8-11.大天使ハニエル
ラファエロの言ったとおり、翌朝の食事にはパンに加えてスープがついていた。具といえば玉ねぎの切れ端が浮かんでいるだけの質素な汁物だったが、温かいスープがお腹に入ると、随分気持ちが落ち着いた。体が温まってきたところで、アミュウはあらためて今が春であることに感謝した。あと一か月も前にここに放り込まれていたら、ひとたまりもなかっただろう。
余裕が出てくると、退屈がアミュウを苛んだ。九時の鐘ののち、昨日の尼僧が見回りにやってきた。倦んでどうしようもならないアミュウが、手慰みに壁を磨いているのを見た彼女は、あきれ顔を隠さなかった。何やら足早に屋根裏部屋を出て行ったあと、木箱いっぱいの銀器を抱えて再び姿を現した。お陰でアミュウは、長い午後を有意義に過ごすことができた。儀式用のものなのか、あるいは来客用のものなのか、カトラリーやら皿やらを磨いているうちに日が暮れていく。夕食を運んできた尼僧がぴかぴかに磨き上げられた品々を手に取ると、目を見開いて驚いてみせた。
「随分と勤勉なこと」
そう言った彼女は、翌朝は繕い物の山を持ってきた。すりきれたり、ほつれたりした衣類を直すようにとのことだった。尼僧が行ってしまったあと、アミュウは一枚一枚の服を検めた。僧衣のほか、兵士用の汗取り用の肌着も数多く見える。大小さまざまで、男ものもあれば女ものもあった。
古の魔法には刺繡を媒介とするまじないもいくつかある。母親のいないカーター家では、ナタリアはイルダから、アミュウはメイ・キテラから裁縫を習った。アミュウは細かな作業を得意としていたが、少しの刺繍を綺麗に仕上げるのと、大量の繕い物にあて布を施すのとでは、針の進め方がまったく異なる。慣れない仕事にアミュウは四苦八苦した。夕刻、アミュウが仕事を片付けられなかったのを見て取った尼僧は、咎めることもなく、処理の済んだ山も済んでいない山も、屋根裏部屋から運び出していった。
(別にしょげることじゃないわ)
無理矢理閉じ込められたうえに、雑用を押し付けられているのだ。頼まれごとをやり遂げられなかったからといって、どうということはない。それでも気落ちするのを止められないまま硬いパンをかじっていたアミュウは、扉の前に何かが落ちているのに気付いた。近付いてみると、小さな円盤状の木彫りの細工だった。つまみあげて観察すると、素朴な天使の像が刻まれている。裏面には文字があった。宵の迫る陰のなかで苦労して読むと、「大天使ハニエルの加護をアニータに」とある。尼僧の落とし物だろうか。
アミュウにはこのような木製のメダルに心当たりがあった。嵐の海からジークフリートを救出したあと、彼に贈ったハシバミのメダルと似たようなものだろう。
翌朝、いつもどおり雑用を一山抱えてやってきた尼僧にメダルを見せると、彼女の顔からふっとこわばりが抜け落ちた。
「ありがとうございます。ここに落としてしまっていましたか」
アミュウは恐る恐る訊ねてみた。
「あの……アニータさん、というお名前なんですか」
「ええ」
彼女は大事そうにメダルを指先で撫でながら頷いた。
「素敵なお名前ですね」
「ハニエル様のお名前にあやかっているのです」
ハニエルという名前とアニータという名前の語感に特段のつながりを感じられず、アミュウはぽかんと口を開けた。呆けているアミュウに、アニータはメダルを見せた。
「遠い昔、夫婦神がこの地に降り立つより前に使われていた言葉に、『ハンナ』という語がありました。意味では『神の恵み』……ハニエル様のお名前はここから来ているのだと。アニータというのは、長い時を経てこの『ハンナ』という言葉が変化した形だと聞いております」
「ああ、そういえば『H』は発音しないことがありますね。ソンブルイユではよくありました」
合点のいったアミュウが相槌をうつと、アニータも頷いてみせた。
「ソンブルイユ地方では、ハニエル様はアニエルと呼ばれているそうですね――ああ、子音が変わってアリエルとかアミエルという形もありましたっけ。広く親しまれている天使様なので、色々なお名前で呼ばれていますね」
アニータが語る天使の名を耳にしたとたん、アミュウの体を迅雷が駆け抜けた。動けずに固まっているアミュウにアニータは気づかない様子で、大量の芋の山とナイフを残して去っていった。
アミュウはごろごろと一塊をなす芋にぼんやりと目を向けていたが、その目には何も見えていなかった。耳には天使の名が繰り返し鳴り響いている。アミエル。アミエル。アミエル。得体の知れない懐かしさがその響きに充満していたが、甘美なノスタルジアに浸る気には到底なれず、不思議を通りこして不気味ですらあった。アミュウの耳は瞬時にその名こそが自身の本来の名前であると判決を下していたが、頭の理解が追いつくのにたっぷりの時間を要した。
アミュウはいつの間にか寝台のふちに座り込んでいた。目の前の木箱に積まれた芋の山が、芋であると理解するころには、アミュウは思考を整理する言語機能を取り戻していた。
(間違いない。私は昔、アミエルと呼ばれていた)
どんな声がその名を呼んでいたかは思い出せない。しかし、確かにその名で呼ばれた記憶がある。それがいつのことなのかも分からないが、今の今までその記憶が蘇らなかったことを考えれば、おのずと答えが導き出される。カーター・タウンにやってくる前の記憶なのだ。
セドリックに拾われたとき、アミュウはまだ言葉がおぼつかなかったらしい。それでも名を問われると「アミュウ」と答えたという。だからアミュウは「アミュウ」と呼ばれるようになった。そのことを深く考えたことはなかった。自分がどこから来たのかよりも、いかにして新しく得た環境に慣れていくかのほうが重要だった。幸い、アミュウを庇護してくれる人は少なくなかった。カーター家に人々やイルダ、ヴィタリー、そして師メイ・キテラ。彼ら彼女らがアミュウと呼ぶから、アミュウはアミュウなのだ。
しかし、思い出しようのなかった名前の記憶が引きずり出されると、自身の存在の軸がぐらりと傾ぐ。
(私を『アミエル』と呼んでいたのは、親というべき人たち? 私はどうして森にいたんだろう。どこから来たんだろう)
答えが出るはずもない問いを繰り返しながら、アミュウはひたすらに芋の皮をむいた。泥にまみれた皮の下から現れるでんぷん質の白ははっとするほど美しい。階上の窓からふってくる日光を受けてきらめく地下茎を、アミュウは今はじめて目にしたかのように眺めてから、処理済みの木箱にぽいと放り投げる。
つい先刻までとは、違う世界を生きているような気がした。様変わりしたのは世界でなくアミュウの側なのに、アミュウは世界に違和感の原因をなすりつけたくなった。しかし、激しい動揺が単純作業の波にからめとられて、やがて引き潮のようにおさまっていくと、アミュウはひとり恥じ入るのだった。拾われっ子である事実はとうに引き受け、消化したはずだったが、駄々をこねて泣いている幼な子がいまだに自らのうちに棲みついているというのが情けない。今、こうして屋根裏部屋に閉じ込められていてよかったとすら思う。アミュウは、自身の動揺をナタリアとセドリックにだけは気付かれたくなかった。心優しい家族たちは、アミュウの迷いをすぐに察してしまうだろう。彼らの親切を裏切ることだけは、したくなかった。
屋根裏部屋はゆっくりと暗くなっていく。夕食の支度のためか、アニータはいつもより早い刻限にやってきた。彼女に剥いた芋の山を渡してしまうと、アミュウは途端に手持無沙汰になった。すると、耳の奥でリフレインが始まる。鳴りやむことのない天使の名に耳を塞ぎ、アミュウは寝台の上で身を縮めた。やがてアニータが夕食を持ってきても、アミュウはまだアミエルの名に怯えていた。
アニータが持ってきた蝋燭は一本きりだった。ごく質素な燭台を片手に、アミュウは慎重に螺旋階段を上った。埃よけの格子窓はやはり外れない。目の粗い格子の向こうに星を透かし見て、アミュウは自身と同じように拘束されているであろう聖輝の身の上を思った。弱った彼に空間転移は無茶だろう。アミュウがここから逃げ出すのはさほど難しくないはずだが、残された聖輝への当たりが強くなってしまわないか、心配だ。
窓の淵に燭台を置いて、アミュウは螺旋階段に腰をおろした。石の階段に尻の体温が奪われていくのも構わず、アミュウは星が空を渡っていくのをじっと眺めていた。




