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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第八章 軍靴、蒼天に響けば

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8-17.お尋ね者のジャッポネーゼ

 滞在日数を重ねるにつれて、自由の家レジデンツァ・デラ・リベルタがブリランテ解放軍に参加する義勇兵たちの根城だということが、アミュウにも分かってきた。だからこそ聖輝は部屋から一歩も外に出ることができないのだということも、腑に落ちた。水を汲みに階下へ下りたとき、宿泊客たちの会話が耳に入ってきたのだ。


――さっき、おもてで黒髪のやつを見かけたけど、例のスパイかな。

――あれは黄色いっていうよりも、単に日に焼けただけだろ。単なるよそ者だよ。

――わっかんねぇな。ジャッポネーゼなんて見たこともねえ。

――いや。俺は王都で何度か見かけたが、あれは見りゃ分かる。確かに黄色いんだよ。


 アミュウははじめ、くつろげる場所であるはずの宿でさえこの有様なのかとげんなりしたが、やがてそうではないと気付いた。この街の解放を希求する彼らにとって、領主マグダ・ディ・ブリランテと姫将軍はまさに自由の女神だ。だから彼らは彼女たちを信奉し、「御神楽はスパイである。聖霊の申し子を排除せよ」との言に忠実に従っている。つまり、匿われた場所は実は虎の穴の中だったわけだ。


 義勇兵たちの中には、数こそ少ないが、女の姿もあった。ロサが逗留していたこともあり、アミュウは目立ったものの、それなりに自由に行動できた。

 当面の生活に必要な品を揃えるため、街を行ったり来たりしているうちに、自然と情勢が耳目じもくに触れる。どうやらソンブルイユ軍警が、クーデン方面に大規模な陣を張っているらしい。ブリランテのすぐそばを流れるペリアーノ川を超えた一本先にある、ヴォマーノ川沿岸とのことだ。近ごろはもう街門を出入りすることもできなくなった。


 聖輝は日がな新聞を読んでいたが、街の外の情報も入らなくなってしまった。ブリランテの地元紙が粘り強く薄い日刊を死守しているが、組版が間に合わないのか、活字の紙面の合間にガリ版が混じるようになってきた。

 新聞を読んでいないときは、寝ているか、軽い運動をしていた。長い療養生活で失われた筋力を取り戻そうとしているのだろう。アミュウはこれまで一度も聖輝がトレーニングしているところを見たことがなかった。腹筋運動や腕立て伏せを繰り返す聖輝の姿は新鮮だった――率直にいえば、似合わなかった。彼の鞄をときどき持つことがあったアミュウは、その重さを知っている。ワイン瓶だの聖典だのを詰め込んだ鞄は異様に重く、怪我をする前の彼にはそこそこの筋肉がついていた。しかし、今、薄着でトレーニングを重ねる彼の袖から伸びる腕は、ずいぶんとやせ衰えていた。


 ロサもカルミノも偵察のためほとんど部屋を空けていたが、戻ってくれば集めた情報を提供してくれた。


「ハインミュラー卿が聖堂騎士団を引き連れて、ヴォマーノ川の兵営に加わったそうよ」


 ロサの発言に、寝台に寝そべっていた聖輝は「いよいよですか」と起き上がって姿勢を正す。手鏡を磨いていたアミュウも、ぴりりとした空気に顔が引き締まっていく。


「ずいぶんと早いのね。軍警がテントを組み始めたのはつい最近でしょ」

「連中も焦ってるんだろうよ。時間が経てば経つほどブリランテ解放軍の練度は上がる。これ以上ややこしくなる前に革命の芽をつぶしたいんだろう。それに、法王猊下が独立支援の声明を出してからでは具合が悪いからな」


 カルミノの言葉に、ロサも頷いた。


「お財布事情が厳しいっていうのもあるみたいね。ずいぶん人が集まっちゃったから」

「ああ、あの化け猫騒ぎのあと、入隊希望者が増えたらしいな」

「えっ、そうなんですか」


 アミュウはぎょっとしてロサとカルミノの顔を交互に見た。


「大型獣が街の近くに出て、危機感を持っちゃったんでしょ。それで焦って入隊して、戦争に駆り出されるなんて、とんだ間抜けよ」


 フォブールの駅前に突然姿を現した大猫を、アミュウは思い出していた。あの猫は今もソンブルイユ郊外の荒れ野で氷漬けのままだ。春の足音が聞こえてくると、氷塊は藁で覆われた。誰がそうしたのかは分からないが、藁は日に日に厚く、何層にも重ねられていき、中の猫の姿はまったく見えなくなった。今、どれだけ氷が融けたか、大猫がどうなっているのかを、アミュウは知らない。

 あのとき必死で大猫を封じたことが、戦争動員のきっかけのひとつになってしまっているのなら、ひどく心外だ。怒りで頭が熱くなる一方で、アミュウは感謝状授与式で味わった冷え冷えとした失望が胸に蘇ってくるのを感じていた。見れば、国王からの感謝状親授に興奮していたロサも、今はひどくつまらなそうな顔をしていた。

 聖輝がふぅとため息をついて言った。


「早く片を付けたいのは、ブリランテ側も同じでしょうね。兵糧攻めでは、消耗するばかりです」


 寝台に浅く腰かけた聖輝は膝に肘をつき、顎をもたせかけて唸った。


「開戦が、近いな」


 聖輝の呟きをアミュウは反芻する。戦争が近い。今までに何度も耳にしてきた言葉で、そのたび心配してきたが、所詮は曖昧な不安でしかなかった。自身の知らないどこか遠い場所の出来事だと、他人事ひとごととして捉えていた。そのことが、街道の最果てブリランテの地に立つ今なら分かる。噴水や教会の彫刻の美しいこの街は、導火線に火が着く間際の、息を詰めるような緊張感に満ちている。


 アミュウは窓の外に目をやり、反対側の街道の果て、カーター・タウンに思いを馳せた。ケインズの唱える鉄道延伸計画が採択される前に開戦となるのは、不幸中の幸いだ。戦争が始まれば、ケインズを支持する町民は減るのではないだろうか。もう故郷の町長選の情報の入ってこなくなったこの場所で、アミュウはセドリックの再選を願った。今ごろ、セドリックはヴィタリーと忙しくしているのだろう。イルダはまだ時々カーター邸に来てくれているだろうか。エミリに若返りの美容水を届けられなくなって久しいが、相変わらず美しいだろうか。ジョンストンはイアンとうまくやっているだろうか。モーリスの診療所は軌道に乗っただろうか。

 一瞬のうちに故郷の大勢の人々がアミュウの心を駆け抜けていった。その後ろ姿を窓の外の空に眺めながら、アミュウは、ハーンズベーカリーのパンが食べたいと唐突に感じた。




 聖輝の正体が宿泊客に見咎められたのは、その翌々日だった。早朝に一階の手水場ちょうずばを使っていたところで、ほかの客と鉢合わせしたのだ。

 早い時間だったために、客はその場で騒ぎ立てることはしなかったらしい。アミュウはそのとき、反対側の寝台でまだ眠っていたのだが、慌てて部屋に戻ってきた聖輝の気配に目が覚めた。


 かすむ視界に入ってきたのは、聖輝が荷物をまとめている姿だった。寝起きの頭ですぐに事情を飲み込んだアミュウは、聡いというよりは単に運が良かっただけなのかもしれない。すぐに戸を叩く音が部屋に響いた。アミュウは咄嗟に聖輝の長躯をクローゼットに押し込み、ガウン代わりのショールを自分の肩にひっかけて、素知らぬ顔で扉を開いた。


「なんですか、こんな朝早くに」


 戸の外で肩をいからせていた男性客は、予想外の少女が姿を現したことで面食らった様子だった。彼も寝巻姿で、自分の部屋から持ち出したらしいナイフが、こんな状況でなければ滑稽に見えただろう。アミュウはそのナイフをちらりと見てから、精いっぱい怪訝そうな顔を作った。


「……なんの用ですか? 人を呼びますよ」

「す、すいませーん……部屋を間違えたみたいで」


 彼はへらへらと頭を下げて、階下へと逃げていった。その足音が遠ざかり、どこかの階で扉が閉まる音を確認してから、アミュウはそっと戸を閉めた。


「もう大丈夫ですよ」


 アミュウがクローゼットの戸を開くと、狭い場所で背を屈めていた聖輝が息をついて出てきた。


「迂闊でした。すみません」


 アミュウが大急ぎで荷物をまとめているあいだに、聖輝は隣室の二人への書置きをしたためた。ゆっくり話している時間はない。宿の主人が起きて、厨房が動き出す時間になれば、さっきの男がなにか言いつけるかもしれない。


 アミュウと聖輝は部屋の片づけもそこそこに、廊下へ出た。そして隣の部屋の扉の、床とのわずかな隙間から手紙と宿代を差し入れると、音を立てないよう慎重に階段をおりていった。幸い、誰にも会わないまま一階にたどり着くことができた。空色のショールをぐるぐる巻きにして黒髪を隠した聖輝を連れて、アミュウは自由の家レジデンツァ・デラ・リベルタを出た。明け方の通りはまだ薄暗かった。行くあてはないが、このままここにいるわけにもいかない。まだ誰もいない通りを、二人は黙々と歩いた。

挿絵(By みてみん)


お題「クイーン」で描いたワンドロ落書きのアモローソです(彼女は王女ですが)。

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