8-14.眠る魔術師
聖輝の気配の名残がすっかり消えたとき、アミュウは月にいた。そして、ここが夢の中であるということを理解していた。
すこし前までは、こういうときは決まってアモローソ王女の夢を見ていたが、真っ暗な空の下、青白い荒れ地の広がるこの場所は、王女の記憶の中の景色ではない。今は現在であり、おなじ世界の、地上からはるか隔たった月面に立っているのだと、アミュウは確信している。
ほのかな丸みを帯びた地平線が、雪あかりのようにぼうっと光っていたため、闇夜に無数の星が浮かんでいることにアミュウが気付いたのはずいぶん経ってからだった。顔を上げて目を凝らすと、隙間なく空を埋め尽くす星が網膜に浮かび上がってくる。耳を澄ましたが、もう星はアミエルの名を呼んではいなかった。風の吹かない月の荒れ地は寒く、静かにアミュウの手足を熱を奪っていく。
ふと振り返ると、反対側の地平線の向こうに、ひときわ大きな青い星が浮かんでいた。その星はちょうど半分だけが輝いていて、もう半分は闇に沈んでいる。まるで半月のようだ。光っている部分をよく見ると、青一色ではない。白い雲が渦を巻き、海には大陸が浮かんでいる――海?
(私はあれが海だってことを知っている。でも、なぜ)
海に浮かぶ大陸はいくつもあり、それぞれ知らない形をしていたが、それが大陸なのだとやはりアミュウは知っていた。海の青、山の緑、砂の茶色、白い雲。まだら模様の星がぽっかりと浮かぶのをただ見ているだけで、アミュウの胸はあたたかいもので満たされた。そのぬくもりは数秒のうちにふくらみ、苦しくなって嗚咽を漏らす。泣きたいのに、泣けなかった。
たまらずその場にしゃがみ込むと、モカシンの靴の合間の砂の奥の地面が透けていることに気が付いた。アミュウが立っていたのは、石英のような鉱物の上だったらしい。膝をついて砂を手で払うと、紫がかった半透明の石が顔を出した。注意深く辺りを見回すと、すぐ脇の地面にもっと透明度の高い水晶が見つかった。表面は磨かれたガラスのように、遠い青い星を映し出している。何の気なしに砂を払うと、結晶の奥に複雑な輪郭が見えた。
アミュウは声を上げて飛びのいた。
水晶の奥に埋まっているのは、人の手だった。組み合わされた両の手は血の気がなく、しかしみずみずしさを湛えて、腹の上に静かに置かれている。どこからどう見ても埋葬された亡骸だ。意を決したアミュウは、石に埋められた遺体を確かめるため、さらに砂をかきわけた。手から胸へ、首元へ――上へ上へとその姿が露わになっていくにしたがって、アミュウの胸の詰まりの圧力は高まっていった。不安を忘れるほどの強烈な使命感がじりじりとはらわたを焦がす。早く、早くこの亡骸を確かめなくては。
ついに遺体の顔が見えたとき、アミュウがまず感じたのは「やっぱり」という納得感だった。
水晶の中で眠っていたのは、聖輝に似た顔立ちの男性だった。夢で見た御神楽啓枢機卿とも異なる、頬のこけた中年のジャポネーズが、質素な墨染の衣をまとって静かに横たわっていた。血の気の抜けた肌は黄土色に沈み、やせ衰え、黒い髭が口周りを覆っている。男の亡骸を内側から満たしているのは、血ではなく疲労の泥だった。
その男が、ドムスルミニスを生んだ二人の魔術師の片割れ、極東ジャポンから流れ着いた異邦人ミカグラであると、アミュウははじめから理解していた。論理的思考の末にたどり着いた考えではなく、もとから知っていたのだ。しかし喉からあふれ出たのは別の名だった。
「聖輝さん!」
アミュウの手は宙を掻いた。石にぶつかる手ごたえがないことに混乱するのもつかの間、背景に広がる天井をアミュウは不思議な心地で見た。
そこは宇宙でも月でもない、なんの変哲もない室内だった。見覚えのない場所だ。
(どこだろう……)
寝台に横たわっていたアミュウは身体を起こそうとして悲鳴をあげた。頭はガンガンと割れるようだったし、体中が軋んで痛む。
「起きたのね」
奥の書き物机に向かっていたロサが立ち上がり、広げていた新聞をたたみもせずにぐしゃりと机に放り投げた。こちらに近付いてくるロサのほうへ、アミュウは顔を向けた。
「……どういうこと? ここは」
どこなのかを問おうとして、アミュウはひゅっと息をのんだ。
「聖輝さんは!?」
首筋や背中の痛みにかまわず、アミュウは半身を起こした。すると、ロサの反対側、寝台の向こう側の長椅子に聖輝が横たわっているのが見えた。夢で見た魔術師ミカグラの姿が重なってどきりとしたが、よく見れば彼の胸は穏やかにゆっくりと上下している。ほっと胸をなでおろしたアミュウに、ロサがあきれ顔で言った。
「寝てるだけよ。 昨日はちゃんと歩いてたんだから心配ないわ」
「きのう?」
アミュウがきょとんと訊き返すと、ロサは大儀そうに腕を組んだ。
「そう。今は夜の九時。あんた、丸一日寝てたのよ」
そういえば、喉がひりついている。唇が乾燥して割れていた。
「……水を、ください」
アミュウがぼそりと呟くと、ロサは舌打ちしながらも水差しのレモン水を注いで寄越した。アミュウはさらに小さく「ありがとう」と言って水をすする。ロサは不機嫌そうに顔をしかめ、音を立てて椅子に座った。すると長椅子で眠っていた聖輝が呻き声をあげて目を開けた。
「ううん……あれ? アミュウさん!?」
アミュウと目が合った聖輝はがばりと起き上がり、飛びつく勢いで身を乗り出した。
「具合はどうですか、気分は? 眩暈はします? というか、こちらが見えてます? 暗く感じませんか?」
矢継ぎ早に訊ねる聖輝に気圧されて、アミュウはコップの水をこぼしそうになった。
「ええと……ひとまず、大丈夫です……ちょっと筋肉痛がするくらい」
「筋肉痛って……」
気が抜けたようにしゃがみこんだ聖輝を、ロサが白い目で一瞥して、アミュウの手からコップを取り上げた。
「で? なにがあったわけ? そろそろちゃんと聞かせてもらえないかしら。こちとら部屋を融通してあげてるんだから」
聖輝はベッドの脇の床に直に座り込み、ため息まじりに言う。
「きのう説明したとおりですよ。私たちはジュリアーニ卿に捕らえられ、閉じ込められていた。そこから逃げ出したところで、ザッカリーニに出くわした……」
「ほう? 俺の目には、空から突然降って沸いたように見えたがな」
冷たい声が割って入ってきた。いつの間にか部屋の戸口にカルミノが立っていた。相変わらずの仏頂面で、聖輝をにらみつけている。
「壁を乗り越えようとして、落ちただけですよ。暗くて見間違えたんでしょう」
しれっと誤魔化す聖輝をいっそう鋭い目で見てから、カルミノは扉を閉め、ついさっきまで聖輝が眠り込んでいた長椅子に腰を下ろした。
「聖霊の申し子の力とやらか。隠すつもりがあるならもっとこっそりやれ」
カルミノの言葉を聞いて、アミュウと聖輝はちらりと視線を交わした。
(このひと、勘違いしている?)
アミュウが疑問に感じるのもつかの間、聖輝が不適な笑いを浮かべて、カルミノの探りを受け流した。
「さて、なんのことやら」
どうやら聖輝は、空間転移術を自分の仕業であるように仕立て上げようとしているらしい。嫌な予感がしたが、カルミノやロサの手前、アミュウは黙っているほかなかった。
「助けられたのは事実なので、礼はしましょう。宿の部屋まで手配してもらって、恩に着ます。しかし、余計な詮索はしないでいただきたい」
聖輝が憎まれ口をたたくと、とたんに眉間の皺を深めたカルミノが、腰を下ろしたばかりの長椅子から立ち上がった。
「調子に乗るなよ、ひよっこが!」
「なに熱くなってんのよ、だっさ」
静観していたロサが、冷ややかな声を浴びせた。カルミノはいっそう眉を集めてロサを見るが、彼女はどこ吹く風といった調子で新聞に目を落としていた。
「いい年して煽られてんじゃないわよ。いいんじゃない? ラファエロの坊やがどうやら反抗期らしいって分かったのは収穫よ」
「嬉しくない釣果だがな」
落ち着きを取り戻したカルミノが、ひっつめた髪の毛の流れに沿って頭を撫でつけて考え込む。
「しかし、なぜあの坊主は御神楽を敵に回すような真似をする? 介入を嫌がる余裕はなかろうに」
アミュウはちらりと聖輝の様子をうかがう。彼はカルミノをじっと見ていたが、アミュウの視線に気が付くと目を細めた。大丈夫、まかせておきなさい、とでも言いたげな、まなざしだけの笑みだった。
(任せておけるはずがないじゃない)
アミュウのこめかみにピキリと青筋が立った。そもそも、聖輝に任せてブリランテ教会を訪ねたから、こんなことになったのだ。戦争直前の緊張状態にあるよその教会にのこのこ足を踏み入れていなかったら、ジークフリートと物別れになることもなかったかもしれない。
考えれば考えるほど苛立ちが募ってきたアミュウは、腹立ちまぎれに言ってやった。
「介入を嫌がってるのはジュリアーニ司教じゃなくて、領主のほうでしょう」
カルミノが意外そうな顔でアミュウを見る。ベッドの脇に膝立ちになっていた聖輝が慌てて腰を浮かせた。
「アミュウさん、何を言って……」
「聖輝さんをブリランテに近付かせたくないのは、ナターシャよ。ジュリアーニ司教は、聖輝さんをかくまうために監禁したの。ナターシャが何をしでかすか分からないから」
アミュウは一息に言いきってから、聖輝をにらみつけた。
「強がってもしょうがないでしょう。私たちがブリランテに来られたのも、教会から無事に脱出できたのも、このふたりのお陰じゃない。きちんと協力を乞うべきだと思うわ。いがみ合ってる余裕がないのは、こっちだって同じよ」
息まくアミュウとひるんだ聖輝とを見比べて、カルミノは呆れたように溜め息をついた。
「お嬢ちゃん……純粋なのは美徳ではあるが、もっと世間を知ったほうがいい。俺たちがしでかしたことを忘れたわけではあるまいに」
こめかみを押さえるカルミノの反対側では、ロサがぷいとそっぽを向く。アミュウは奥歯をギリリと噛んだ。もちろん忘れるはずがない。アミュウ一人だけの城だった森の小屋、セドリックが自ら丸太を組んでくれた、あの狭い小屋がたまらなく恋しくなる。しかし――
「前を向くことは、忘れることと同じではないはずよ。私はナターシャを取り戻したいし、もしもナターシャがこの戦争に関わっているなら、力になりたいとも思う。あなたたちだって、この街の独立を後押ししたいんでしょう。なら、手を組まなくちゃ」
冷ややかで乾ききった笑い声が部屋に響いた。カルミノが高笑いをしているのだ。ひとしきり笑ったあと、カルミノはすっくと立ちあがり、「勝手にしろ」とだけ言い残して部屋を出ていってしまった。
音を立てて閉められた扉は、蝶番が軋んで外れかかっていた。頼りなさげにゆるんだネジを見つめていると、かすかな紙の音が聞こえる。ロサが新聞の上に頬杖をついたのだ。
「あたしは、あんたが嫌いよ。良い子ちゃんぶってるところも、エセ魔法使いなところも。馴れ合いは御免だわ」
(エセ魔法使いってなによ)
アミュウは反論したかったが、既に気力も体力も限界だった。カルミノと話すだけでこの有様だ。このあとさらにロサとやりあうのはとうてい無理だ。大人しく枕に頭を預けて目を閉じると、途端に睡魔がやってきた。
「消耗がひどいので、これ以上は……」
聖輝がやんわりとロサを追い出しにかかる。ロサは机の上の新聞紙をそのままに立ち上がった。
「この部屋はこのまま使っていいわ。一人部屋だけど、長椅子もあるし、文句言わないでよね」
「助かります。お代は……」
「明日でいい」
聖輝とロサのやりとりがやたらと遠くに聞こえる。再び眠りに落ちていきながら、そういえばここはどこなのだろうかと、アミュウは疑問に思ったが、すぐに思い直した。
ここには聖輝がいるのだ。それだけで解答になる。
扉の音が聞こえた。ロサが部屋を出ていったらしい。するとすぐに部屋の灯りが消された。アミュウは、まぶたの裏に、夢で見た宇宙が広がっていると感じた。




