに舞い上がっちゃって、困ってるんだ。あんな、どこの馬の骨とも知れないやつの話に唯々諾々と――おっと口が滑った。お姉さんを悪く言うつもりはなかったんだけど」
「彼女がロウランドのお姫様だなんて、俺も信じちゃいない。だが、妙なカリスマがあることは確かだ。あんたのお姉さん、ただ者じゃないな」
「安心しなよ、アミュウちゃん。お姉さんにはちゃんと会わせてあげる。約束するよ」
ドメニコとカルロのアミュウに対する雰囲気が変わったのを肌で感じながら、アミュウは相変わらず居心地の悪さを持て余す。ちらりと隣の聖輝を見ると、顔色ひとつ変えずにカフェを啜っていた。




