8-12.灯火は消えて
じりじりと蝋燭が短くなっていく。無理のある姿勢を続けて首も腰も痛んだが、まだ寝台に戻る気にはなれず、アミュウは立てた両膝に顔をうずめた。
感傷の潮がゆっくりと引いてくると、噴水亭の部屋に残してきてしまったピッチのことが気がかりになってきた。餌も水も古くなってしまっているだろう。賢いピッチのことだから、誰かに助けを求めていると信じたいが、やはりブリランテまで連れてくるべきではなかったのかもしれない。
どれだけの間そうしていたか、もはや時間の感覚もなくなっていたが、不意に呼ばれた気がして、アミュウは顔を上げた。蝋燭は親指ほどの長さしか残っていない。耳の奥で鳴り響き続ける「アミエル」の名ではなく、「アミュウ」と呼ばれた感覚があり、アミュウは立ちあがって窓に近付いた。
「アミュウ!」
今度こそ呼び声が聞こえて、アミュウは息を呑んだ。砕けた鉱石のようにカンと響く声の懐かしさに、胸が詰まる。格子の奥、尖塔を飾る彫刻の向こうに顔を覗かせていたのは、ジークフリートだった。
「おい、無事か?」
「ジーク」
アミュウが埃よけの格子窓に取りすがると、ジークフリートは行く手を阻む彫像に手をかけ体を支えて、右足を引いて窓を蹴破る素振りを見せた。
「下がってろ」
「だめよ、彫刻が傷付くわ」
慌ててアミュウが制止すると、ジークフリートは彫像から手を離した。いま初めてそこに美術品があったことに気付いた様子で彫像をしげしげと眺めてから、彼はアミュウに訊ねた。
「なぁ、空間転移とやらでここから出られるんじゃないのか? それとも、何かされたか? 具合でも悪いのか?」
ジークフリートの目が格子越しにアミュウを射抜く。しばらくぶりの再会だが、変わらない温かさがアミュウの胸に迫ってきた。
「大丈夫、元気よ。ただ、私がここからいなくなると、聖輝さんの立場が悪くなる気がして……」
もしかしたら、お目付け役のアニータにも迷惑がかかるかもしれない。昨日は針、今日はナイフを預けてきた彼女を思うと胸が痛んだ。武器になるようなものを渡したのは、彼女が幾ばくかの信頼をアミュウに置いているからなのだろう。そのぶん余計に、後ろめたさが重石となってアミュウの心に沈んだ。
ジークフリートは呆れたように息を漏らして笑った。
「平気だろ、あいつなら」
「そうでもないわ。だいぶ体力が落ちてる。空間転移術も、もう使えないみたい」
アミュウの訴えに、ジークフリートの口元から笑みが消えた。
「まじかよ。ああ、それで逃げられないのか」
アミュウは頷く代わりに視線を落とした。窓の淵の置いた燭台の蝋はすべて溶けきっていたが、まだ火は消えていない。芯を燃やして、細い炎がまっすぐ揺れずに立ち上がっている。
「――助けに行ってやらねえのか?」
ジークフリートの声に、アミュウを責めるような調子はどこにもなかった。アミュウは再び顔を上げ、蝋燭の灯りからジークフリートへと目を向けた。こちらを見る目は、いま眺めていた炎の色と少しも変わらず、まっすぐで温かい。アミュウは思わず訊き返した。
「聖輝さんがここから出てしまったら、ナターシャにとって都合が悪いんじゃないの」
ジークフリートの表情に迷いが浮かぶのをアミュウは見逃さなかった。「ならどうして」と口を開きかけたが、その顔がだんだんと歪んでいくのに気が付いて、それ以上は訊ねることができなかった。彼は二度、三度を瞬きしてから星空を見上げた。
「俺はいま、王女付きの護衛ってことで、あいつと一緒に動いてる。聖輝にウロチョロされたら邪魔だっつーのは、まあ、そのとおりだろうな」
彼の横顔は、知らない人のようだった。ここまで駆け付けてくれた優しさ、まっすぐさは、以前と変わらないが、全く変わらないわけではない。彼と別れたのはほんのひと月前だった。アモローソと行動を共にするようになったのはつい最近だろうが、わずかな時間でジークフリートのどこか中心に近い部分が変わったのだろうという理解が、不意にアミュウの胸に下りてきた。条件反射のような悲しみが沸きあがったのは一瞬のことで、それでいいのだ、という納得感が自然に広がった。最も大切なひとと再会したのだ。それでいい。
とはいえ、アミュウも聖輝もずっとこのままというわけにはいかない。
「ナターシャに伝えて。私たちは王女の邪魔をするつもりじゃない、ただ話がしたいだけだって」
アミュウがそう言っても、ジークフリートは難しい顔のままだった。じっと様子をうかがっているうちに、とうとう蝋燭の火が消えた。
「俺はさ、お前も聖輝も、好きなようにやればいいと思う。その結果、もしもあいつがお前らと対立することになったとしたら――俺はきっと、あいつの側につくんだと思う」
彼はゆっくりと言葉を選んでいるように見えたが、言っていることはごく単純な内容だ。
「うん、そうしてあげて」
アミュウが肯定すると、ジークフリートはようやくアミュウの方を見た。
「でも、そうなったらあいつもお前もしんどいだろ。話をしたいっつーのはいいさ。でも今はやめてくれ」
「戦争が始まるから?」
「そうだ。あいつはこのブリランテを、第二のロウランド王国にするつもりだ」
「そんなことをしたって、誰も帰ってくるわけじゃないわ。シグルドだって、ジュスタだって」
アミュウが即答すると、ジークフリートの顔色が変わった。彼の言葉に対するアミュウの反応が早すぎたのだろう。彼は二、三度目をぱちくりと瞬かせてから肩を落とした。
「……知ってたのか」
「ジュリアーニ卿が教えてくれたわ」
ジークフリートは視線を落として何かを考え込んでいた。うつむいた顔は前髪の影が落ちてよく見えないが、アミュウはついさっき彼が知らない誰かであるように感じたことを思い出したことを胸中で否定する。知らない人ではない、シグルドに似ているのだ。顔立ちは元から似ていたが、雰囲気までもが夢の中の騎士に寄ってきているような気がして、アミュウは愕然とした。冷たい手で腸を握られているかのようだった。
ナタリアも同じだった。アモローソとしての記憶を取り戻したあと、姉の中の大部分が王女へと変わっていってしまった。そんなナタリアのそばにいることで、ジークフリートまで変わっていってしまうのだろうか。
やがてジークフリートは、じっと閉ざしていた口を、小さく開いた。
「あいつの前で、シグルドやジュスタの名前を出さない方がいい。知ったような口を利くと、あいつはますますお前から離れていくと思う」
ジークフリートの口調は静かだったが、アミュウは何も言い返すことができなかった。
(違う、そういうつもりじゃない)
否定の意を言葉にすることができないままジークフリートを見ていると、彼はふっと目をそらした。
「悪い。やっぱりお前らをここから出してやれねぇ……今のお前をあいつに会わせたら、良い方に進まない気がする」
アミュウは耳を疑った。ジークフリートまでもが離れていく。クーデンで彼と別れたときとは比べようもない痛みが、鳩尾を突き上げた。
「待って……行かな」
「無事を確認できてよかったよ」
アミュウの制止を最後まで聞かずにジークフリートはくるりと背を向けて、そのまま屋根を滑りおりていってしまった。アミュウは呆然としてその姿を見送った。彼の燃えるような赤毛は闇の中へとあっけなく沈んでいった。