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月下のアトリエ  作者: 志茂塚 ゆり
第八章 軍靴、蒼天に響けば

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8-13.闇を駆け抜ける【挿絵】

 たちまちやってきた無音の闇は、耳に痛かった。格子へ伸ばしかけていた手をゆっくりと身体の脇に下ろしてから、ぎゅっと握り、また開いた。グー、パー、と何度も繰り返しながら、アミュウはてのひらの感覚を確かめた。痺れるようなこわばった感覚が、なかなか抜けていかない。真夜中を過ぎたしじまが肌を刺す。


 不意にアミュウは、ジークフリートに、宿に残したピッチの世話を頼みそびれたことに気付いた。うすら寒くなって自らの肩を抱くと、募る不安が体外に漏れ出しているような心地がした。


(何を言う間もなかったけど……ピッチにもしものことがあったら、ナターシャは許してくれない)


 蝋燭が消えて闇に沈んだ階段を降り、アミュウは手探りで荷物を集めた。帆布の鞄はざらりとして手に馴染み、体に沿う。荷物を検められた際に、蓮飾りの杖や携帯用のハサミは没収されてしまったが、ほかは一通りそろっている。アミュウは、鞄から手鏡を取り出した。カーター・タウンの小屋で燃え残った、あの手鏡だ。持ち手を握り、手のひらから魔力を流してみると、蓮飾りの杖と比べれば頼りないものの、魔力の循環する手ごたえを感じた。

 聖輝はどこにいるのだろうか。屋根伝いにやってきたジークフリートは、聖輝の居場所を知らない様子だった。ならば、外からは分からない場所にいるはずだ。ラファエロは、「聖輝は別の場所で匿っている」と言っていた。もしかしたら、教会の外にいるかもしれないが、抜け目のない彼が、聖輝を手の届かない場所へ連れて行くだろうか。


 アミュウは屋根裏部屋と廊下を隔てる壁の前に立った。鏡に扉が映るよう、角度を調整する。くすんで濁った鏡面ははじめ何も映さなかったが、アミュウの魔力が馴染むにつれて、鮮明さが増していく。扉の木目の筋が一本一本見えるようになっても、アミュウはなお手鏡に魔力を流し続けた。すると鏡の中の扉はふたたびぼんやりと濁っていく。いや、透きとおってきているのだった。そこからは、暗闇の中で針に糸を通すような作業だった。鏡面を凝視しているつもりだったが、いつの間にかぎゅっと目を瞑っていた。鏡に張り巡らせた魔力の通り道の、いくつもの先端から、なお魔力の糸を伸ばす。途中でなにか硬いものにぶつかって、糸は焼き切れた。あるいは、どん詰まりの道に入り込み、右往左往した。まぶたの裏に広がる葉脈のような無数の道を、アミュウはひとつひとつ通って確かめていった。


 そして、ついにその道が繋がったとき、アミュウは扉の外に立っていた。

 全身から汗が噴きだし、心臓は爆音で拍動を刻み、息を吐くたびに声が出る。立ち続けることもままならず、アミュウは扉にもたれかかった。重い手を持ち上げてドアノブを確かめると、鍵はかかったままだった。

 空間転移に成功したのだ。

 息を整えたアミュウは、階下の聖堂を見下ろす。そこは聖堂の天井まわりに張り巡らされた通路だった。装飾を兼ねた列柱の細さを、アミュウは意外に思った。下から見上げたとき、縦に引き伸ばされたフォルムが聖堂の天井の高さを演出するのだろう。聖堂には物音一つなく、暗闇に沈む影に動くものは見えない。ここは教会であって、城でも軍事施設でもないのだから、常時見張りが歩き回っているとは考えにくい。用心を重ねて、鞄の中から取り出した薄荷のキャンディを階下に落としてみる。


 コツーーーーン…………


 石の床に当たった音が堂内に響く。アミュウはそのまま耳を澄まして様子をうかがっていたが、もとの静寂が押し寄せるばかりで、変わったことはなにも起きなかった。

 ここには、見張りも聖輝もいない。そう判断したアミュウは、そろりそろりと廊下を回りこむ。反対側の尖塔へと続く屋根裏部屋も調べると、思ったとおり、誰もいなかった。渡り廊下への扉も、内側からかんぬきがかかっているだけで、たやすく開けることができた。

 拍子抜けしたアミュウは、音をたてないようにゆっくりと扉を開けて、外に出る。途端に、夜の風が頬を打った。肺に流れ込んでくる空気は新鮮で冷たく、目が覚める思いだ。こんなに簡単に抜け出せるとは、思ってもみなかった。


 向かいの事務棟の扉は、蝶番ちょうつがいの側が外から内側に向かって蹴りつけられ、ぶらついていた。ジークフリートの仕業だろうか。隙間は狭かったが、押し広げれば、なんとか通れるほどの幅になった。身体を押し込んで事務棟に入ると、やはり物音はしない。

 ここは五階で、事務棟の最上階らしい。確か、司教室は三階だったとアミュウが記憶を洗っていると、ほんのわずか、空気の流れが変わった。気配ともいえないほどの微かな空気の揺らぎにアミュウが気付くことができたのは、ほとんど奇跡だっただろう。考える間もなく、アミュウの口から声が漏れた。


「……聖輝さん?」

「アミュウさん? そこにいるんですか?」


 耳に馴染んだ声は、思いがけず上方から降ってきた。アミュウが天井は仰ぎ見て小声で訊ねる。


「どこにいるの?」

「無事ですか? さっきの大音は? 誰といるんですか?」


 聖輝の返答は答えになっておらず、切羽詰まっていた。アミュウは早口で言った。


「どこも怪我はないわ。ひとりで来たの」

「ひとりで? ……どうやって?」

「どうにかこうにかして。それより、聖輝さんこそ無事なんですよね? どこにいるの?」


 微かな足音が移動したかと思うと、廊下の奥の方からまた聖輝の声が聞こえた。


「ここに、屋根裏への扉があります。鍵がかかっていると思うのですが」


 声に従ってアミュウも移動してみる。天井に四角い扉が取り付けられている。なるほど、ここにもかんぬきがかけてあって、上から降りることはできない。杖があれば閂を開くことができたかもしれないが――


「閂があるけど、手が届かないわ」

「近くに梯子があると思います。誰かが来るときには、いつも下から梯子をかけていました」


 左右を見回すと、いかにも物入らしい、小さな戸があった。そっと開ければ、掃除用具とともに折り畳み式の梯子が見つかった。危なっかしい手つきで取り出し、広げて天井の扉に向けて固定する。ぐらつきがないかよく確かめて梯子を上り、閂を開けて扉を押し開けた。


「アミュウさん!」


 覗き込んだ聖輝の顔は、暗がりの中でほとんど見えなかった。聖輝の側からも表情は分からなかっただろう。


「早く下りて、ここを出ましょう」


 先に梯子を下りたアミュウが待っていると、聖輝は下りてきた勢いのまま、覆いかぶさるようにしてアミュウの肩に手を置いて、アミュウの頭に顔をうずめた。


 アミュウは動くことができないまま、聖輝の突然の行動よりもむしろ、自分の心音の高鳴りに驚いていた。聖輝の祭服に視界を奪われて、何も見えない。彼の顔を見上げようにも、今、頭を動かしてしまえば、彼の頭は離れてしまうだろう。額に祭服のガウンが微かに触れている。もしもこの額が聖輝の胸にぴたりと密着していたら、身体をゆすぶるほど大きな脈動が聖輝に伝わるのだろうか。伝わったほうがいいのだろうか。もしも、聖輝の身体からも同じだけ大きな音が聞こえてきたら、アミュウは喜んでもいいのだろうか。ぬか喜びにならないだろうか。

 肩に置かれた聖輝の手は大きく、しっかりとした重みがあったが、ぬくもりは感じられなかった。冷えているのかどうか、布越しではよくわからない。ただ、聖輝の顔の触れている頭頂だけが熱かった。汗をかいたあとの髪がにおわないか心配になってきたころ、ようやく聖輝の頭が離れていった。


 名残惜しく顔を上げると、随分と高いところに聖輝の顔があった。これでは高すぎると、知らずアミュウは背伸びをしていた。相変わらず闇の中で表情は見えないが、ゆっくりと聖輝の顔が近づいてきた。目を開けていても閉じていても大して差のない暗がりが、ふたりをしっとりと包んでいた。先刻は痛いと感じていた静寂が心地よい。アミュウはじっと待っていた。ひたりと頬に触れた聖輝の手はやはり冷たかったが、その手はアミュウの頬を滑り落ち、そっと肩に触れ、優しく押し戻した。


 かかとを床につけたアミュウはさっとうつむいた。一瞬だけ聖輝の顔が目に飛び込んできたが、やはり表情は見えなかった。


 何も言えずにいるうちに、微かな雑踏が耳に流れこんできた。どちらからともなく一歩身を引き、あたりを見回す。聖輝が窓の方へ歩み寄り、外の様子をうかがうと、ようやく星明りで彼の表情が見えた。険しい顔で窓の外を見つめる彼につられて、アミュウも窓を見た。

 小道の向こうの修道院から、僧侶や修道士たちが聖堂にやってくる。夜課の祈りの時間となったのだ。聖堂には、アミュウが投げたキャンディが落ちているし、渡り廊下の扉はかんぬきを開けたままだ。この事務棟の渡り廊下の入口に至っては、半ば蹴り破られている。事務棟に捜索の手が回るのは時間の問題だ。

 不意に、階下から物音が聞こえた。


「誰かいるのか?」


 よくとおるラファエロの声が五階まで響いてきた。司教が教会に寝泊まりしていても、不思議はない。ジークフリートの仕業かどうかは分からないが、扉を蹴破られたときに、よく気付かれなかったものだと思ったが、すぐに考え直した。そんなところに感心している場合ではない。


「さっきの物音……賊か? それとも軍警の犬か?」


 問いを重ねるラファエロの靴音が、階段を上がってくる。アミュウは帆布の鞄から手鏡を取り出して、窓の外へと向けた。


「私につかまっていてください」


 アミュウの意図を汲んだ聖輝がさっと腕を回してきたが、その感覚は彼女の意識の外にあった。瞬時に極限の集中状態に自らを高めた彼女は、びりびりと髪を逆立て渦を巻いていた。一度魔力を通した手鏡には、道が繋がっている。瞬きひとつの間に、無数の道の中からたった一本の抜け道を探り当てたアミュウは、鏡面の中に星空を見た。


 闇の中に小さく瞬く星々が、チカリと輝いて燃え尽きる。無数の星が生まれて消えていく命の洪水の中で、アミュウと聖輝もまたそれぞれ星として銀河に浮かんでいた。大河の流れに乗って暗闇を疾走しているのに、瞬間瞬間の時間が無限に引き延ばされ、止まっているようにも感じられる。茫漠とした宇宙に漂う塵は星のスペクトルを反映して虹色の靄を形作り、常にうねり動いてアミュウの巻き髪をさらっていく。そこでは光も闇もなく、混沌としてすべてがひとつに混ざり合っていた。大も小もなく、アミュウは聖輝より大きく、聖輝はアミュウより小さかった。伸び縮みしながら絡んだ腕が溶けて、ふたりは融合しつつあった。アミュウは肘から肩へ、指先へ、聖輝が流れ込んでくるのを感じた。同時に、アミュウは聖輝の内部へと手を伸ばしていた。銀河の奔流を滑り落ちながら、ふたりは力強く結びついていた。


 流れの先にひときわ明るい光が見えた。丸い月が金色に輝いている。月面はゆらめき、まるで水盤のようだった。揺らぎの先にはまた別の光が覗く。アミュウはしびれるような郷愁に引き寄せられた。月の水面へ飛びこんだとき、アミュウは懐かしい光の正体を理解した。


 光の家(ドムスルミニス)が待っている。星々が口々に「おかえりアミエル」とさざめく中で、アミュウの中に入り込んだ聖輝だけが彼女を「アミュウさん」と呼んでいた。

 光が網膜を焼き、再び宇宙は光と闇に分離した。眠りに落ちていくアミュウの中から、するりと聖輝の気配が、一筋、また一筋と抜け落ちていった。


挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


聖輝のらくがき。

「光と影」をお題としたワンドロです。

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